【4】小さな躰に秘める願い

 春の冷たい海風が、頬に吹きつける。

 ジョヴァンニはローザの腕を引き、墓石の合間を縫いながら歩き始めた。


「ローザ、待っておくれよ、ローザやぁ……!」


 ローザの背中に向かって、マノンが初めて聞くような、頼りない声音で、幾度となく名を呼びかける。

 ローザは涙ぐみながら、しかし、振り向かなかった。


(ジェラールさんも、マーサさんも、何も悪くない。巻き込めない)


 連れて行ってほしいと懇願した身だ。

 もとより抵抗するつもりも、逃げるつもりもなかったが、ジョヴァンニはがっしりとローザの細い腕を掴んでいた。

 手袋越しにその熱は驚くほど熱い。

 そして、ふつふつと静かな怒りが伝わるようだ。


(ジョヴァンニさまも、絵を描くひと、なんだ……。〈星葬画〉が描ける、ひと……)


 そして、ローザとは違って。正しく亡者をみおくれるひとなのだ。

 ジョヴァンニは周りにいた男たちに、ローザの描いた〈異端画〉を運ぶよう指示を出していた。命じ慣れた様子からは、彼は立場ある人間であることが窺える。

 久方ぶりの外は日が照っていて、目が灼けるように眩しかった。躰はふらつき、足がもつれ転びかける。

 ローザが何度目になるか。

 大きくよろめいてジョヴァンニの背中に額を打ちつけてしまう。ローザの躰はポン、と跳ね飛ばされ、反動で尻もちをついた。

 すると、彼は唐突に足を止めて振り向く。

 ローザは困惑し、顔を上げる。ちょうど逆光になっていて、見上げたジョヴァンニの表情は覗えない。


「ひいっ……!」


 何を思ったか。ジョヴァンニはローザを、まるで荷物を運ぶかのように抱き上げると、確かな足取りで歩きだす。

 ローザは驚いたし、それ以上にひどく焦った。

 海崖で夜を明かしたローザの服は、湿った泥にまみれ、ぐちゃぐちゃだ。

 彼の白くて皺ひとつないシャツも、臙脂色のしっとりとした布地の上衣も、穢れない皮の手袋も、ローザに触れたら汚れてしまう。

 しかしもがけばもがくほど、彼はローザを抱く腕の力を強くする。逃げようと思われているのだ。そんなつもりはまるでないのに。

 それに、視界がグルグルと回る。躰が火照って、気持ちが悪い。

 だからローザは、素直に抵抗を諦めた。

 ようやくローザがおとなしくなると、ジョヴァンニは重々しく口を開く。


「なぜ君は……ラファエラ・モッロの姿を残したのです?」


 誰にも聞かれたくないのか。

 空気に溶ける囁く声音であっても、抱きかかえられていたから、ローザの耳にはしっかりと届いた。

 綺麗な顔に恐ろしい表情を浮かべていたのに。

 その声音は、泣きたくなるほどに優しかった。

 ローザは昔から人見知りが激しく、同世代の友達もいない。見知らぬ男のひとと会話をするなんて、大の苦手だった。

 けれど、ジョヴァンニはラファエラの死を悼んでくれている。

 彼が同じ悲しみを分かち合える人間だと知れば、スラスラと、言葉が自然と口をついて出てくる。


「あたし、おばあちゃんのこと、忘れたくない。でもね、おばあちゃんが、最期にどんな顔で眠ったかも、うろ覚えなの……」


 ジョヴァンニはハッと息を呑んだようだった。

 ローザがほんの少し、目を離したすきに亡くなったラファエラは、最後に、穏やかな笑みを浮かべていたか、苦悶の表情を浮かべていたか、あるいは、痛みに涙を流していたか。ローザには正しく、答えられない。


 愛する者のそれでも、かたちのない記憶は、なんて頼りないのだろう。

 かたちに残せれば、失われることはない。


「大好きなおばあちゃんのこと、忘れたくない。ずっとずっと覚えていたい。大切な想い出を残したい。だから、描いたの……」


 ローザはぎゅっと強く瞼を閉じる。

 暗闇の中でぼんやりと姿を結ぶのは、愛する祖母ラファエラの姿。

 もう輪郭がぼやけ始めているそれを、ローザはいつまでかたちづくることができるのだろう?

 ローザの言葉を受けて、ジョヴァンニはよりいっそう力を込めて抱きしめた。

 心配せずとも、ローザには本当に、逃げる意思はない。

 だからそんなに、強く拘束する必要はないのに。


「裁きは、受ける……。悪いことなら、償う。でも。あたしは、間違って、ない……」


「ローザ、君は……」


「あたしの愛は、誰にも、否定させない…………」


 混濁した意識の中で、ジョヴァンニが何かを言ったような気もする。

 けれど、だんだんとローザの意識が遠のいてしまったから、彼が言おうとしたことは、何も分からなかった。


 ***


 それから次に目覚めたときには、夢の世界にいるような心地で、ローザは馬車に乗らされていた。

 とても疲れ切っていて、躰が熱っぽく、やけに重い。半分、意識が朦朧としている。

 風邪をひいたのだろうか。頭が回らない状況で、ローザは冷静に考えた。

 向かいにはジョヴァンニが座っている。

 ローザが目を覚ましたことに気づくと、彼は美しい顔に、とびっきりの笑みを浮かべてみせた。

 狭い馬車には彼とローザのふたりきりだ。彼が引き連れていた男たちの姿はない。

 ローザの躰には彼が身に着けていた臙脂色の上衣がかけられている。

 上衣の下では、躰が寒気を覚えて、ガタガタと震えていた。どうやら本格的に風邪をひいてしまったのかもしれない、とローザは思う。

 手袋を脱いだ、ジョヴァンニの右腕が伸ばされる。反射的に、ビクリ、とローザは躰をこわばらせた。

 ジョヴァンニは少し困った表情で、ローザの額に大きな手のひらをあてる。


「君、熱がありますね。何故、具合が悪いことを知らせなかったのです?」


 彼が上衣を掛け直すのを、ローザはぼんやりと眺めた。白く清潔なシャツも、彼の白い指先も。すっかりと汚れてしまっている。


(悪いこと、したなぁ……。お洗濯で、汚れが落ちるかな……。嫌な思いを、したかな)


「ごめん、なさい……」


「え?」


「服を汚して、しまった、から…………」


 ジョヴァンニが貴族であることは、ローザには予想がついた。

 ローザの知っているお貴族様は、たまに村の外から来て、ラファエラに〈星葬画〉を依頼するひとたちで、正直に言うと、嫌いだった。

 だって、ラファエラを下に見て、バセットの村を田舎臭いと馬鹿にする。

 平民を同じ人間とは思いもしない。罵倒を口にし、気に入らない態度を取れば、平然と体罰を振るう。好きになれるはずがない。

 彼はどうだろう。痛いのは嫌だなぁ、とローザが密かに思いながら謝ると、ジョヴァンニは深い溜息をこぼした。


「はぁ~~~。服が汚れるなんて大したことではありませんよ。君が犯した罪と比べては」


「ごめん、なさい……」


 殊勝に口にすれば、彼はローザを気遣うように口にする。


「休ませてあげたい気持ちはやまやまなのですが。私は君と話がしたい。少しでいい、時間をいただけますか?」


 ジョヴァンニの口調は険が抜けて、優しい。

 言葉がうまくかみ砕けなくて、ローザはふわふわと夢心地に、無言で頷いた。


「ありがとうございます。念のために確認しますが、君の名はローザ。ラファエラ・モッロの孫娘――しかし、血縁関係は持たない。違いありませんね?」


 ローザは再び、無言で頷く。

 彼は薄くくちびるを開くと、初めて身分を明かした。


「私はジョヴァンニ・モロー。画家組合〈ミュトス〉の親方を務めています。王都には画家組合はいくつか存在します、しかし、〈ミュトス〉こそが最も古い歴史を持ち、王室からの信頼も篤い。ローザ。君は画家組合に所属は……していないのでしょうね」


 ローザは小さく首を横に振る。

 そもそも画家組合なんて名前、それすらも聞き及んでいない。

 ラファエラは絵を描くこと、そして〈妖精國〉のことをローザに教えてくれた。

 しかし、それ以外のことは何も残さなかった。


「画家組合〈ミュトス〉は、若きも老いもすべからく、画家が盤石な生活を築けるよう、設立された組織です。組合に所属する画家が仕事にあぶれ、飢えて死ぬような悲劇を防ぐ。その才能を護るために、我々がいます。そして、……禁忌に手を出すことも、あるまい」


 ジョヴァンニの声は終始穏やかで。ローザは彼が、海のようなひとだと密かに思った。

 あんなにも強硬的な態度を取った人間と同一とは、にわかに信じがたい。この静穏としたふるまいは、彼本来の気質なのだろう。


「ジョヴァンニ、さまは……。神殿のひとじゃ、ないの?」


「ええ、その通り。ですが、一般人にも通報の義務はある。私は立場的にも、〈異端画〉をみすみすと野放しにするわけにはいきません。あの場には弟子もいたから、なおのこと」


 ジョヴァンニの命令を受けていた男たちが、彼の言う弟子なのだろうと、ローザは見当をつけた。


「本来であれば、私に連行する力はありません。しかし、想像してください。私が神殿から異端審問官を連れ、再び村に訪れたとしましょう。そのとき愚かで心優しき村民が、君を庇ったとします。異端審問官は、柔軟な私と違って話の通じない連中ばかり」


 ジョヴァンニは悩ましげに溜息をついた。密告する身でありながら、どうやら彼は、異端審問官に思うところがあるようだ。


「彼らもみな〈異端〉の仲間入りです。それはローザ、君も本意ではないでしょう?」


 ローザは素直にコクンと頷く。

 ジョヴァンニが便宜を図ってくれたのは、本当にありがたいことだ。


「とはいえ、この状況は私の本意でもありません。私は君を神殿に突き出すために、迎えにいったわけではありませんからね」


 話を戻しますが、と彼は前置いて言葉を継いだ。

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