【9】願う者に、一番も二番もない

(どうしよう、どうしよう……。よく分かんないけど、先生が画家を辞めちゃうの!?)


 一週間にして、ローザは師匠を失うのだろうか。

 その師匠の、思い悩んだが故の、突飛な行動によって。

 波乱の展開に、重い静寂が満ちる。

 それを破ったのは、クロードだった。


「……と考えていたけれど、やっぱり止めた」


「……は?」


「だって、画家を辞めたら、僕の唯一の目的は果たされない。よく知りもしない人間に、僕の進退を決められるのも、癪だしね」


 クロードは顎に細長い指を当てると、閃いたように言う。


「そうだな、こうしようか。もしチェスター・ギレッドが正解に辿り着けたら、僕はアデル・ギレッドの〈星葬画〉を描く。アデル・ギレッドに限らず、君が望むだけの〈星葬画〉を描こう。何なら、ギレッド家の専属画家になってもいいよ」


「専属画家だって!? バカっ、君っ、自分の言っていることの意味を理解しているのです!?」


 もはや好き放題やりたい放題のクロードに、はたして専属画家なんて務まるのだろうか……とローザは密かに思ったが、やはりとてもではないが、口を挟める雰囲気ではなかった。

 オロオロしながら、経過を見守るしかできない。


「うん。分かってる。それだけの覚悟だってことだよ。でも、不正解なら、僕の弟子に〈星葬画〉を描かせる。これは絶対だ。その時はチェスター・ギレッド。おまえに拒絶する権利はない。いい機会だ、僕の弟子の、華々しいデビューの場とさせてもらうよ」


 クロードは美しい顔に不敵な笑みを浮かべている。

 ローザはジョヴァンニに、深く深く同情した。

 当の本人は、もう泡を吹いて倒れる寸前に見える。

 クロードはチェスターに向かうと、挑発的に言い放つ。


「チェスター・ギレッド。これは賭けだ。乗っても乗らなくてもいい。乗らない場合、僕たちは依頼を請けない。帰りの馬車の用意だけ、頼んでもいい?」


 チェスターの返事はない。

 クロードはせっかちだ。立ち上がり、ローザに手を差し出した。


「仕方がない。途中で馬車を拾ってもいいね。天気もいいし、歩いて帰るのも悪くないかな」


 この男、もう既に帰る気でいる。

 ローザはすっかり困り果てて、チェスターとクロードの顔を交互に眺めた。


(帰っちゃうの……? か、帰っちゃっていいのかな……?)


 ローザの指先がクロードの手が触れそうになったその時、チェスターが叫んだ。


「ま、待ってくれ……!」


「それって、賭けに乗るってこと?」


 クロードは立ったまま問いかける。

 止めつつも、チェスターは考えあぐねているようだ。


「愛する妻への、最後のプレゼント。最高の〈星葬画〉を渡す機会を、永遠に失ってしまっても、いいの?」


 クロードの囁きが、とどめの一押しになったのだろう。


「…………分かった。君の賭けに、乗ろう」


 チェスターの声は小さく掠れていたが、クロードにはきちんと聞こえたらしい。

 彼は満足げに頷くと、長椅子に座り、足を組んだ。

 彼自身が言うように、『国一番』の言葉が独り歩きしているのは、事実なのかもしれない。

 だが、実際にそれに恥じない実力を持つことも、また事実なのだろう。

 並べられた二枚の絵を眺めて、ローザはひっそりと溜息をついた。


(先生は、絵を描くのがうまい)


 そして、話の持ちかけ方も、うまい。

 これでは、チェスターの分が悪いではないか。

 ローザはジョヴァンニをこっそりと盗み見る。彼も思うところがあるのか。無言で、チェスターの回答を待っている。

 チェスターは二枚の絵を何度と見比べて、それのどちらがクロードの作品ではないか、はっきりと答えられるほどの自信がないのだろう。青白い顔からは、ダラダラと、滝のような汗を流している。

 専属画家を抱えるのは一部の貴族や商人に限られる。加えて、『国一番の画家』を手にすることができるのであれば、彼の今後に、大きな影響を与えるに違いない。

 そして彼は盲信的なほどに、クロードの――『国一番の画家』による〈星葬画〉に、執着しているのだ。

 長いようで沈黙は短いようにも思えた。どれくらい時間が経ったか、分からない。

 しばらくして、チェスターは震える右手で指し示す――左の絵だ。


「……こっちが、僕の描いていない方だと、選ぶの?」


 チェスターは迷いながらも、苦々しい表情で頷いた。


「そう。……残念。外れだよ」


 チェスターは呆然として言い返す。


「そんな……! こちらの方が、線が、空間の使い方が、未熟だろう!?」


「そう誤解するように描いたんだ。僕はすごい画家だから、未熟な画家の模倣もできる」


「え……?」


「上手いだろう。どちらも、僕の描いた絵だよ」


 けろりと答えたクロードに、チェスターは目を見開いた。

 それからブルブルと怒りに躰を震わせて、怒声を響かせた。


「どういうことだ、クロード・スノウ! 君の描いていない絵を当てろ、という話だっただろう!?」


 クロードは悪びれた様子もなく頷く。


「うん。そう言ったね」


「どちらも君が描いているとは、言わなかったではないか! 不公平だ」


「賭けた結果に不公平も何もないよ。結果がすべてだもの」


 それに、とクロードは唇を歪ませて続けた。


「本当に真贋のわかる人間であれば、正解を導きだせたはず。チェスター・ギレッドにはそれができなかった。だから、僕の絵である必要は、ないということだ」


「……認めるものか、アデルの〈星葬画〉は、最高の〈星葬画〉であるべきなのだ……!」


 チェスターは今にも、クロードに飛び掛かりそうな勢いだった。


(どうしよう、どうしよう……!)


 ローザは、どちらもクロードが描いた絵だと、初めから気づいていた。

 片方は、ローザの完璧な模写ではあったが、それでも細かいところは、ローザの描いた絵と一致しない点が見られたからだ。

 彼の問いかけが、だいぶ彼に有利であることに気づいてもいた。

 それは、ジョヴァンニも同じだろう。

 彼は驚いた様子もなく、視線を細めて、ただただ現状を受け入れているように思えた。

 クロードのやり方は卑怯だけれども、……それでもローザには、クロードの気持ちはわかるような気がする。

 彼の絵を知っているのであれば、正解に辿り着けた。クロードの名声にこだわるチェスターだけが、辿り着けなかった。

 その事実を覆すことはできない。


「チェスター・ギレッド。僕は画家だよ」


 クロードは冷静に、淡々と口にする。


「画家は、絵が描ければいい。それでいい。おまえたちは無自覚かもね。一番か、二番か。そういう物差しで計りたがるのは、大抵が画家本人ではなく、部外者なんだよ」


 クロードは左の絵を上に、キャンバスを重ねる。

 木枠の机を叩く音が、妙に重く聞こえた。


「ひとつしか知らなければ、それが一番になる。それが一番だと思い続ければ、簡単には覆せない」


 それから再び、クロードはキャンバスを横に並べる。


「多くを知れば、一番を選びたがる。最も優れた者に追いすがる。それは愚行でしかない。僕たち画家でさえ、一番を定めない。それは、魂の優劣を決める、ということだから」


 チェスターは何かに気づいたように、ハッと息を呑む。


「僕がこれまでいくつの〈星葬画〉を描いたか、知ってる?」


 おそらく、十や二十では足りないだろう。彼はそれだけ求められていたのだ。

 クロードはチェスターの言葉を待たず、続けた。


「おまえにとっては一枚の、唯一の、最高な〈星葬画〉でも。僕からすれば、数ある〈星葬画〉のうちの一枚でしかない。何十枚とある〈星葬画〉に順位をつけるとしたら、必ず、一番ではないものが生まれる。簡単な理屈だね。一番以外は、一番にはなれない。だから、『国一番の画家』に依頼した実績があったとして、それはたくさんのお金を積んで依頼したおまえにとって、名誉なことなの?」


 チェスターは言葉を詰まらせているようだった。


「僕たちは、一番になるために、一番にさせるために〈星葬画〉を描いているわけではないのだから。それは、祈りなんだよ」


 チェスターは茫然としたように呟く。


「祈り……」


「彼の者の幸せを願う。時には、残された人々の悲愴な気持ちに寄り添う。だから、彼ら妖精たちも絵に宿ってくれるのかもね? 僕の弟子ローザは、それができる人間だと、僕は知っている」


 クロードは、ローザに美しい金色の瞳を向ける。

 ジョヴァンニも、チェスターも、控えている使用人たちの視線が一斉に集まる。

 その重責は、息苦しく、呼吸すらままならない。

 けれど、まっすぐなクロードの瞳を見つめ返せば。

 何も怖いことなんてないように思えた。


「彼女は祖母ラファエラ・モッロを看取った。そして、〈星葬画〉を描いた。彼女もまた、祈れるひとだ。僕と何も違わないよ。技術は未熟だし、雛のように幼い。無垢で、時には過ちを犯すこともあるだろうね。それでも彼女は、真に魂の安寧を願えるひとだ。情熱を注げるひとだ。だから僕は、彼女を一人の画家として、既に認めているんだよ」


 それを踏まえて、と。クロードは苦悩した表情で問う。


「教えてよ。彼の者の幸せを願う『クロード』と、彼の者の幸せを願う『ローザ』にどれほどの違いがあるの? どちらも等しく、幸福を願う画家であることに、違いはないのに」


 切実なクロードの問いかけに、その場にいる誰もが、答えるすべを持たなかった。

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