【6】彼女は幼き『妖精の女王』

 錯乱したローザを部屋に送り、眠りにつくのを確かめて、クロードは自室の椅子に一人座り込んでいた。

 目の前には、ローザの描いた〈妖精画〉がある。

 妖精が、宿っている。

 正直なところ、軽い気持ちで絵を描いて、と頼んだのだ。

 ローザは一世一代の覚悟と言わんばかりの顔をしていたのが、ちょっと面白かった。

 けれど、それは途中まで。

 その少女が描く――異様な光景を思い返して、クロードは密かに溜息をこぼす。


 ***


「『妖精の女の子』の絵を、描こうと思うの」


「『妖精の女の子』?」


 おそらくクロードに問いかけたのだろうと思い、聞き返す。だが、クロードの問いかけを無視して、ローザは何やらブツブツと話し出す。


「お姫様よりも、踊り子の少女がいいな。むかし、おばあちゃんが話してくれた……そう、覚えてる? 〈妖精國〉でいちばん踊りが上手な、女の子! 可憐で愛らしくて……」


 最初こそクロードに声をかけているのかと思ったが、そうではなかった。

 彼女に言葉を返しても一向に反応が返らないのだ。


(どういうこと?)


 クロードが困惑していると、彼女のまわりには、どこから現れたのかわからない、数人の妖精が集っていることに気づく。その数は十に届くだろうか。

 手のひらに納まるこびとの姿を取る彼らは、耳がつんと尖り、背中には薄く蝶のような翅を生やしている。

 少女の姿をした妖精が、ローザの縛った髪の上で寝そべっていた。

 ローザの細い両肩や膝の上に、妖精たちは思い思いに腰かけながら、彼女が絵を描くのを楽しげに眺めている。

 彼らはときどき、口を動かしているようだ。

 何か話しているとしても、クロードには意思の疎通が叶わない。

 それは〈妖精の愛し子〉と呼ばれるクロードに限らず。人間と妖精は、言葉を交わすことができないのだ。

 しかし、ローザは妖精と話をしているように思えてならない。

 長い髪で隠れていた顔を露わに、ローザは楽しげに口にしているのだから。


「そう。普通の〈妖精画〉がいい! 特別じゃなくていい。普通、じゃないとだめなの。どうしてって? あのね、『異端』はいけないことだから……」


 クロードと話すとき、この少女はひどく自信がないように振舞うのだ。それがどうしたというのだろう。妖精たちを相手にした途端に、いきいきとしだすのだ。

 クロードはそれがなんだか、無性に面白くない。


(僕よりも、妖精の方がいいってこと? 僕は、おまえの師匠なのに)


 思えば、ジョヴァンニと話しているときもそうだ。緊張感がほぐれて、尊敬の眼差しを向けている。短い間に、随分と信頼しているようだ。

 ジョヴァンニには仲良くするように言われたが、どうすれば、この少女と仲良くなれるのだろう。

 そう思ったから、仕事が終わり、余裕が出てきたから、食事を一緒に摂ろうと提案したのだが。彼女は困ったような顔をしていた。


(僕だって……彼女と、仲良くなりたい)


 クロードがモヤモヤとしながらローザを眺めているあいだにも、はじめ描き悩んでいたのが嘘のように、彼女はするすると筆を滑らせていく。

 そして、日を跨ぐ間に、一枚の〈妖精画〉を描き終えたのだった。

 たくさんいた妖精たちは〈妖精画〉に宿った者を残して消えている。

 描き終えた彼女に、妖精と話ができるかと訊ねると、困惑した様子で「できない」と返答があった。当の本人は無自覚なのだろう。

 クロードもまさか、と思ったので、深く追及するのはやめた。

 それから、〈妖精画〉に視線を向ける。

 彼女の言葉を借りれば、いたって『普通』の〈妖精画〉だ。

 それを望んでいるようだったから、そう評した。


(いや、違うな……)


 師トラヴィスは、クロードの好きなように絵を描かせてくれた。だが本来は、師として、何らかの評価や態度で示すべきだろう。

「見習いにしてはよく描けている」と褒めて、自尊心を育てる?

「彼女はどんな妖精?」と訊ねて、妖精の話をすることで彼女との距離を詰める?

「ここは、僕ならこのように描く」と感想を述べて、師匠らしく頼れるところを見せる?


(……ラファエラは、どうだったのかな)


 訊ねたくとも、その名を口にするたびに涙ぐむ少女にそうするのは、躊躇われた。

 人間関係に乏しいクロードからすれば、何が正しいのか分からない。

 どうしたらこの少女の心に、近づけるのだろう?

 クロードはひとり、途方にくれた。

 所在なく、妖精の踊り子の少女を眺めていると、沈黙を破るように、ぽつり、とローザが言った。


「……先生。教えて、ください。どうして〈星葬画〉に、故人を描いては、いけないんですか……?」


 思い悩んだ顔をするローザに、クロードは内心たじろいだ。

 けれど正直、安堵もした。その問いかけであれば、クロードは彼女に答えを授けてあげられる。

 いずれ、その問いがクロードにも向けられることは予想していた。

 どんなに繰り返されても不条理だと受け入れがたい理屈は、クロードも身に染みて知っている。

 クロードはジョヴァンニからも説明を受けたであろう、決まり文句を口にした。

 しかし、口にしながら、彼女は納得しないだろうと考えた。ローザはどこか、クロードと根っこの部分が似ているような気がするからだ。

 まだ何か言いたげな弟子の少女の顔を漫然と眺めて、不意にひとつの憶測がクロードの胸をよぎる。


「もしかして、ラファエラも、『異端の画家』だった?」


「それは、違いますっ!」


 普段は弱気で、尻すぼみな少女からは想像できない大きな声に、クロードは驚く。

 驚いたのはクロードだけではなかった。

 彼女自身も驚いているようで、訥々と言葉に詰まりながらも、それでも彼女なりに言葉を選んで、想いの丈を吐露しはじめた。

 みずからの行いは過ちではないと疑い始め。それでも受け入れられない少女にとって、亡き祖母ラファエラ・モッロの存在はひどく大きい。

 『永遠』。それは、『異端の画家』が真に抱いていた、想いだ。

 正しい画家になれるか。そんなこと、クロードだって分かりやしない。

 だって、それは誰でもないローザ自身が決めることだ。他人がとやかく言って決めるべきことではない。

 クロードに訊ねる一方で、ローザは答えを見つけ出し始めている。

 ――『異端』であり『永遠』を求め続けなければ、絵は描けない。

 彼女に脅す意図はないにせよ、それはクロードを手招く、まさしく〈悪しき獣〉だ。

 クロードは当然、ローザに絵を描き続けてもらいたい。彼女の絵が好きだし、それ以上に〈妖精國〉により近い場所にいるであろう彼女は、〈妖精國〉の扉を開くための『魔法』が使える存在だと考えている。

 ラファエラ・モッロの〈星葬画〉は素晴らしい。

 しかし、クロードが『異端』を容認するかは、また別の話だ。クロードの理性は、素直に彼女の思想を、肯定することはできない。


(もしかして、『異端』であることが、鍵となる?)


 仮にそうであれば、クロードは『異端』を認めることができるのだろうか。

 犠牲なくして、再び〈妖精國〉の扉を叩けるのであれば、それに越したことはない。

 クロードの目的は、〈妖精國〉に再び訪れること。それを達するために、絵が描けなくなったとしたら。

 何もない。あの夜にすべてを奪われ、空白の一年と引き換えにクロードに残されたのは、不名誉な称号と、絵の才能だ。

 望み通り〈妖精國〉を訪れたところで、いまさら、すべてが取り戻せるわけではない。

 不名誉な称号と、絵の才能を手放したとき、果たしてクロードは、『クロード』であると言い切れるのだろうか。

 それに、彼女を――クロードを先生と呼ぶ、この幼い少女を、守れるだろうか。

 髪を結んで、普段は目元の見えないローザの表情が、しっかりと見えた。

 いつか見た湖のように、深い瑠璃の瞳は聡明で、彼女を大人びて見せていた。はっと目が覚めるように美しいそれは、今はひどく不安げに揺れている。

 小柄な体躯は縮こまり、まわりには多くの妖精たちが彼女を守るように取り巻いていた。

 やわらかな光の帯が、うたかたの夢のようにたゆたっている。

 彼女こそが、『妖精の女王』。彼らこそが、主君を守る、まさしく『妖精の騎士』であるかのように。

 年若き『妖精の女王』が〈悪しき獣〉であると、誰が信じるものか。

 悩み、迷う弟子に、クロードは声をかけた。乾いた唇を舐める。折よく、彼女が答えを見つけられる機会は、すぐに巡るのだから。


「――それでは、何が正しいか確かめてみる?」

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