【11】父の苦悩
「待って、くださいっ! ……あうっ」
あまりにも慌てて駆け寄ろうとしたので、ローザはつんのめって、転んでしまった。
鼻がツン、として涙がこぼれる。
本当に情けない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
クロードの今後も大事だ。でも何より、二人が険悪になることは望まない。
同じ師をもつ二人は、なんのかんのと言い争っても、とても良い関係を築けているように思えるのだ。
しかし今回こそは本当にどうなってしまうか、ローザには分からない。
ローザは鼻を啜りながら、ヨロヨロと立ち上がる。
涙でぼやけた視界の中、馬車に乗りこまなかったジョヴァンニが、ローザに歩み寄るのが見えた。
「謝らないでください、ローザ。私も悪かったのです。いい歳をした大人なのに、こどものように意地を張ってしまいましたね」
彼は困ったように、眉尻を下げると手を貸してくれた。
ローザが立ち上がったのちも、片膝をついて、目線を合わせようとしてくれる。恐ろしさは抜けて、いつもの優しいジョヴァンニに戻っていた。
けれど、ローザは申し訳なさでいっぱいで。視線を合わせることはできなかった。
「違いますっ、ジョヴァンニさまは、何も悪くなんて、ないんです……! あたしが、ただの画家だったら、チェスターさまはあそこまで怒らなかったし、何も問題だって、なかったのに……。あたしが、着いていかなければ、あたしが、いなければ……」
「それ以上、言ってはいけません」
ジョヴァンニは強い口調で遮ると、ローザの手を優しく握る。
昔、泣きベソをかいていたとき、おばあちゃんも同じことをしてくれたなぁ、とローザは密かに懐かしく思った。
「ローザ、君に過失はありません。過ちがあったとすれば、私の判断です」
「ジョヴァンニさまの……?」
ジョヴァンニは困った困ったと言わんばかりに、頬に手を当てて続けた。
「今となっても、君に間違えた師をつけてしまったのではないかと、己の判断の疑うことがあります。あれは、画家としては手のかからない『良い子』です。残念なことに、そうではない部分に、問題がありすぎる『悪い子』でもある」
ただ、と何かを言いかけて。ジョヴァンニは閉口する。
彼の瞳はクロードの部屋に向けられている。
ぴったりと隙間なく閉められた窓とカーテン。
部屋の主の姿は見えないが、彼の瞳には映し出されているのだろうか。彼が可愛く思う、我儘でちょっと困った王子様が。
「本人の生まれついての資質もあるのでしょうが、あれは生い立ちが特殊です。多少は、妖精のように気まぐれで、身勝手な性質を持っているのも頷けます」
「……先生の、生い立ち?」
ローザが鼻をグズグズと啜って聞き返すと、ジョヴァンニは緩やかに首を振る。
「おっと。我を忘れて、言葉が過ぎました。忘れてほしい、と言いたいところですが」
「?」
どうしたというのだろう。彼は整った顔に、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
ジョヴァンニにしては、ちょっと珍しい。けれど、イタズラを目論む表情は、兄弟子と弟弟子でどこか共通するものがあった。
「いえ、やはり腹立たしいから、少しだけ、口を滑らせてしまいましょう。機会があれば訊ねてみるといい。あなたは〈妖精の愛し子〉ですか、と」
「妖精の、愛し子……?」
ローザは目を瞬かせた。
その言葉は初めて聞いたようにも、どこかで聞いたことがあるようにも思えた。
ラファエラは数多くの『妖精國物語』を教えてくれた、その中にあっただろうか。
ローザは俯きがちに黙り込み、静かに思考を巡らせる。
その沈黙を目にして、ジョヴァンニは少し経ってから、訊ねた。
「もし君が望むのであれば、という前提で話しますが。師を、変えましょうか?」
「え……?」
ローザは顔を跳ね上げる。
ジョヴァンニの表情は一転して、真面目なそれへと変わっていた。
「君は『異端』の画家ですが、私はその才能を認めています。これは決して、お世辞や君への励ましなどではなく、純粋な本心です」
嘘ではないだろう。ジョヴァンニの真剣な眼差しを見ていると、分かる。
「君のような、未知なる才能を持つ、若き画家の芽が摘み取られるのはあってはならないこと。才能があるものと、同じく、才能があるもの。互いに良い相乗効果を生み出すものだと思い込んでいましたが、そうそう、うまくいく話ではありませんでしたね」
一方的に捲し立てるジョヴァンニの剣幕に押され、ローザはただただ耳を傾けるしかできない。
「今回の仕事は断ります。それから、君には新しい師をつけましょう。急な話ですから、すぐには見つからないでしょうが。しかし、私は優秀な弟子を何人か抱えていますし、その手の伝手もありますから、しばらく検討してみます。そうとなれば、君の住居も移す必要もありますね。私の所有している別邸に住みましょう。今は誰も住んでいないので、世話をするものも同行させます。私の家に客人として招くのも悪くはありませんが……こちらは家族の了承を得なければならないので、難しいのです。ただ、顔は毎日出すように努力しますので。我が弟弟子風に言うなら、一生君を困らせることはないと、約束します」
ジョヴァンニは一気に言い切ると、重々しく溜息をついた。
「それにしても、いったいどういう心境の変化なんでしょう。一番がどうとか、今までそんなことを口にしたこともなかった子が。何を言われても、平然とした顔をして……はいませんでしたか……。しかしそれが、今になってどうして……」
いつの間にか話題は、弟弟子の愚痴に移っている。
憂鬱に愚痴る様子は、反抗期の息子を持つ父親のようだった。
「あ、あの。ちょ、ちょっと、待って、くださいっ」
ジョヴァンニの話題がクロードに移ってようやく、ローザは絞り出すようにして声を出すことができた。
堰を切ったように、次から次へと言葉が止まらなかった彼も、ローザの制止に気づいて、口を閉ざす。
「あたしは、先生を、クロード先生から、変えるつもりはありませんっ! あのひとを、師と呼びたいです! それにっ」
「……ほう。それで?」
ジョヴァンニは形のいい眉を軽く動かし、続きを促した。
「それに、ギレッドさまの依頼も、請けます!」
「君が自身の進退を気にしてそのように言うのであれば、何も気に病むはありませんよ。君の自由や尊厳を、私は守るよう努めますので」
「い、いえ。あたし自身が、クロード先生を、望んでます。あの人は。あたしを画家として認めてくれてます。あたしがアデルさまの〈星葬画〉を描けると、言ってくれた。あたし自身が無理だと思ったのに、先生だけが、そのように考えてくれたんです……」
ローザはぎゅっと目を瞑る。
クロードの挑発的な金色の瞳が、ローザの瞼の裏にくっきりと浮かんだ。
彼は疑いもしない。ローザが〈星葬画〉を描けると、信じている。
「期待を裏切るのは怖い。でも同時に、あたし、嬉しかった、です。あたしは『異端』の画家で、多くのひとには認められていない、から……」
「……」
「あたし、ギレッドさまだけじゃない。先生の期待にも、答えたいです。だから、依頼を請けたい。あのひとに、あたしの描き上げた〈星葬画〉を見てもらいたい」
不純な動機かもしれない。
〈星葬画〉を描く理由は祈りだと、クロードも言っていたのに。
もちろん、ローザもそのように思う。
その一方で、期待に答えたい気持ちもあるのだ。
どこか苦い表情で、ジョヴァンニは呟く。
「……言い訳じみて聞こえるかもしれませんが、私も、君に〈星葬画〉が描けると信じていますよ」
「はい。あたし、ジョヴァンニさまの期待に、応えたい、です……!」
不安な気持ちはある。重責に押しつぶされそうになる。
それでも、信じてくれるひとがいるというのは、ローザにとって、何よりも力となる。
ローザの不安を感じ取っているのだろう。ジョヴァンニは優しい声色で口にする。
「君に与えられる数々の中傷は、君の名誉を傷つけるだけのものではない。君が立ち向かう数多もの試練は、ただただ不条理なだけのものではない。繰り返しますが、私は君が立派な画家になれるよう、応援しているし、信じています」
「ジョヴァンニさま……」
ジョヴァンニは苦笑を浮かべた。諦めているようで、しょうがないなぁと納得しているようにもとれる表情だった。
「完敗です。強情な君たちに、勝てません。本当に手の焼ける、こどもたちだ。……今回の依頼も受け入れてもらうよう、客先には話を通しましょう」
「あ、ありがとうございます……!」
再び涙がこぼれそうになったけれど、ローザは懸命にこらえた。
情けない姿を見られては、ジョヴァンニを心配させてしまう。
ですが、とジョヴァンニの声色が真剣なそれへと変わる。
「『もしも』の可能性は考えていてください。君が、アデル・ギレッドの〈星葬画〉が描けなかったときのことを」
「はい。〈星葬画〉を描くことができなかったら。あたしは、画家になることを諦めます」
「はぁ。潔いところも、君の先生にそっくりだ。悪いところばかり、学ばないようにしてほしいのですが……」
ジョヴァンニは苦笑交じりに言う。
「その『もしも』がないことを、願っています。ローザ」
ジョヴァンニはローザの頭をぽんぽん、と撫でると、身を翻し、馬車に乗り込んだ。
馬車が遠く見えなくなるまで、ローザはその姿を見送った。
(がんばろう)
「……がんばろう」
思うだけではなく、実際に声に出してみると、存外小さな声だった。
「がんばろう……がんばる……がんばるぞっ!」
ローザはさらに声を張り上げた。
誰も聞いてはいないだろう。それを聞かせるのは、ローザ自身だ。
クロードも、ジョヴァンニも。ローザを信じてくれている。
その想いを裏切ることはできない。彼らの期待に応えることで、報いたいと思うのだ。
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