【2】今は知らぬ、『ラファエラ・モッロ』の孫娘
それからの七日間ほどのことは、殆ど覚えていない。
ローザは生きているのか、眠っているのかも分からない状態で、自宅に引き籠もり、夢中でラファエラの〈星葬画〉を描き続けた。
〈星葬画家〉であったラファエラ。彼女が死者を弔う絵を残す姿を、最も近くで目にしてきたのは、ローザを除いて他にいないだろう。
人間の肉体には魂が宿ると云われている。
死後、魂は〈星魂〉へと至り、静かにその命の灯を削っていく。最期のその瞬間まで、魂の輝きは尊くも眩い光を放ち続けるのだという。
しかし、人間の魂は〈悪しき獣〉たちにとって、何物にも代えがたい最上級のご馳走だ。その魂が彼らの毒牙にかかり穢されたのであれば、死者の尊厳は脅かされることとなる。
〈悪しき獣〉たちの手が及ばない領域――例えば絵画に〈星魂〉を閉じ込められるのであれば。その儚き命が燃え尽きるまで、魂の輝きを守り通すことができる。
つまりそれが、〈星葬画〉の目的なのだ。
時に、願いを込めた絵には妖精が宿る。それは〈妖精画〉と言う。人間の魂を守護するように妖精が〈星葬画〉に宿れば、それは彼らの祝福を得たということと同義なのだ。
人間の魂が見えて、なおかつ触れられるラファエラと違って、ローザにはラファエラの魂は見ることも触れることも叶わないけれど。〈悪しき獣〉から守り抜くために、絵を描くことはできる。
小さな隣人に見守られながら、ローザは何とかラファエラの〈星葬画〉を描きあげた。
***
「……ふぅ」
窓から差し込む月明かりは細く、頼りない。
額に滲む汗を拭いながら、ローザは疲労の溜息をこぼした。
(描けたぁ。おばあちゃんの、〈星葬画〉……)
ローザはキャンバスの絵をまじまじと眺めた。淡い月明かりに浮かぶ〈星葬画〉は、会心の出来といっても、過言はない。
これ以上、手を加える必要もないだろう。
それよりも、早く、会いたい。会いたい、ラファエラに。
ローザは完成したばかりで絵具が未だ乾ききっていないキャンバスと、油の残り少ないカンテラを両手に取った。
達成感による高揚か、あるいは寝不足によるものか。ペタペタと頼りない足取りで家を飛び出した。誰もが寝静まっている時分だ。どの家屋も明かりが落とされている。
闇の緞帳に飲み込まれた村は、静けさに恐れを抱くほど、もの寂しい。
春の夜風は容赦なく、ビュウビュウと吹きつける。素肌に触れる空気は凍るようで、刺すような痛みを感じた。
かじかむ指先でキャンバスをしかと握りしめながら、ローザが目指すのは海崖の墓場だ。暗い夜道に、足取りがついつい、止まりそうになる。
ローザが迷わず墓場へと向かえたのは、ささやかな星々の輝きと、古ぼけたカンテラの灯火と、そして、ラファエラが愛した小さな隣人――妖精たちが、ローザの傍を取り巻いてくれたおかげだろう。
開けた海崖の墓地まで出ると、青く丸い月が空にぽっかりと浮かび、出迎えてくれる。
ローザは小さな隣人たちとともに、ラファエラの元へと駆ける。掘り返されてまだ真新しいフカフカの土の下。この暗くて寂しい場所に、ラファエラは眠っているのだ。
ローザは服が汚れるのも厭わずに、地面に片膝をついて、密やかに問いかける。
「ねえ、聞こえる? おばあちゃん。魂は、まだこの下にいるの?」
ローザには〈星魂〉の、ラファエラの死後の姿は見えない。
ごくりと唾を呑み込み。
もどかしい気持ちで、キャンバスをグイっと、墓石に押しつける。
その瞬間。ローザの肩から、一斉に妖精たちが飛び立った。
まるで止まり木のように。キャンバスの中にひとり、またひとりと、降り立っていく。
「おばあちゃんが、絵の中にいるから、みんな、一緒にいてくれるの……?」
決して、言葉の通じない友人たち。
それでもローザは、訊ねずにはいられなかった。
問いかけに対する答えがあるとすれば。
妖精たちが宿る絵は、これまでに見た何よりも明るい。
つまりは、肯定だと、示すように。
暗闇に押し潰されそうだったローザの胸に、ポツンと希望の灯火を宿してくれる。
この明かりが続く限り、ローザは自分を見失わずにいられると、密かに思った。
(よかった。これでおばあちゃんは、ひとりじゃない。おばあちゃんには、みんながいてくれる……!)
安堵からか、緊張の糸が途切れる。
それからプツリ、と。ローザの意識は途絶えた。
***
亡き師トラヴィス・ブルーの旧い友であり、十年と満たない活動期間にもかかわらず、数々の名画を残したとされる〈妖精國の宮廷画家〉ラファエラ・モッロ。
ジョヴァンニ・モローがラファエラの訃報を受けたのは、彼女の葬儀が既に執り行われた後のことだった。
二十代も半ば、自身の画家としての最盛期に、誰知らず行方をくらませたラファエラ。
彼女がオネスドク国内の小さな漁村で、『血縁関係のない孫娘』と、ふたり清貧な暮らしを送っていること。村民たちのために、無償で〈星葬画〉を描き続けていたこと。晩年、不治の病魔に蝕まれていたこと。先は短く、訃報を知らせる手紙が届く頃には、既に埋葬まで終わらせていること――。
それらを簡潔にしたためた文面と宛先は、病床にあったラファエラ自らの手によって書かれたものだろう。
だが、その手紙の差出人は彼女自身ではなく、村の長である男の名前、ジェラールと記されている。
オネスドク王都の画家組合〈ミュトス〉の執務室で、親方たるジョヴァンニは長椅子にだらしなく身を預けながら、その手紙に目を通していた。
震える筆跡は、送り主の不自由さが。丁寧な書面には、ひととなりが窺えるようだ。
一度目を通した時点でおおよその状況は把握したが、繰り返し視線を走らせては、ジョヴァンニは、小さな溜息をこぼしていた。
部屋にいるのはジョヴァンニただひとり。
〈ミュトス〉の代表らしくない立ち振る舞いを、咎める弟子や使用人の姿はいない。
「はっ。このようなかたちで、あのラファエラ・モッロの生存と、逝去を同時に知らされることになるとは、想像もできませんねぇ」
蜂蜜色の、癖のない髪をガシガシと搔きむしりながら、ジョヴァンニは毒づいた。
師から口伝された若き日のラファエラ・モッロ。
彼女は良くも悪くも、多くの逸話と実績を残す女性である。
絵は何よりも雄弁だ。剣も、ペンも、今を生きる人間の言葉も、勝るまい。
ラファエラの数少ない理解者であった師の言葉すら、遥かに凌駕するのだから。
ラファエラの描いた〈星葬画〉との出会いは、ジョヴァンニがまだ十代の少年だった頃。
彼女の描いた〈星葬画〉は、その天賦の才能を、より鮮明に教えてくれたのだ。
ジョヴァンニにとって、ラファエラは尊敬する画家のひとりだ。叶うことなら、生きているうちに出会い、一度きりでも話をしてみたかった。
「孫娘が独り立ちするまで、面倒を見てほしい、と」
小さな漁村で、細々と生計を立てながら貯めたお金とともに託す。手紙にはそう書かれていた。しかし財貨は、ジョヴァンニの年俸に、遠く及ばないだろう。
かつてはオネスドク古王国きっての〈妖精画家〉とまで持ち上げられた人物だのに、その最期は辺境の小さな村で老い果てた。
みずからの〈星葬画〉よりも孫娘の今後を憂慮する――愛する孫娘をひとり残し先立つ無念と悔しさは、如何ほどのものだろう。未婚で子どものいないジョヴァンニでも、その思いに限りなく寄り添うことはできる。
「なぜ、今になって、〈ミュトス〉を頼った?」
彼女にとって、〈ミュトス〉は古巣だが、離籍期間がいささか長すぎる。
ただ単に、孫娘がひとり生きるための地盤を固めるのであれば、村の人間に彼女の身を任せればいいだけの話なのだ。
けれど、彼女の手紙は。かつての旧友の弟子であり、画家組合の親方宛に届いている。
何かしらの事情を抱えているのだと、ジョヴァンニはうっすらと感づいていた。
「……たとえば、孫娘ローザには、〈星葬画家〉の素質がある」
若き画家の健やかな成長と、安定した生活を約束すること。
それらを目的として、師トラヴィスが中心となり、画家組合〈ミュトス〉は設立された。
その立ち上がりには、若き日のラファエラも貢献に応じたと耳にしている。
古くに隠居した彼女が、先代〈ミュトス〉の代替わりの際にあった『内輪揉め』を認知しているかは不明だが、一度は身を置いた組合だ。孫娘を預けるにあたり、〈ミュトス〉以上に信頼のおける組織はまず存在しないと、判断したのだろう。
(その判断は、果たして正しいのだろうか?)
ジョヴァンニは苦笑しながら、長椅子にポスンと倒れこむ。
手紙を左手に、掲げた右手の指先をあてどなく宙で踊らせれば、どこからか妖精の少年が降りたった。
人外じみた、人形のように整った容姿を持つ、妖精の少年だ。
彼は甘く微笑みながら、ジョヴァンニの顔に視線を落としている。
ジョヴァンニはその信じがたい美貌を見上げながら、何とはなしに口にする。
「孫娘ローザは……。〈妖精画〉の描ける人物であるのかもしれない」
手紙には多くのことは書き記されていない。すべてを書き記すほど、彼女に猶予は残されていなかったのだろうか。
「本当に、惜しいですね……。ラファエラ・モッロが存命のうちに――せめて埋葬前に手紙が届いてさえいれば。彼女の魂を宿した〈星葬画〉を残すことが、可能でした」
トラヴィスに並んで尊敬する画家である。ジョヴァンニみずからが描けずとも、一流と呼ばれる画家に依頼して、孫娘には無条件に引き渡すことだってできたのだ。
口にして、ジョヴァンニはその空白な時間が、やけに引っかかった。
(いや、あるいはわざと、手紙の投函を遅らせた……?)
「……ラファエラ・モッロは、自身が亡くなってから、手紙が届くように仕向けた?」
不意によぎる憶測を、ジョヴァンニは首を振って払拭する。
あえてそうする理由が考えられない。身寄りのない孫娘を引き渡すなら、早ければ早いほどよいのだから。
ジョヴァンニが右手を降ろすそぶりを見せると、妖精の少年はふわりと重さを感じさせない動きで、指先から軽やかに飛び去った。
たおやかに羽ばたく翅を目で追いながら、ジョヴァンニは長椅子から躰を起こす。
それから手紙を机の片隅に置くと、長身をぐぐっと背伸びして、席を立つ。
「……結局のところ、自分の目で見て確かめろ、とのことでしょうか」
ここのところ、画家としての仕事は請け負っていないといっても、画家組合〈ミュトス〉親方としての仕事は絶えない。
今も仕事机の上には書類の山がこんもりと築かれていて、家に帰れない日々が続いている。
「はぁ……。明日からより一層、忙しくなりそうですねぇ……」
年を重ねて、とくに亡き師の跡を継いでからは、格段に苦労が増えた。
年々増える仕事の山に、決別したきょうだい弟子たちからの嫌がらせの数々。王室の、特にあの我儘な王女様から次から次へと投げられる面倒ごとには、常に頭を抱えてばかりだ。
ラファエラ・モッロの孫娘の面倒をみること。これは群を抜いた厄介ごとだと、ジョヴァンニには早々に察しがついていた。
みずからの手には負えないかもしれないと懸念を抱きながらも、しかし、不思議と高揚する気持ちは抑えきれない。
(ローザ。〈妖精國の宮廷画家〉ラファエラ・モッロの孫娘……)
――あの、有名な『異端画』を描いた魔女、ラファエラ・モッロ。
村へ向かう手筈を整え始めるジョヴァンニの口元には、自然と笑みがこぼれていた。
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