【5】燻ぶる感情

 ララ・リリー。

 好奇心旺盛で困ったひとは見過ごせない。

 可憐な『妖精の姫巫女』は、国一番の踊り子だ。彼女が跳ぶたびに、花びらのドレスは軽やかに舞う。豊かな毛髪を飾るのは、純白の百合の冠だ。

 彼女のあどけない美しさを愛した妖精の女王が、手ずから編み込んだのだという。

 広い出窓から迷い込んだのか。空からチラチラと降り落ちる雪のように、小さな妖精がひとり、ふわり、と絵に向かって舞い降りる。

 短時間でさらりと描き上げた〈妖精画〉は、彼らにとっての一時的なねぐらでしかないのかもしれない。

 そのうち、絵からは飛び立ってしまうだろう。

 それでも、彼らが好ましく思ってくれたことが、ローザには何よりも嬉しかった。

 彼らには伝わらなくとも。ローザは小さな声で、「ありがとう」と感謝の言葉を紡ぐ。


「先生! クロード、先生っ! あたし、描きましたっ……!」


 ローザは満面の笑みで、クロードのほうを振り返る。

 ローザをじっと見つめていたのだろう、美しい金色の瞳と交錯する。

 そこには、わずかな困惑の色が見えた。


「あの、クロード、先生……?」


「……ラファエラ・モッロの孫娘。おまえは妖精と、話せるの?」


(えっ?)


 突拍子のない問いかけに、ローザは目を丸くするしかなかった。

 話せない。話せるわけがない。一般的に、人間と妖精は言葉が交わせないのだ。

 妖精と〈妖精國〉に詳しいラファエラでさえ、その例に違わない。

 先ほどの「ありがとう」で意図せぬ解釈を持たれたのだろうか。ローザは青ざめた顔で、首を横にブンブンと振った。

 生憎なこと、彼が期待するような、特殊な能力は持ち合わせていないので、期待を寄せられても困るのである。


「……そう。まあ、普通は、そうだよね」


 どこか含みを持たせつつ、彼は納得させるように呟いた。

 クロードはしばらくローザを不思議そうに眺めたのち、美しい金色の眼差しを、今度は描き上げたばかりの〈妖精画〉へと向けた。

 クロードに絵を検分されているあいだ、ローザは手持ち無沙汰だ。

 そわそわと落ち着きなく床板に視線を向けるくらいしか、することがない。

 絵具がまばらに散る床はところどころ剥げかけていて、ずいぶんと年季の入っていることがわかる。おそらく、建物自体は相当に古い。当然、ローザの暮らしていた家とは比べ物にならないくらいに、立派な邸宅ではあるのだが。


(先生はまだ、若い。あたしとそう年も変わらないのに、高名な画家の地位を築いているみたい、だし)


 ジョヴァンニがクロードは画家業界では名が知れている、と力説していたのを思い出す。


(先生はいつから絵を描き始めたのかな? 先生がついたのは何歳の頃になるんだろう? ……最初は、褒められたのかな、それとも、がっかりされたのかな……?)


 悶々としながら、古い床板を漫然と眺めていると、クロードは呟いた。


「普通の、〈妖精画〉だね」


 普通。褒められてはいない。

 ローザの技量では、彼を失望させてしまったのだ。

 分かっていた。だって、ローザには画力も、技巧もない。ラファエラの技術を継承しているわけでもない。当人である自分自身が一番よく理解している。

 それでも。自分が認められているかのように思っていた。好きだ、惚れたと称賛されて、自惚れていた自分が、馬鹿みたいだ。

 ローザはスカートをぎゅっと握り、俯いた。

 クロードは高名な画家だ。

 天才の彼に普通の弟子では、本来、釣り合いがとれない。

 彼の隣に並び立つなら、天才でなければ。


(でも、あたしは、悪い意味で『普通』じゃない……)


 『異端』。

 過ち。

 極刑は免れた――それはジョヴァンニの力添えによるものだ。ローザの過ちは気の迷いだと決着がついた。

 それでも、ローザは今でもラファエラの〈星葬画〉を描いたことが過ちであるとは、ほんの少しも思ってはいなかった。

 クロードも、認めてくれたけれど。

 ローザの胸に燻ぶる感情も、理解してくれるだろうか。

 知りたかった。

 気になったら、言葉が口をついて。自分では抑えることができなかった。


「……先生。教えて、ください。どうして〈星葬画〉に、故人を描いては、いけないんですか……?」


「……えっ?」


 想定外だったのだろう。クロードは驚いた表情で、ローザを見つめる。

 彼は少し考え込んだ後、口を開いた。


「ひとの姿を、絵に残してはならない。正しき魂はひとのかたちを取らず。かたちのある〈星魂〉はこの世に想いを残すもの。想いは穢れとなり、みずからが悪しき存在となりうる」


 それはローザがラファエラから、そしてジョヴァンニから、懇々と説明を受けた内容と大差ない。


「僕に教えを請わずとも、ジョヴァンニにも耳が痛くなるほど、散々に言い聞かされたのではないの?」


「……はい」


 項垂れるローザに、クロードは続けた。


「お前の問いかけは、いまだに納得ができていない証左かな。己の過ちを認めていれば、今さらになっておまえの口から、そのような言葉は出ないからね」


 クロードの指摘は鋭い。核心をつかれ、ローザは狼狽えた。

 パクパクと口を魚のように動かして、一向に答えられないローザを見据えて、彼は訊ねる。


「もしかして、ラファエラも、『異端の画家』だった?」


「それは、違いますっ!」


 反論の言葉は、考えるよりも先に、口を出た。

 思いがけず大きな声が出てしまったことにローザは驚いた。だが、それ以上に、クロードのほうが驚いているように見えた。


「違いますっ、違うん、です……」


 それは、ローザが八つの齢に遡る。

 当時のローザは、まだ〈星葬画〉と呼ばれる類の絵を描いたことはなかった。

 ラファエラが〈星葬画〉を描く際には常に傍に寄り添い、絵を描くのを眺めるのが、何よりも好きだった。

 ローザが描いた拙い絵を見てもらい、「よく描けたね」と褒められて、それから、頭を撫でられるのも、同じくらいに好きだったのだ。

 あるとき、夫を亡くした妊婦が、ラファエラに〈星葬画〉を依頼した。

 男は不慮の事故で命を失ったのだという。

 愛する者の突然の死だ。しかし彼女は、涙をこぼすことなく、気丈に振舞っていた。


『あの人を、幸せにみおくって。そして、私たちも幸せにならなくては』


 膨らんだお腹を撫でながら、彼女はどこか、寂しげな顔で口にした。

 狭い村だ。幼い頃から内気なローザであっても、何かと面倒を見てくれた夫婦とはそれなりによい関係を築いていたと思う。

 口や振る舞いには出せずとも、内心では彼らのことを慕っていたし、ローザもまた、彼らの幸福を願っていた。

 亡き男はまるで熊のような、大男だ。たくましい体躯に、ぼうぼうに伸びた髭。

 幼いローザが及び腰になってしまう容貌をしていた。

 けれど、性根はとても優しい。狩りの腕前は村一番で、果実や木の実の採集も得意だ。自然に植生する、甘くておいしい果実を、ローザに分け与えてくれた。

 金槌を使わなければ割るのが難しい木の実の殻を指先でぱきりと割って、ローザに差し出してくれた時の笑顔は、それほど恐ろしいものではなかったことを、ローザは覚えている。

 なのに、これから生まれるこどもは、父親の姿を見ることは叶わない。あの、優しくて柔らかな笑顔を向けられることは、一度としてない。

 その事実を哀れに思い、夜中にこっそりラファエラの作業場に入り込んだ。

 そしてローザは……描きかけの〈星葬画〉に、笑みを湛えた、男の顔を描き加えた。

 描きかけの〈星葬画〉にはひとりとして、妖精は宿っていなかった。

 だが、ローザが描き加えて間もなく、妖精たちが集まり始めた。一枚の絵に、妖精たちが集う。暗闇の世界に、明かりが満ちる。

 失われたものを、取り戻せる気がした。

 彼の笑顔は、永遠に残る、そう思ったのだ。

 夜半に家の様子がおかしいことに気づいて、作業場に訪れたラファエラに声をかけられるまで、ローザは放心して、それを眺めていた。

 ラファエラはローザを強く抱きしめた。その痩せた躰は、ブルブルと震えていた。

 放心状態のローザに、ラファエラは言い聞かせたのだ。


『可愛いローザ。無垢のローザ。おまえは、恵まれた才能を持っている。それは、誰かを幸せに導くことができる、素晴らしい力よ』


『それでも、〈星葬画〉にひとの姿を描くことは禁忌……とても、悪いこととされているの』


『おまえにできるのは、祈ることだけ。その優しい想いを、絵にしてはならないわ』


 これまで、ローザのどんなに小さないたずらも、大きな失敗も、優しく言い諭してきた彼女は、その時ばかりは強い言葉で、それは過ちだと叱った。

 だからローザは、彼女の言いつけをしっかりと守り続けた。

 だが、心の中ではずっと、澱を抱え込んでいたのかもしれない。

 語り始めはたどたどしくも、ローザは懸命に言葉を紡ぐ。

 だから聞きづらく、耳障りだっただろう。

 それでもクロードは、真剣な面持ちで耳を傾けてくれた。

 真摯な彼を前にするからこそ、ローザは次第に、落ち着いて話せるようになっていた。

 彼の美しい金色の瞳を、しっかりと見つめて。


「おばあちゃんが亡くなったとき、あたしは強い恐怖を感じたの。これまでに多くの知人をみおくった。愛していたひとたちの姿は、年々薄れていく。声も顔も覚えていない。……同じように、おばあちゃんも忘れてしまうのかもって、それが恐ろしくてたまらなかった。あたしは、忘れたくなかった。ずっとずっと、覚えていたかった。ただ、それだけ」


 当事者となったことでその箍は外れた。それが禁忌であると知りながら、熱に浮かされるように、ローザが愛した祖母の姿を、〈星葬画〉に描きとめたのだった。


「あたしは、はじめ……。ジョヴァンニさまの前で、あたしの行いは過ちではないと、はっきりと言い切れた。でも、時間がたった今では、過ちだったと口にすることができる。あたしがそれを主張することで、おばあちゃんも疑われるなら……その心に背くことが、できる。もちろん、先生が言った通り、納得はして、いません」


 それが道徳であると言われたら、守るべきだ。

 だが、ローザが長年育んできた感情は裏切れない。嘘をつくたびに、胸が引き裂かれそうな痛みを覚えた。


「愛したひとを『永遠』に残したい。その欲望は、どうしても許されないの?」


 ローザは痛む心臓を手で押さえながら、クロードに訊ねた。


「教えて、先生……。あたしの行いは、本当に、過ちなの……? 『永遠』はいけないことなの……? こんな気持ちでいたら、正しい画家には、なれない……?」


 ぽつり、ぽつりと。ローザが話し終えるのを聞いたクロードは、しばらくの間、黙りこくっている。

 沈黙が恐ろしかった。否定でもいい。何か、言ってほしい。

 過ちだと言われたら。長い時間をかけて、ローザはローザの感情を殺すだろう。

 師から『異端の娘』だと拒絶されたら、すぐにでも彼の元を去る。

 おまえは画家には向いていないと言われたら、躊躇なく筆を折ってもいい。

 そしてもう二度と、『永遠』を欲することはないだろう。

 何でもいい。答えが欲しい。

 『ローザ』という存在を、理解してほしい。

 気後れしながらも、ローザはクロードに再び、声をかける。


「せん、せい…………」


「――それでは、何が正しいか確かめてみる?」


 薄暗い部屋の中で、ほしぼしのかがやきみたいに、金色の瞳が怪しくきらめく。

 『妖精の騎士』のような男は、無表情に――いや、わずかに口元をほころばせて、ローザに問いかけた。

 ローザは震える声音で聞き返す。


「……たしか、める?」


「うん。――僕に、〈星葬画〉の依頼が来ている。確かめよう、お前の心を」

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