【3】眠れない夜の子守唄
クロードに弟子入りして一日目。
その日は部屋の掃除で終わった。眠れる程度に物を片す頃、キュウ、と切なげにローザの腹が鳴る。
窓の外を見れば、既に陽は沈んでいた。街を行き交う人たちも、家に帰る頃合いだ。ローザはキッチンへと向かう。
キッチンには鍋や包丁といった調理器具が一通り揃ってはいたが、いずれも使われた形跡はなく、うっすらと埃を被っている。
籠の中には、固いパンとチーズ、しなびた野菜と果物。棚には葡萄酒の瓶がいくつか。
家主の乱れた食生活が想像できるようだった。
(うーん、どうしよう……)
弟子になったからには、先生の食事の面倒も見たほうがよいのだろうか。
ローザがしなびた野菜を片手にぐずぐずと悩んでいると、クロードがキッチンを訪れた。
彼はローザに気づいていないのだろうか。欠伸交じりにチーズと葡萄酒を手に取ると、部屋へと戻ろうとする。
「あっ、その、先生……」
ローザがモジモジとしながら声をかけると、彼は口早に答える。
「ああ、置いてあるものは好きに食べて。足りなくなったら、そこにある箱にまとまった金を入れてある。それで買い出しに行ってかまわないから」
クロードはそれだけ言うと、チーズを齧りながら、部屋を早々に後にする。
ローザは小食な方だが、彼のように、チーズと葡萄酒だけでは満たされないだろう。
キッチンを掃除してから、食事にありつけるのはいつになることか。
想像して、ローザの腹は、再び、キュウと悲しげに音が鳴った。
***
(どうしよう、どうしよう。目が冴えて、眠れないよ……)
ローザはその夜、なかなか寝つけずにいた。
何度目かになる寝返りをゴロリと打つ。ついにはカサカサ、と自らが立てる衣擦れの音でさえ、いちいち敏感に感じ取っていた。
水でも飲んで気を落ち着けようと、袖机の上の水差しに手を伸ばす。しかし手に取ってみると、やけに軽い。
中身は空の水差しを片手にして、ローザはしょんぼりと肩を落とした。
「お水、取りに行こうかな……」
ローザはベッドから静かに降りて、ひっそりと部屋を出た。
初夏の夜ではあるものの、昼頃から天気が崩れていて、夜半は肌寒い。
ローザは腕をさすりながら、なるべく音を立てないように階段を降りていく。
ローザの部屋は三階で、二階はクロードの部屋。飲み水のあるキッチンは一階にある。
(あれ?)
二階まで降りたところで、クロードの部屋の扉が締まりきっておらず、部屋の中から光が漏れていることに気づいた。
覗き見は良くないことだ。
けれど、良識より、好奇心が勝った。
ローザはコッソリと部屋の中を窺う。
(クロード、先生。まだお仕事をしているのかな? こんな夜更けまで、何をしているんだろう?)
彼は日中見かけた、だらしのない服装のまま、キャンバスに向き合っている。
しかしローザはその立ち姿に、しばし見惚れてしまった。
やや猫背気味の彼は、絵を描くときに限って、姿勢をまっすぐに正している。
妖精が月の粉をこぼしたような、きらびやかな銀色の髪を頭の上で縛り、満月のような金色の眼差しは、描きかけのキャンバスだけに向けられていた。
持て余した筆先が、彼の思考に釣られてか、ときおりプラプラと揺れる。
ローザはぎゅっと、水差しの取手を握る手に力を込めた。
(先生はきっと。とても絵が、好きなひと、なんだ……)
こんな時間まで、ひたむきに絵を描いている。服が絵具で染まっても、美しい髪や頬が汚れてしまっても、まるで気にした様子はない。
妖精じみた美貌は、他の人間と比べても、感情が薄く見えるけれど。描きかけのキャンバスに向かって神妙な顔を浮かべたり、物憂げな表情をして見せたり、睨みつけたと思えば今度は微笑みかけたり……表情はクルクルと、忙しなく変化する。
故に。ローザの視線はたちまち囚われてしまった。一枚の絵を描き上げるのに、どれだけの感情を抱いているひとなのだろうか。
(どうして今、笑ったの? 今度は、怒ってるみたい……)
長く悩んだ末に、迷いなく筆を滑らす。彼の真剣な横顔を目にして、その感情を、知りたいと思った。
百面相を続ける師の姿を眺めながら、ローザは高鳴る胸元を押さえ、そっと動向を見守る。
それから、どれくらい経っただろう。
ローザはぶるりと寒気を覚えた。
あっと思った矢先。「くちゅん」と、小さなくしゃみが漏れる。
音に気づいたのだろう。クロードが手を止めた。
彼の顔が扉に向かう前に、ローザは慌てて顔を引っ込めた。扉を後ろ手に、ローザはじっと息を殺す。
覗き見をしていたのが、知られてしまったら。彼はどう思うだろう。夕方もなんだか素っ気ない態度だったし、ローザを疎ましく思うだろうか。
ローザは震えあがりながら、覚悟を決めて、再び、部屋の様子を覗き見る。
クロードは何事もなかったように、絵に向かって筆を動かしている。ローザはほっと胸を撫で下ろした。
クロードはわずかに微笑みをたたえて、呟いた。
「妖精も、くしゃみをするのかな。今日はとても冷えるから」
ローザは再度、顔をひっこめた。また鼻がムズムズとし始める。水差しを持っていない方の手で、鼻を強く摘まむ。
扉の向こうで、彼は誰にともなく、ひとりごちた。
「温かいミルクに、蜂蜜を一匙。あなたのこころがあたたかくなったら、おやすみ、妖精。わたしの、妖精」
有名な子守唄の一節を、彼は伸びやかな音調で、口ずさんでいた。
愛する我が子が、悪夢を見ないように願う唄だ。
親が子をあやすような優しい口ぶりには、ローザも覚えがある。
歌詞が思い出せないのか。ラララ、と彼は歌い続ける。穏やかな旋律を背に、空っぽの水差しを手に持ったまま、ローザはトボトボと自室へと戻った。
ベッドに潜り、シーツを頭まで被って、瞼を閉じる。
眠れない夜、ローザの傍にはラファエラがいてくれた。温めたミルクを用意してくれた。眠れるまで歌ったり、話をしたり、手を握ってくれた彼女とは――もう、二度と会えない。
その事実に、じんわりと視界が熱くなった。
「ら、ら……」
ローザは掠れた声で子守唄を口にする。
不思議と脳裏に浮かぶのは、ラファエラではなく、猫背の青年の姿だった。
***
廊下にひとの気配はない。ローザは部屋に戻ったのだろう。
(……あの娘は眠れなくて、僕の部屋に来たのかな?)
無垢な妖精のようで、強い熱情を心に宿した、ラファエラ・モッロの孫娘は。
おそらく祖母ラファエラ・モッロに、それはそれは、大切に甘やかされたのだ。
眠れない夜は〈妖精國〉のお伽噺を語ってもらって。温かいミルクに蜂蜜を、一匙どころか二匙も入れて。髪を優しく撫でられて、風邪をひかないように肩までシーツをかけられて。寝る前に額や頬に、優しくくちづけを落とされる。そんな風に。
ローザは十五歳と聞いたけれど、年齢のわりにずっと幼く見える。
顔かたちがというよりは、精神的に幼く思えるのだ。
(少し、甘やかしてあげようかな)
クロードは気まぐれに考えて、筆を止める。
窓から差し込む月明かりはぼやけていた。窓辺の妖精でさえ、夢の世界にいる。
ギシギシと軋む階段を上り、ローザの部屋へと向かった。
扉は締まっていたが、鍵のない部屋だ。簡単に開いた。
部屋はランプの灯が落とされている。クロードは目を細めた。クロードの部屋よりも、窓から差し込む明かりが、やけに眩しく思えたのだ。
弟子の少女は口を小さく開けて、眠りに落ちている。
クロードは思わず眉を寄せる。だって悪夢なんて縁遠い顔で、健やかな寝息を立てているのだ。寝かしつけのお伽噺なんて、とてもではないが必要ではないと思う。
それにしても。クロードは呆れて眠りこける弟子の姿を眺めた。
彼女はずいぶんと寝相が悪い。背の中ほどまであるストロベリーブロンドの長い髪は、ベッドの上で自在に広がり、ぐちゃぐちゃに絡まっている。寝間着は乱れ、シーツはベッドの下に蹴落とされていた。
そしてなぜか、空の水差しを抱きかかえている。
(くしゃみをするのも当たり前だよ。これじゃあ、風邪をひいてしまう)
クロードはローザの手からそっと水差しを取り上げると、袖机の上に静かに置いた。
彼女の寝間着のリボンを丁寧に結び直し、ベッドの下に落ちていたシーツをきちんと首元にかけて。最後に、顔にかかった髪をよけてあげながら、ぼんやりと彼女の顔を見つめる。
白い頬には、わずかに涙の跡が見られた。
彼女にとって、ラファエラがどれほど大切なひとだったか。〈星葬画〉を見ただけでは、実際のところ、わからないけれど。
愛する人を亡くしたこと。それ自体が、ローザにとっての最大の悪夢なのだろう。
けれどそれは彼女にとっては残酷でも、確かな現実だ。
目が覚めたら、ラファエラが笑いかけるなんて奇跡は、もう二度とありはしないのだ。
クロードはベッドの前に跪いて、小さな声で口ずさむ。
「温かいミルクに、蜂蜜を一匙。あなたのこころがあたたかくなったら、おやすみ、妖精。わたしの、妖精……」
最後に頬や額にくちづけを落とし、幼い弟子がもう悪い夢を見ませんように、と心の端で少しだけ願えば。
眠るローザの顔がわずかに、やわらいだように見えた。
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