【8】『妖精の騎士』
〈ミュトス〉の建物を出たその足で、クロードは神殿に向かっていた。
目的は当然、ラファエラ・モッロの孫娘。ローザとやらに会うためだ。
クロードは今すぐにでも、彼女に会いたかった。
察しのいいジョヴァンニに、「今夜はおとなしく帰ってくださいね?」としつこいくらいに言い含められたが、素直に従うつもりはない。
のちにバレたところで、クロードは開き直るつもりでいる。
クロードがその手の頼みで、一度も従った試しがないのは、ジョヴァンニも身に染みて知っているだろうに。
街から遠のいて、郊外の神殿へと向かうと、そこは不思議なほど、静まり返っていた。
その理由を、クロードはすぐに理解する。
神殿の入口には武装した見張りの男が二人。
どちらもスヤスヤと、間抜けな顔で眠りこけている。
深い眠りについているようだ。クロードが近づいて、軽く肩を叩いても、一向に目覚める気配はない。
見張りが眠るとは、ひどく不用心である。悪いやつに侵入されたら大変だな、と心配しながら、クロードは遠慮なく神殿の中に足を踏み入れた。
それから少しも経たないうちに、クロードは神殿の中で何か異常が起きているのでは、と疑い始めた。
(神殿中の人間が、眠っている……)
これはとても、困ったことになった。
クロードはラファエラ・モッロの孫娘の居場所を知らない。だから、道中誰かに聞こうと考えていたのだ。まさか、部屋のひとつひとつを開けて確認するわけにもいくまい。
それに、神官たちも一斉に眠っている理由。薬でも盛られたのだろうか。
囚われている、ラファエラ・モッロの孫娘も?
何のために。
クロードの脳裏を、幼い頃の記憶が掠める。
(神殿から何か物か、あるいは人物を、盗み出そうとしている?)
そんな状況で悪党に見つかったら、どうなることか。想像に容易い。
悪しき人物を警戒して、クロードは密かに緊張感を高めた。
その時。
鼻先に、金色の光が舞う。
(……妖精?)
豊かな髪を花弁のように広げた、美しい妖精の少女だった。
クロードは思わず手を伸ばすが、彼女はひらり、と華麗に避けて。
妖精の少女は着いてこい、と言わんばかりにクロードの先を進んでは、時々、チラチラと振り返っている。
その誘うような仕草に、クロードの胸は、えも言われぬ感情がざわめいた。
あの時のように。
再びクロードを、〈妖精國〉に連れ去ろうとするのだろうか。だったら、望むところではあるのだが。
妖精の導く先には、ラファエラ・モッロの孫娘がいる。クロードには不思議と、予感があった。
けれど、彼女をクロードと同じ目に合わせてはいけない。
それに、神殿中の人間を眠らせた、悪しき侵入者から守らなければならない。
(今はまだ、〈妖精國〉に踏み入れる、時期ではない)
――ラファエラ・モッロの孫娘を攫うのは、僕だよ。
クロードは揚々と意気込み、妖精の跡をつけた。
***
神殿に軟禁されて、何日が経過したのだろう。
高熱を出し寝込んでいたローザにとって、過ぎ去った時間ほど不確かなものはない。
ベッドから起き上がれる程度には、体調が回復して、ジョヴァンニは花が咲きほころぶような笑顔を見せてくれた。
それでも本調子ではない。ジョヴァンニから、しっかり休むよう言い含められて、日中も眠りについていたためか。夜が更けても、ローザはなかなか寝つけずにいた。
神殿の夜は静かで、鳥や虫の鳴き声すらしない。
唯一の窓は脱走防止だろう、天井高くから差し込む月明かりは、やけに眩しく思えた。
静寂と、月の異様な明るさを目にして、ローザは無性に、心細くなる。
ジョヴァンニはまめに、ローザの元へ顔を見せてくれた。
どうやら彼は、『異端者』の処遇が、無罪となるように動いてくれたらしい。
素直に嬉しかった。ローザは罰を受けたくない。しかし、正直にその結果を受け入れてもいいのだろうか。
〈異端画〉を描いてしまったローザに、一切の罪がないとは思えない。
人間が許しても、例えば〈悪しき獣〉たちは、ローザを許すだろうか。
ローザがベッドの上で悶々と悩んでいると、静かな神殿に、カツンカツン、と足音が響く。
見回りの時間は、とっくに過ぎている。こんな時間に、神官が仕事をしているとは考えづらい。
(……まさか、まさか。まさか、だけど)
ローザが〈異端画〉を描いたから。〈悪しき獣〉が、寄ってきたのだろうか。
何のために。決まっている。ローザに罰を与えるためだ。
ごく身近な妖精とは違い、しょせんはお伽噺だと思っていた存在を、これほど近くに感じた経験は、ローザにはない。
ローザはブルブル、と躰を震わせた。
(いっ、急いで、逃げないとっ……!)
ローザは軟禁されている身の上だが、規則から内鍵をかけてはいない。
だが、部屋を出て鉢合わせる可能性は、十分に考えられる。
ローザは散々考えた末に、クローゼットの中に隠れることにした。
その間にも、迷いのない足音はどんどんと近づいてくる。
心拍は破裂しそうなほどに高まっていた。今にも気絶しそうだ。息が苦しい。ローザは浅い呼吸を繰り返し、爪を立てて拳を握る。なんとか、意識だけは手放してはいけない。
細い扉の隙間から、ローザは目を凝らして、じっと部屋の様子を窺う。
最悪の想像は当たって――足音はローザの部屋の前で、ピタリとやんだ。
それから、ガチャリ、とドアノブを回す音がする。
部屋の扉が開けられると、暗がりから、ひとつの『影』が躍り出た。
意外にも、『影』は異形ではなく、人間のかたちをしている。
細身な体躯だ。しかし、ローザよりもだいぶ、背が高い。
『影』がズズズと、部屋の中を進むたびに、月明かりが少しずつその正体を暴いていく。
ローザは目を大きく見開いた。
やがて月の、金色の光に照らし出されたのは。
思わず息を呑むほどに美しい、『妖精』だった。
(よよよよ、妖精の、騎士さまっ……⁉)
闖入者の姿は、昔ラファエラに聞いたような、『妖精の騎士』を彷彿とさせた。
背の中ほどもある銀色の髪は、無造作に結われている。月光に照らされ、それ自身がきらきらと輝きを放っているようにも思えた。細い体躯が纏うのは、くたびれたシャツとズボン。飾らない自然な姿だからこそ、彼の類まれな美貌をいっそう引きださせている。
血色こそ悪いが、瑞々しい肌は白く透き通るようだ。
秀でた額や、すっと整った鼻筋。ほっそりとした輪郭に、鮮やかに赤く濡れたくちびる。かたちの整った眉は凛々しく、金色の瞳はやや吊り上がり気味で、意志の強さを感じさせた。
これで耳が尖って、七色の羽が生えていれば、『妖精の騎士』まさにそのものだろう。
ただし、彼は人間のように見える。
中性的ではあるが、男性だろう。ローザよりもいくつか年上か。
男は同じ人間とは思えない美貌の持ち主ではあるが、かといって〈悪しき獣〉だとは、ローザには思えなかった。
深夜に不当に部屋に押し入る人物だ。善良であるはずがない。
しかし、遠目にも、美しいのだ。恐怖よりも好奇心が打ち勝つほどに。
(もっと、近くで、見たい……)
ローザが思わず前のめりになると、額をゴン、とクローゼットの扉にぶつけた。
「ふぎゃっ」
痛みで情けない悲鳴と涙が、ポロリ、とこぼれた。
(…………………あっ)
ローザは両手で額を押さえながら、石のように固まる。
ギギギ、と軋む音を立てて、わずかに扉が動く。
彼の視点が、一転に留まるのが、分かった。
それは奇しくも、ローザが隠れている、クローゼットの方向である。
(どうしよう、どうしよう……⁉ このままだと、見つかっちゃう……!)
ローザがオロオロとする間にも、『妖精の騎士』はズンズンと距離を詰めてくる。
何か、何か。抵抗する術はないか。ローザは暗がりの中、手探りで布を手繰り寄せる。神官のローブだろうか、サラリとした布地を頭から被り、身を縮こませる。
(布の塊だと思って、見過ごして、くれるかもっ……!)
絶対に無理があると思いながら、ローザは息を殺す。
『妖精の騎士』がクローゼットの前に立つ。
だからローザは、いよいよ覚悟を決めた。
両の扉が無慈悲にも完全に開かれたとき。
ローザは、悲鳴をあげるのではなく、絶句した。
――なんて、美しいひとなのだろう。
遠目でもその美貌に気づいていた。
だが、近くに来て初めて、ローザはその美しさに目を奪われてしまった。
とてもではないが、人間の身であるとは思えない。
これは魔性だと、ローザは本能で感じ取る。
暗がりでやや瞳孔の広がった金色の瞳が、ローザを静かに、じっと見下ろしていた。
冷たいようで、熱を持っている。その視線に射すくめられて、恐怖に凍えていたローザの躰は、奇妙にも熱を取り戻し始める。
「えっ、ひぃぃっ……⁉」
彼はおもむろに、へたりこんだローザの両脇に手を添えると、まるで猫かのように持ち上げた。華奢に見えて、意外と力があるようだ。
今度はローザが彼を見下ろす形になる。顔がとても、ものすごくとても、近い。
男は何を考えているのか。
わずかに不機嫌そうに、くちびるを引き結んで。しかし何も発しない。
長い沈黙ののちに、彼は口を開いた。
「おまえが。〈妖精國の宮廷画家〉ラファエラ・モッロの孫。『異端』の娘、ローザなの?」
男の声は、低く落ち着いて。感情の色が薄い。
ローザが『異端』であると糾弾するのではなく。そこに悪意はなく、ただ事実を確認するだけの行いに思えた。
「ふっ……」
鼻と鼻が触れ合うほどの距離で、熱い吐息にローザのくちびるが震えた。
喉がカラカラに渇いていた。声が出ない。だからローザはコクンと、小さく頷く。
「そう。ようやく、見つけた」
男はくちびるをわななかせる。
金色の瞳が潤む。その瞳の奥に、ローザの姿がある。
ローザは男の綺麗な顔を夢心地に眺めながら、思わず、訊ねた。
「あなたは、『妖精の騎士』さま、なの?」
男が、わずかに目を見開いた。
「おばあちゃんが、教えてくれた、昔話に出てくるの。悪者に攫われ、魔物が蔓延る城に閉じ込められた『妖精の王女』を果敢にも救い出す、勇気ある騎士。あなたが、そうなの?」
自分でも何を言っているのだろう、と思いながら、ローザの口は興奮で止まらなかった。
顔を真っ赤にするローザに、男はくしゃり、と美貌を歪ませて答えた。
「そうだよ。僕は、『妖精の騎士』」
驚きに目を丸くするローザに、彼はとんでもないことを言い出した。
「ラファエラ・モッロの孫娘。おまえは今日から、この僕の――クロードの弟子を、名乗るといい」
「…………えっ、えっ?」
「だから、おまえを、攫っても、かまわない?」
『妖精の騎士』か。はたまた〈悪しき獣〉か。
その人外の美貌の持ち主は、傲慢にも訊ねた。
しかし、それは口だけで、ローザの意思をちっとも問わないようにも思える。
だから、って何だ。
(弟子……攫う? ……あたしを?)
どこか達成感のある彼を前にして。しかしローザは、ちっとも状況が理解できなかった。
星葬画家と妖精の愛し子 @fujimiya_hare
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