【7】妖精の國の扉
休憩室から二人分の茶と菓子を持って執務室へと戻ると、クロードは一枚のキャンバスを手に持ち、何やら真剣な面持ちで眺めていた。
彼は、執務室の入口に立つジョヴァンニの姿に気づくと、不思議そうな声音で訊ねる。
「ジョヴァンニ、これは、誰が描いた〈星葬画〉? 〈ミュトス〉の画家のものではないように思えるけれど」
その声には、微かな喜びが滲んでいるように思えた。
「クロード。勝手に触るなと忠告したのが、聞こえませんでしたか?」
とはいえ、彼が言われた通りにおとなしくしていられるとは、ジョヴァンニも信じ切れてはいなかった。
苦言を呈しながら、ジョヴァンニはクロードの向かいに座り、食事の用意を整える。
「うん。書類は触っていないよ」
しれっと悪びれずに言うクロードに、ジョヴァンニは内心呆れながら、彼の手元の絵へと視線を向ける。
それはラファエラ・モッロの〈星葬画〉だ。
部屋の片隅にひっそりと置いていたそれを、彼は目聡くも見つけてしまったようだった。
正直なところ、ローザの件にクロードを巻き込むつもりはなかった。
だから、バゼットの村に足を運ぶ際、ラファエラの〈星葬画〉を描くのに最も適しているだろうクロードに声を掛けなかったし、彼女の孫娘の存在を打ち明けなかったのだ。
彼が〈妖精国の宮廷画家〉ラファエラ・モッロに深い関心を抱き、その孫に執着することをジョヴァンニは予想していた。
だからこそ、彼に知られないよう、秘密裏に動いていたというのに。
「……知人の孫娘が描いた、〈異端画〉です。神殿側から、保管を任されました。表立って飾るわけにもいきませんでしたので、こうして、執務室に保管していましたのです」
ジョヴァンニは画家の詳細をぼかして、伝えた。
規則を守り〈異端画〉を神殿に提出したが、彼らは嫌悪を隠さない瞳で検分したのち、『不吉の象徴』して、頑として受け取りを拒んだ。
だからといって、貴重な証拠品を処分するわけにもいかない。するとすれば、ローザの罪が確定するときになるのだろう。
ジョヴァンニは立場上、〈異端画〉を認めこそはしないが、〈悪しき獣〉の存在は信じていない。
伝統を守るために必要な、偽りの悪役だと考えている。
(そうだ。私はこの手で彼女の〈星葬画〉を、処分しなければならない)
いち画家として、誰かの描いた絵を処分するのは、心が痛む。
それに、涙ながらに永遠に残したいと語った、幼い少女の顔を思い出せば、迷いがないとは言い切れなかった。
「この〈星葬画〉は、〈異端画〉なんだね」
ジョヴァンニが憂鬱な思考を巡らせていると、まるで今気づいたかのように、クロードが呟いた。
「信じがたいよ。〈異端画〉には人間の魂も、それを守る妖精も、宿るだなんて」
「『異端』と呼ばれても、曲がりなりにも〈星葬画〉ですから」
ジョヴァンニは〈異端画〉の処分からさっと頭を切り替えて、口を開いた。
「過去にも〈異端画〉に人間の魂が宿った例は報告されています。君も知っているでしょう? あの四十年前に描かれた妖精女王の〈異端画〉も――って、君、今何と言いましたか⁉」
説明しながら、とんでもない事実に気づく。
ジョヴァンニはさっと顔色を変えて、弟弟子を問いただす。
〈異端画〉を興味深く眺めていたクロードは、顔をあげると、わずかに首を傾げた。
「〈異端画〉にも〈星魂〉や妖精が宿るのかと、聞いた。僕は初めて〈異端画〉を見るし、例の〈異端画〉を目にしたことはないから、驚いた。おまえの口ぶりでは、有り得ない話のように思えるけれど」
「その〈異端画〉を貸してください!」
ジョヴァンニはクロードから〈異端画〉を半ば奪うように取り上げると、視線を走らせて――愕然とした。
(まさか。そんな、まさか……。ラファエラの〈星葬画〉が描かれて、何日が経った⁉)
強引に奪われたクロードは不服そうに、くちびるを尖らせる。
「ずいぶんと冷静さを欠いているね。なにかまずい事情でもあるの?」
「……ええ」
〈ミュトス〉の親方であるジョヴァンニは、落ち着いた振る舞いを心がけているが、若さゆえに演じきれない場合も、往々にしてある。
現に今がそうだった。抑えきれない興奮のまま、頷く。
仮にジョヴァンニの憶測が正しければ、四十年前にも同じ出来事が起きたのだ。
四十年前に描かれた〈異端画〉は、王家にとって、いささか都合が悪かった。
題名は――『我が親友』。
描かれていたのは、幼い頃に病没したとされる王女の、成長した姿で。宿る〈星魂〉も、王女自身に違いない。
当時の王室は、次期国王の選出に揉めに揉めていた。
じつのところ、王女も病死ではなく、暗殺されたのではと、密かに囁かれていたようだ。
だから当時の王家は、その〈異端画〉を認めず、また、〈異端画〉を描いた画家の存在を疎ましく思った。
もしそれが事実であれば。
童話の世界だった〈妖精國〉は存在し、亡くなったはずの王女が〈妖精國〉に渡った可能性を、否定できない。
「ねぇ。クロード。僕にも事情が分かるように教えて。これは、誰の〈星葬画〉なの?」
あのクロードが、もどかしそうに問い詰める。
彼がここまで興味を示した絵は、今までに存在しただろうか。
(ああ、ついに『真実』に近づいた……)
ジョヴァンニは乾いたくちびるを舐め、彼をより焦らせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……〈妖精国の宮廷画家〉ラファエラ・モッロ。我らが師トラヴィスの、旧き友人の女性です。これは彼女の孫娘、ローザが描いた、〈異端画〉」
『異端』と言われる所以となった〈星葬画〉には、一人の老婆の姿が描かれている。
狭い家屋の一室だ。部屋の広さに反して、やけにものが多い。だが、中心となる人物や物以外には細部が書き込まれていないので、煩雑な印象は受けなかった。
古びた椅子に腰をかける老婆は、背筋をピン、と伸ばし、手には筆を持つ。
服装はいたって質素だが、上品な佇まいだ。
老婆は身の丈ほどある大きなキャンバスに、絵を描きつけている。
老婆の姿は、精緻に描かれていた。後ろで括った白髪の一本一本から、目じりや口元の皺ひとつひとつをとっても、丹念に描かれている。生成り色のドレスは、ところどころ縫い直した形跡が見られるし、靴にはすれ傷が目立つ。
〈星葬画〉は美しい情景や、妖精を描くことが多い。所帯じみた古着を纏う、うらぶれた老婆が描かれた絵画を目にするのは、ジョヴァンニも初めてのことだった。
ことラファエラに関しては執念とも言える熱の入りようだが、特別に優れた技巧や、目新しい技術で描かれているわけではない。ラファエラの画風を真似たのだろうか、今の流行りからは遅れ、どこか古臭ささえ感じられる。
だが、まるで老婆が生きているかのように感じられるのは。
「ラファエラ・モッロが亡くなってから、既に半月以上が、経過しているのです」
歓喜に震えるジョヴァンニが告げた事実を耳にして、クロードの金色の瞳が、大きく見開かれる。
その瞳の先の〈星葬画〉には、消えたはずのラファエラの〈星魂〉が――宿っていた。
***
それはある種、『異端』な〈星葬画〉と言えた。
唾を飲み込む音が、やけに生々しく室内に響く。
虚ろな胸に、久しくなかった高鳴る鼓動を感じながら、クロードはラファエラ・モッロの〈星葬画〉を食い入るように見つめた。
骸と同様に、魂もまた、永遠ではない。
死後、魂は〈星魂〉へと至り、静かにその命の灯を削る。輝きが燃え尽きる、つまり〈星魂〉の寿命は、おおよそ死後七日程度と、先人たちによって解明されていた。
魂が見えない依頼人の多くは、魂が〈星葬画〉に宿れば、半永久的に残るものだと信じている。
彼らに事実を告げるのはひどく残酷な行いだと、画家たちの間では、魂の本当の寿命を口外しないことが、暗黙の了解となっていた。
半月以上も経つのに、かぼそい光ながら、ラファエラの魂は存在している。
残るはずのないものが、そこに存在している。それを可能とするならば……。
「……まるで、今では失われてしまった、『魔法』を見ているかのようですね?」
ジョヴァンニはクロードの心をさも読み取ったかのように囁く。普段は理性的で、平静とした瞳は、何ものかに惑わされているようにも思えた。
たとえば、〈悪しき獣〉に。
低く掠れた美しい声が、いつの日か師トラヴィスが諳んじていた詩(おとぎばなし)を、歌うように唱える。
「古き魔法使いは『永遠』の魔法を描く。とこしえの楽園、〈妖精國〉に通じる〈妖精画〉を描ける者こそが、真の〈妖精画家〉と呼ばれる。そして……」
兄弟子は、クロードが世界で一番、大嫌いな言葉を口にして、微笑む。
「彼の者は、〈妖精の愛し子〉」
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