【3】冷たい視線
「――ローザ、ローザや!」
名前を呼ばれながら、ガクガクと躰を揺り起こされた。
深い水の底に沈んだような意識が、一気に引き摺り出される。
脳裏をふと掠めたのは、いつだったか。水場で溺れた記憶。
(誰かが、呼んでいる、の……?)
ぼやけた思考の波をかき分けて、ローザはその声の主を探りだす。
よく知っている、聞き慣れた声。
ローザがゆっくりと瞼を開くと、村長夫妻の皺だらけの顔が、ふたつ並んでいる。
「ああ、ローザァ、起きてくれたんだね!」
「マノン、さん……?」
ローザが寝ぼけ眼で口にすると、マノンは破顔して、早口で捲し立てる。
「アンタが、ラファエラのことが大好きなのは分かるけど、だからってこんな場所で寝てはいけないよォ!ああ、もう、本当に、手のかかる子なんだからっ……!」
どうやらローザは昨夜墓へ訪れたのち、眠りに落ちてしまったらしい。
(……痛っ)
わずかな頭痛を覚え、ローザは額に手を当てる。
頭だけではない。土の上で眠ってしまったせいで、ローザの体の節々はキシキシと悲鳴をあげている。
ローザが小さく呻くと、マノンはひどく心配そうに顔をしかめた。
「どこか怪我をしているのかい?」
ローザは素直に、頭を下げた。
「ううん……。マノンさん、その、ごめん、なさい。あたし、昨日、おばあちゃんの〈星葬画〉を描いて、おばあちゃんのもとにすぐに持ってきたかったの……」
モゴモゴと言い訳を口にしていると、ローザははっと目が覚めていくようだった。
「……そうだっ、おばあちゃんの絵は!」
ローザは海崖に来た目的を次第に思い出す。
大好きなラファエラに、サヨナラを告げるためだ。
慌てて躰を起こすと、あたり一辺を見渡した。
ローザのすぐ近いところ――ラファエラの墓石の上に、キャンバスは落ちている。
ローザは思わず、飛びあがりそうになった。
(あった、おばあちゃんの、〈星葬画〉……!)
幸いにして描いた面が上になっていたため、泥で汚れてはいなかった。
そして、信じがたいことに、見えないラファエラの魂に寄り添うように、小さな妖精たちの淡い光が、絵にとどまっているではないか。
夢? 現実? ローザは頬をフニフニと抓る。
痛い。痛い。しっかりと、痛い。
(描けたんだ……あたし、おばあちゃんの〈星葬画〉が、描けたんだっ!)
「ローザ、聞こえているのかい。ローザや……」
内心こみあげる喜びを嚙みしめて、座りこんだままのローザの名を心配そうに呼ぶのはジェラールだ。
ローザは半分意識を〈星葬画〉の方に残したまま、コクコクと頷いた。
「き、聞こえてるよ、ジェラールさん……」
「でも、先ほどからずっと、ぼんやりして。まだ寝ぼけているのかね?」
「あ、えっと、もう、大丈夫、だよ……」
彼の皺だらけの手に引き上げられて、ローザは立ち上がる。急に立ち上がったせいか、くらくらと眩暈を覚えた。
(ジェラールさんにも、マノンさんにも……あたし、たくさん迷惑をかけてばかりだ。おばあちゃん、いなくなっちゃったから、あたしが、しっかりしないと、ダメ、なのに……)
俯きがちなローザの顔を、不安そうな表情を浮かべたマノンが覗き込む。
「ああ、ローザ! 少し見ない間に、こんなにやつれてしまって」
マノンはローザの服についた泥をはらいながら、ぶつくさと言う。
「ラファエラをみおくってから、あたし、何度かアンタの家に行ったんだよ、それなのにアンタは……」
「そう、だったの?」
全然気づかなかった。
それだけ、ローザは絵を描くことに、神経を研ぎ澄ませていたのだろう。
「そうだったの。声をかけてもたまにしか声が返らないし、気を遣って、家には入らないようにしたけどね……。窓からじゃあ、アンタの姿は見られないから。無事かどうか、こっちはひどく心配したんだよ!」
ローザはちょうど、窓から見えない位置で絵を描いていたらしい。
彼女はローザの寝ぐせのついた髪を、手櫛で乱暴に整えながら、心配そうな声で訊ねる。
「こんなに痩せ細って、ごはんは食べていたのかい? アンタの好きな料理をたくさん、作ってあげるからねっ。村に戻ったら、うちに寄って、食べるんだよ」
「う、うん……。そうする……」
「ああ、そうそう」
されるがままのローザを微笑ましげに眺めながら、目的を思い出したらしい。
ジェラールが豊かな白い髭を撫でつけて言った。
「ローザ。お前さんに客が来ていたんだ。ラファエラの知り合いの画家さんがね、街のほうから出向いてくださって……」
のんびりとしたジェラールの声は、突然に遮られた。
その枯れ木のような躰を押しやり、見知らぬ男がローザへと向かい合ったためだ。
「これが、〈星葬画〉だというのか……?」
震える声で、男は呟く。
「この――〈異端画〉が」
〈異端画〉。
その言葉を耳にした途端、ローザの躰は本能のように恐怖を覚えた。
険しい顔をした男の腕の中には、ローザの描いた〈星葬画〉がある。
同じく押しのけられたマノンが、男に食って掛かった。
「ハァ? 『異端』、だって? ローザがラファエラのために、心を込めた描いた絵に対して、何てこと言うんだよ、アンタは!」
マノンの咎める声を遠く聞きながら、ローザの背中には冷たい汗が、じんわりと滲んだ。
それは本来、存在してはならない〈星葬画〉であると、理解している。
ローザの我欲に逆らえず、結果として生み出された〈異端画〉だ。
ひとの姿を絵に閉じ込めた〈星葬画〉は、〈異端画〉である。
それをラファエラに教えられながらも、ローザは描いたのだ。
それは画家として、最大の禁忌である。
本来、〈星葬画〉にはひとの姿を描いてはならない――その決まりは、ローザが生まれるずっとずっと昔から定められているのだという。
〈星葬画〉は死者の魂が留まる地だ。よき魂はひとのかたちを取らないと、古くから教えが伝わっている。
かたちのある〈星魂〉は、この世に未練を残すもの。
生を渇望するあまり悪しき霊と転ずるか。
あるいは、ひとの我欲を好物とする、〈悪しき獣〉たちに喰らわれるか。
そうと知ってもローザはその決まり事を破った。
亡きラファエラの姿を納めた〈星葬画〉を描いてしまったのだ。
「君は、どれほどの罪を犯したか。理解していますか?」
ローザを問いただす彼は、村の人間とはまるで異なった装いをしていた。
着飾ることに縁遠いローザでも、男の身に着けるそれが、仕立てのよいものであることくらいはわかる。
こんな立派な仕立ては、『村の外から来たひと』くらいしか見たことがない。
癖のない蜂蜜色の髪は、労働の邪魔になるのに、背中の中ほどまで長く伸ばされていた。
日焼けのない肌に、長身で、胸板の厚い体躯を包むのは、白く皺のない絹のシャツ。彼の高貴さに深みを増すような、臙脂色の上衣。黒い革靴は、ピカピカに磨き上げられている。
白く汚れのない皮の手袋は、彼の身分をそのまま現しているようだ。
そして、眼鏡の奥の理知的な青い瞳の、なんと冷たいことか。
彼は整った顔をこわばらせて、ローザを見下ろしていた。
凍り付きそうな視線に、ローザはブルブルと震えあがる。
彼の後ろに立っている、見知らぬ顔の男たち数名が口々にざわめきだす。
今この状況を理解していないのは、画家ではないジェラールとマノンのふたりだけ。
しかし、状況を掴めないなりに、雲行きが怪しいことは察しているらしい。
マノンはローザを背中に隠し、男に果敢にも言い募る。
「ちょっと、なんだいジョヴァンニさん。そんな怖い顔つきをして! 罪? この娘がどんな悪さをしたっていうんだい!」
「描いてはならないと定められているものを、描いてしまうこと。我々はそれを罪と、あるいは『異端』と呼びましょう?」
無知なマノンに言い諭す男――ジョヴァンニの声は固く、重い。
「そして彼女は、それが禁忌だと知りながら、その行いに手を下した。〈悪しき獣〉に魂を売り渡したことと、同義ではありません?」
すっと、伸びたジョヴァンニの手がローザの腕を捕まえるのを見て、マノンは目を吊り上げた。
「ちょっと、何なんだい、乱暴はよしなっ!」
「……マノン殿。この娘を庇いだてするのであれば、貴女も同胞とみなします。その場合、貴女も王都の神殿にて、異端審問の対象となる」
男の忠告に、威勢のいいマノンも、これには言葉を失ったようだ。
それでもまだ何か言い募ろうとする彼女を、ジェラールが手で制した。
ジョヴァンニはひややかにジェラールを一瞥する。
「……あ、あの……っ」
ローザはなけなしの勇気を振り絞って、ジョヴァンニの前に向かい立つ。
ジョヴァンニはローザと比べても、ずっと背が高かった。
彼の青い瞳が、ローザをじっと見下ろしている。
「……ジェラールさんも、マノンさんも、〈異端画〉のこと、何も知らない……。何も、悪くなんて、ない……。あたしだけが、悪い、の……!」
「ほう」
必死に訴えかけると、ジョヴァンニはローザの顔色を観察しながら、考え込むようなそぶりを見せた。
(ジェラールさんと、マノンさんは、巻き込んじゃ、だめだっ……!)
ローザはぎゅっと、掴まれていない方の腕で服の袖口を握る。それから、ジョヴァンニの顔を見つめて頼み込む。
「お願い、ジョヴァンニ、さま……。あたしを、王都の神殿へ……連れて行って」
「……ふむ」
それでいいのか、と訊ねるように、ジョヴァンニはローザではなく、ジェラールに視線を向ける。
ジェラールは悲痛な表情で、悩んでいたようだった。
無言で頷き、彼に肩を抱かれたマノンはジョヴァンニを睨みつけながらも、それ以上歯向かう意思は見せなかった。
ジョヴァンニは熱のない瞳をローザへと向け、告げる。
「分かりました。君の決意を受け入れます。では……行きましょうか」
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