【4】お手並み拝見
二日目、三日目と過ぎ、クロードとの共同生活は、ある種、穏やかなものだった。
そもそもの話、家主であり師匠であるクロードと、顔を合わせる機会に恵まれなかったのだ。
四日目に至っては姿すら見ていない。
ここ数日の彼は、ほとんど部屋にこもりきりだ。どうやら依頼された絵を描いていて、今が一番の佳境を迎えているらしい。
ローザが見かけた彼の姿は、着古した麻のシャツにべっとりと絵具をつけたものだ。髪はボサボサに乱れ、顔も洗っているのか、正直なところかなり怪しい。玉の美貌も形無しだ。
ローザは人参を手に、小さく溜息をこぼした。
考えていた生活と、違う。だいぶ、違う。
晴れてクロードの弟子となったのに、しかしローザは未だ、彼から絵に関することは何も教わっていない。
ジョヴァンニの家の者から大量の服やら生活用品やらを届けられて、恐縮しながらそれを収納したり、自室以外の部屋を掃除したり、荒れた庭に手を入れて、花の種を植えてみたり。
今日に至っては特にやることもなく、無為に一日を過ごしてしまったと、ローザはひっそりと落ち込んでいた。
ジョヴァンニからは、「まずは日常生活に慣れることから始めていきましょう」と言われたけれど、こんな調子で本当にいいのだろうか。
二回目の溜息をこぼそうとした矢先に、階段を降りる音が聞こえる。
足音の主は、クロード以外にいない。
キッチンに顔を見せた彼の顔に疲れの色が見えるのは、連日、集中して絵を描いているからだろう。
彼が口にするのはチーズと葡萄酒、あとは菓子を食べるから、ローザは事前に、目に見えるところにまとめて置いていた。
だが、彼はそれに見向きもせず、ローザに問いかける。
「おまえは今から食事にするの?」
まさか、声をかけられるとは思わなかった。ローザは忙しなく瞬きをして、頷く。
「えっ? は、はい……。夕食を、用意しているところ、です」
ローザは慣れない敬語で答える。
弟子になったからには、師匠と対等な口調はいけないと思い、改めることにしたのだ。〈ミュトス〉の親方であるジョヴァンニに対しても、同じである。
クロードは「そう」とそっけなく言うと、椅子に腰かける。
「手間をかけさせて悪いけれど、僕の分も、用意してくれる?」
「えっ⁉ 先生の分の、食事、ですか⁉」
想定外の言葉に驚いて、声が裏返ってしまった。
「嫌?」
ローザの態度を否定と受け取ったのだろうか、彼はかたちのいい眉根をわずかに寄せる。
ローザはブンブンと首を横に振って否定する。
「嫌じゃない、ですっ! 作ります! その、何か、食べられないものとか、あります、か……?」
「特には何も」
「わ、わかり、ました……」
ローザはゴクリと唾を呑み込んで、料理を作り始めた。
ラファエラ以外に手料理をふるまうのは初めてだ。ラファエラは褒めてくれたけれど、彼の口に合うだろうか。
ローザの心配をよそに、完成した料理を机に並べると、彼は黙々と口に運んだ。
まずいともうまいとも言わないが、どうやら食べられるものではあったらしい。
朝は珈琲か紅茶。昼は紅茶、たまにビスケット。夜はチーズと葡萄酒。忙しさからろくなものを食べていなかった彼が、こうして食事をとっているのを見ると、ようやく人間らしさが感じられるようだ。
クロードは食べるのが早い。ローザが半分食べる頃には、もう食器を空にして、ローザが食べ終わるのを、無言で見守っている。
律儀に食べ終わるのを待ってくれているのだろうか。だが、緊張感で味がほとんどわからない。ローザは慌ててスープを流し入れる。
「美味しかった」
ローザが食べ終わるのを見計らって、クロードがボソリと呟いた。
「……えっ?」
「料理、美味しかったよ。明日からも、お願いできる?」
「は、はい…‥」
率直に褒められて、嬉しいが。明日からも食べたいと頼まれるほどとは思わなかった。
(先生、いったい、どうしたんだろう?)
ローザが驚きで硬直していると、クロードは口元を緩めて、訊ねた。
「もうひとつ、お願いがあるんだけど」
「あ、はい、何で、しょうか?」
ローザは思わず身構えて聞き返す。
「この後、僕の部屋に来て」
「…………えっ?」
「絵を描いて」
彼は簡潔に、それだけを言い残すと、ふらりと自室へ戻る。
ローザの返事は聞いていない。お願いと言いながら、彼の中で決定事項なのだろう。
ローザは混乱したが、待たせるにはいくまい。急いで食器を洗い、彼の部屋へと向かったのだった。
***
クロードの私室は、ローザに与えられた部屋とさほど変わらない。
扉を入った先にあるのは、絵を描くための作業場だ。奥の続き部屋は寝室だろう。
彼の作業場はごちゃごちゃと、とにかく物が多い。
意外なのは、絵や画材よりも書物が多く見られることだ。壁沿いには、部屋の高さほどもある大きな書架が置かれていた。オーク材の書架には濡れたような艶がある。
書物が稀少品であることはローザも知っていた。今までに見たこともないくらいに、たくさんの本が収蔵されている。なんて壮観なのだろう。感動から思わず、吐息がこぼれる。
脚の長さが異なるイーゼル数台は、部屋の隅にいくつか立てられかけていた。作業場の中央に置かれた長机には、絵具の染みがついた木製のパレットを文鎮に、何か書きつけたらしい紙の束が下敷きになっている。
鏡付きの化粧台には本来の用途ではないだろう、顔料の入った色とりどりの小瓶が整然と並ぶ。
開け放たれた出窓の棚には、ひび割れた硝子瓶がひとつ。花の代わりに、絵筆が活けられていた。
開けた窓は妖精たちの出入り口となっているのだろう、絵筆瓶を背もたれに、妖精がひとり寝息を立てている。
それから。ローザはそっと視線を注ぐ。
出窓のすぐそばに立てられたイーゼル。彼が数日こもった成果と見受けられる絵には、洗いざらした布が掛けられていた。
(先生、どんな絵を描いてたんだろう? お願いしたら、見せてもらえるかな?)
「……ねえ、おまえ」
「はっ、はいっ!」
ローザはぴん、と背筋を伸ばした。
部屋の主は期待のこもる金色の瞳で、じぃっ、とローザを見つめている。
「僕の方は準備ができているよ。彩色は不要。スケッチでいい。必要なら、随時道具は用意するから。ほら、好きに描いて」
ローザがぼんやりと部屋を観察している間に、彼は絵を描くための準備を粛々と進めていたらしい。
いつの間にか、イーゼルとキャンバスが設置されていた。イーゼルの前には、背もたれのない椅子がひとつ置かれている。
クロードはイーゼルに並び立ち、キャンバスの角を指先でトントン、と叩く。
ここに座って、描けとのことだろう。
無言の圧を感じる。
ローザは震えあがる。絵を描きたいと思っていたが、実際のところ、覚悟はまだできていない。
彼はローザの絵を好きだと言ってくれた。その期待に応えられるだろうか。
ローザはモジモジとその場に立ち尽くす。
「あのぅ、あたし、まだ……」
「椅子に座るのに、エスコートが必要?」
「えっ、エスコート⁉ い、いらないですっ! ひとりで座れます、からっ!」
エスコートだなんて、ラファエラが読み聞かせた宮廷物語でしか聞いたことがなかった。だいたいローザは、丁重に扱われるお姫様には程遠い、ただの村娘でしかない。
差し出されたクロードの手を目にして、ローザは声を上ずらせた。椅子に飛びつくようにして座る。
クロードは無言で鉛筆を手渡すと、ローザの右手に回る。どうやら彼は、ローザの真横で見学することに決めたらしい。
(ど、どうして、傍にいるの⁉)
ローザは顔をヒクヒクと引き攣らせた。緊張で、今にも気絶しそうだった。
なにせ、ラファエラ以外の前で絵を描いた経験はない。今回が初めてだ。
そしてその相手は、ローザの絵に一目惚れしたという、クロード本人である。
「……」
「……」
「ねぇ、描かないの?」
「ちょ、ちょっとだけ、待って、ください……」
ローザは鉛筆を膝の上に置くと、スカートのポケットを漁り、リボンを取り出した。
古着を裁断して、ほつれ処理を施したそれはラファエラのおさがりだ。彼女も絵を描く際には、豊かな白髪をひとつに纏めていた。
ジョヴァンニが使っているような、上質で洒落たリボンと比べたら随分とくたびれてはいるけれど、ローザにとっては唯一の形見で、大切なものだ。
ローザは髪の束をつくり、リボンで結う。焦りからいつもより時間をかけてしまった。
その様子を眺めていたクロードは、首を傾げて訊ねる。
「髪を結ぶの?」
「えっ、あ、はい……。その、結ばせて、いただき、ます……」
「どうして?」
「えっ? どうしてって……。ま、纏めたほうが、邪魔にならない、から……?」
「それなら、普段から纏めていればいいのに」
「ええっと……」
ローザはひとと視線を合わせて話すのがあまり得意ではない。そのため、多少煩わしい思いをしてでも、普段から髪をおろしていた。
長い髪は、ローザの不安で、自信のない表情を隠してくれる。
顔を合わせるようになってから気づいたが、クロードはやけに顔を見て話そうとする。だからローザは正直に言うと、ちょっと……いやかなり、苦手に感じていた。
だが、当人の前でそれをつまびらかにするのも、いささか都合が悪い。
ローザが俯いて、モジモジと回答に困っていると、クロードの不興を買ったようだ。顔は見えないけれど、返すクロードの声音は、明らかにむっとしている。
「どうして口ごもるの? 言いたいことがあるのなら、教えて」
それができたら苦労しない。ローザは心の中で悲鳴をあげたくなった。
「僕はおまえに興味がある。おまえのすべてを知りたい。だから、悩み事も隠し事も、あってはならない」
一見すると口説き文句のようにも思えるが、ローザにとっては恐喝に等しい。
気圧されながらも、ローザはどもりながら、答える。
「む、結んでいないほうが……その、普段は、落ち着くんです……」
「ふぅん」
言葉は濁したが、嘘ではなかった。
納得してくれたようで、それ以上の追及はない。
ローザは鉛筆を再び手にして、気合を入れるように大きく息を吐き出すと、まっさらなキャンバスに筆先を伸ばした。
物心がつく頃から、気がつけば絵を描きはじめていた。
ときには、筆と紙でさえ必要としない。拾った木の枝を筆に、大地はキャンバスだ。
あるいは、廃材の木の板に、泥だらけの指先でなぞり、跡を残す。
冬の凍るような日に、息を吐き、曇った硝子戸に指先を滑らすだけでも、絵は描ける。
何よりも夢中になった。朝から日が暮れるまで『キャンバス』に向き合って、ラファエラから夕食だと伝えられ、一日の終わりを知るのが、これまでに何度あったことか。
とどのつまり、ローザは絵を描くことが、何よりも好きなのだ。
だから、初めは気もそぞろな指先も、次第に、軽快に動き始めた。
何を描こうか。どんな風に描こう? いざ考え始めたら止まらない。
気がついたら、意識はすべて絵に向けられている。
描こうと頭に思い浮かべていたものが、形を成している。
(で、できた……! 小さな、妖精の女の子……)
ローザはラファエラが教えてくれた、〈妖精國〉の、奇妙な友人を描いた。
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