【10】兄弟子と弟弟子の幼稚な大喧嘩

「はぁぁぁぁぁぁぁぁ……」


 ジョヴァンニはローザがこれまでに聞いたことのない、とても疲れ切った声色で呻き声をあげる。

 もともと仕事の段取りと、ローザのここ数日の様子を聴き取りするために、クロードの家を訪問して、話をする予定はあったらしい。

 応接室の机に肘をつき、両手で目元を覆う彼は、今日一日ですっかりとやつれているようにも思えた。

 あの優雅で上品な佇まいの彼からは、想像もつかない姿だ。蜂蜜色の髪は、綺麗なリボンで結われていたのに、今ではぐしゃぐしゃにかき乱されている。

 ともあれ、あのキリキリと胃が痛くなるやり取りを思い返せば、ローザも同じ気持ちである。

 どっと途方もない疲労感に襲われ、長椅子にぐったりと力なく沈み込む。


「アホな弟弟子のせいで、頭が痛い……」


「家に帰って寝たら? お大事に」


 まるで他人事のように、葡萄酒を自らの杯に注ぐクロードには、客人をもてなす心は一切ないらしい。

 ついには堪忍袋の緒が切れたのだろう。

 ジョヴァンニはギラギラと血走った目つきで、余裕をふかす弟弟子を睥睨する。


「私の我儘で手の焼ける王子様? その原因が誰にあるか、理解しています?」


 丁寧な口調ながら、凄みを利かせた声で問いただすジョヴァンニの前に、ローザはビクビクと震えあがりながら、淹れたてのお茶をそっと差し出すことしかできない。

 一方クロードは、「髪型はやっぱりこっちの方が良かったね」と、隣に座るローザの髪の毛をおもむろに結び直し始める。

 その空気の読まなさに、ローザのお腹はいよいよ本格的に痛み出した。


「できた。ふふん、朝は時間に余裕が無くて妥協したけど。この方が、より清楚に見える」


 その出来栄えにクロードは満足げに頷くと、言った。


「明日から、僕がおまえの髪を編んであげる。今日は一日、その髪型でいてね」


「はい……」


 ローザはもはや抵抗する気も起きなかった。

 普段であれば、視界がばっちりと開かれる髪型も、クロードの手を煩わせることも、嫌だと控えめながらに主張しただろう。

 ローザの専任髪結、もとい絵の先生は、今度はいそいそとスケッチの準備を始める。こんな時なのに、絵の資料用に残すのだろう。マイペースがすぎる。


「ああ、そうでしたね!」


 お茶を飲み干してなお、ジョヴァンニの怒りは一向に収まらなかった。


「昔から君は、そういう人間でしたね! 土壇場になって、ああしよう、こうしようと話をひっくり返す、とんだ気分屋の悪童ではありませんでしたか! それで先生も私も、いつも手を焼かされていた!」


 金切り声を上げて、怒りを巻き散らす彼を前にしては、ローザには弟弟子に振り回され、悔しそうに地団駄を踏む在りし日のジョヴァンニの姿が、容易に想像できた。


(ジョヴァンニさま、大変だったんだろうな……)


 師トラヴィスが亡くなってからは、ジョヴァンニひとりで面倒を見ていたのだろう。ローザが思わず同情の眼差しを向けていると、クロードは感心した口ぶりで言う。


「さすが兄弟子だね。僕のこと、よく理解してる」


「……チェスター・ギレッドは、相場の三倍の金を提示しました。それが、今回は無償で引き請けざるを得なくなったのですよ」


「三倍? ずいぶんとふっかけたね。生粋の商売人を相手に」


「それだけ『国一番の画家』、クロードの絵には資産価値があるということです」


 国一番に、やけに力を込めてジョヴァンニは言う。

 鼻の頭に皺を寄せるクロードを一瞥して、ジョヴァンニは続けた。


「それを、まだたったの一枚しか〈星葬画〉を描いていないピカピカの若手の練習台になってくれと、厚顔にも言い放ったどこかのバカのせいで、ご破算になりましたが。逆に違約金を払わなければならないでしょう、莫大なそれをね」


「違約金? なぜ?」


 わけが分からない、という顔をしながら、クロードは言い切った。


「チェスター・ギレッドは賭けに応じた。結果負けたのは彼の方なのだから、僕らは相場の三倍を、報酬として受け取る権利があるよ」


「君、画家を名乗るのをやめたらいかがです? そうだ、詐欺師なんてどうでしょう? 適性がありますよ」


 ジョヴァンニは整った顔にうっすらと笑みを浮かべて提案する。怖い。

 対してクロードはスケッチの手を止めて、ゆっくりと顔を上げた。無表情だ。怖い。


「画家を辞めろ? おまえは一方的に指図できる立場なの?」


「ああ、年中引きこもりの君はご存じないでしょうねぇ」


 ジョヴァンニは鼻でせせら笑う。


「幸いにも私は画家組合〈ミュトス〉の長を名乗らせていただいている身です。その上、この業界の顔役も担っている。君を追放して、仕事を与えないよう手を回すことは、造作もないのですよ」


(うわぁ……)


 ローザはちょっと引きながら、ジョヴァンニの顔を見た。

 普段は温厚を体で表しているようなジョヴァンニは、今では完全に悪役の言動である。

 だが、追放を言い渡されたクロードも負けてはいない。


「へえ。できるものなら、やってみれば? 僕がいなくなった唯一の穴を埋められる者がいるとは、到底思えないけれど」


 ピリピリと肌を刺す、ふたりの間に割って入るのは、だいぶ気が引ける。

 しかし事の発端はローザにもあるのかもしれない。

 チェスターに賭けを提案したクロードを止めることができていたら。

 そもそもあの夜、「あたしは正しい画家か?」と問いかけなければ。ここまで複雑な話にはならなかったはずだ。

 だからローザは、なけなしの勇気を振り絞った。


「せ、先生っ」


「何」


「いっ、今からでも、謝りに行きません、か? ギレッドさまから、せっかく依頼されたんです、その期待を、裏切れ、ないです……」


 半ば涙目になりながら懸命に説得を試みるも、ローザの言葉に、クロードは分かりやすく機嫌を損ねる。


「おまえは慕うべき師よりも、横暴な権力に従うの?」


「そっ、そんなつもりじゃ……」


 横暴なのはむしろ慕うべき師のほうでは、という言葉を、ローザはギリギリのところで飲み込んだ。


 横暴な師ことクロードはフン、と鼻を鳴らすと、弟子を半眼で睨みつけた。


「もう既に決まったことを、覆すつもりはないよ。だいたいおまえは、期待を裏切ると初めから諦めているの?」


「……えっと、その。だって、あたしには荷が重すぎ、ます……」


 モジモジと頼りなく呟けば、クロードはこれ見よがしに溜息をこぼした。


「へぇ。僕はおまえの能力は十分にあると認めているのに。その師の判断が間違っているとでも言いたいんだ?」


「そ、そんなぁ⁉ 間違って、ないです……」


「だったら、描けるよね?」


「……」


「ねぇ」


「…………そ、それは、難しい、かとぉ……」


「何? おまえの声、小さくて聞こえないよ。僕に聞こえるように、言ってくれる?」


 クロードの美しい顔がぐいっと目の前に迫る。ローザはひえっと小さく悲鳴をあげた。怖くて怖くて、もう失神してしまいたい。


「ローザ。その男に構う必要はありません。こうなってしまっては、これは、誰の言葉にも耳は貸しませんから」


 ジョヴァンニはおもむろに立ち上がると、そのまま、応接室を出て行こうとする。


「帰るの?」


 ローザに覆い被さろうとする距離のまま、顔だけを向けて、クロードは問いかける。


「今日のところは、そうさせていただきます。君の今後の進退については、後日じっくりと話すことにしましょう」


「へぇ。望むところだよ」


 ジョヴァンニの言葉には怒りが滲み、本気が見られた。

 なのにクロードは、喧嘩腰にその挑発に乗る。

 これはまずい。相当にまずい。


「えっ、えっ、ジョヴァンニさま⁉」


 しかめ面のクロードを押しのけて、ローザは慌ててジョヴァンニの後を追いかける。

 バタバタと家を飛び出して見えたのは、今にも馬車に乗り込もうとするジョヴァンニの姿だった。


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