星葬画家と妖精の愛し子

@fujimiya_hare

異端の画家と妖精の愛し子

【1】おばあちゃんと、サヨナラの儀式

 ローザにとって、愛する家族はただのひとりきり。


 その唯一愛する存在を失ったのは、初めてのことだった。

 十五歳となる、春。

 若葉は瑞々しく芽吹き、囀る白の小鳥は神の遣い。うららかな青空のもとに、乙女たちは天に、祈りの歌を紡ぐ季節。

 空から雨が降りしきるように、ローザの瑠璃色の瞳からは、ひたひたと、とめどなく涙が流れ続けた。

 オネスドク古王国の南東、スエニフィラフ南大国とは海を隔てて近しい、辺境の小さな漁村バセット。

 村から外れた海崖の上に、愛した祖母の骸は眠る。崖の上は見晴らしがよく、天候に恵まれた日には、空と海が抜けるように青く輝くのだ。

 しかし祖母――ラファエラ・モッロとの別れの日は、空は曇り、海は時化っていた。

 湿った潮風は、ローザの淡いストロベリーブロンドの髪を荒々しく攫う。着古したスカートの裾が大きくバサバサと揺らめくと、ヒヤリと冷たい空気がローザの地肌を舐めた。

 村でも若く力のある男連中が、一心に穴を掘る。

 生前よりラファエラと交友を深めていた村の女たちは、さめざめと涙と嗚咽をこぼしていた。


(あたし本当に……おばあちゃんと、お別れになってしまうの?)


 時間が経つにつれ、ローザの胸にはジワジワと実感が湧いてくる。

 急ごしらえの棺桶の中で眠るラファエラの顔は、新品のキャンバスよりもずっとずっと、白かった。そして生きていた頃と同じように、優しい微笑みを湛えている。

 ローザには、濡れた視界にラファエラの亡骸は映っても、その魂を見つけることは叶わないのだ。

 街から呼びよせた牧師が、訥々と、祈りの詞を捧げ始めた。

 ふいに、村人のひとりが顔をあげる。

 ローザの頬にひたり、と水滴の粒が落ちる。涙ではない。


「――雨だ」


 誰かが呟いた。雨粒がポタリポタリと、大地にほの暗い染みを滲ませていく。

 針のように冷たい雨に打たれながら、ローザは愛した家族の、遺骸を見つめた。


(あたしが、おばあちゃんの、本当の孫だったら……)


 そう、がむしゃらに願い続けて。何度目になるだろう。

 どうにもしがたい無力さに打ちひしがれ、ローザはきつく、唇を噛みしめた。


 ***


 祖母ラファエラ・モッロは、村で唯一の〈星葬画家〉だった。

 享年六十五歳。

 それが長いのか短いのか、あるいは、一般的であるのか。ローザには分からない。ラファエラは昨年の終わり頃から、何度か体調を崩しがちでいた。

 ローザと食事をしている最中に突如として意識を失い、ラファエラが倒れたのは、ほんの一月前のこと。

 バセットは小さな漁村だ。村に医者は常駐していない。

 急ぎ近くの街から医者を呼び立てて、祖母の容体を診てもらった。

 深刻な顔をした医者の見立てによると、ラファエラは治る見込みのない病を患い、また、長くは持たないという。ローザはそれを呆然として聞くほかなかった。

 少し前まで、溌剌とした彼女の姿を見ているのだ。それが無学の己とは違い、医術を知る専門家の言葉だとしても、とてもではないが信じられなかったし、そして、信じたくはなかったのだ。

 その日の夜は、ローザが幼い頃なかなか寝つけずラファエラがしてくれたように。彼女の手をぎゅう、と強く握って、いるかいないかも分からない神様に必死に祈りながら、眠りについた。

 これが悪夢であればと、願いながら。

 ともあれ、医者の診断に誤りはない。ラファエラは意識を取り戻しても、それから殆ど寝たきりになる。死を目前と迫った数日前にもなれば、食事を少しも受けつけなくなった。


 ――祖母の命は、長くはない。


 理解するとともに、ひどく絶望して。ローザはほとんど寝ずの番で、祖母の傍に寄り添うことに決めた。

けれど、ほんの少し目を離した隙に――ラファエラは眠るように逝ってしまったのだ。

 妖精が運んだのだろうか、祖母の胸元には白く可憐な野花が一輪、置かれていた。


 ***


「――ローザ、アンタって娘は、何してんだい⁉ 風邪をひいてしまうよォ!」


 ぼんやりと突っ立っていたローザに、タオルをグルグルと巻きつけたのは、村長の妻、マノンだった。

 いつの間にか、葬儀は終わっていたらしい。海崖に残る人の影はまばらだ。

 ローザがお小言とともに、乱雑な手つきで躰を拭かれていると、トコトコと歩み寄った村長ジェラールは、皺だらけの顔に笑みを浮かべて、ひとつの提案をする。


「なあ、ローザや。お前さんさえよければ、しばらくの間、儂らと共に暮らさないか?」


「……えっ? ジェラールさんたち、と?」


「年寄りの二人暮らしは、何かと不便も多くての」


 ジェラールは白く豊かな髭を撫でながら続ける。


「若い君がいれば、食卓も華やかになる。そう思うだろうよ? マノン」


「ああ!」


 話を振られたマノンは、ウンウンと力強く頷いた。


「可愛い『孫娘』が傍にいてくれたら、あたしはすごく頼もしいよ! あたしたちの息子夫婦は、田舎を嫌ってなかなか帰ってこない、薄情者だからねェ!」


「ああ。……しばらくとは言わず、ずっとでも、構わないさ」


 それは、泣きたくなるくらいに、優しくて、穏やかで、暖かい、声だった。

 ラファエラと同年代の彼らは、ローザには何かとよくしてくれたのだ。

 だから、ローザにとっては、『第二の祖父母』に等しかった。

 ローザの家族はラファエラを置いて他にいない。職もないローザは、彼らの庇護を受けるべきだろう。

 それでも。……それでも。


「……ごめんなさい」


 ローザは顔を俯けがちに、ボソボソと言う。


「あたし、今日はおうちに、帰りたい……」


 彼らの優しさは、素直にありがたい。

 けれど、ローザはその申し出を断った。


「……そうか。儂らは、いつでも君の味方だからね」


 マノンは何か言いたげな顔をしていたが、ジェラールはやはり白い髭を撫でながら、口にする。

 ローザは何も言えずに、ラファエラとの想い出が色濃く残る家に帰った。

 今はただ、ラファエラのことだけを、偲びたい。

 祖母の痕跡に、縋りたかったのだ。

 ローザしかいない家屋はこじんまりとしているのに、妙に広く、寒々しい。居間に並んだふたつの椅子のうちのひとつに、ローザは膝を抱えるようにして、座りこむ。

 こういう『悪い子』の姿を見せると、ラファエラは決まって、ローザを叱るのだ。

「行儀が悪い子だね」と咎めながらも、孫娘にはとことん甘い顔を見せる祖母を思い出しては、ローザは乾いた笑いをこぼす。


(あたしがどんなに悪い子になってしまっても……。もう二度と、おばあちゃんは叱ってくれないんだ……)


「ねぇ、おばあちゃん、教えて……。どうしてあたしを、置いていくの?」


 蚊の鳴くようなかぼそい声で、ローザはひとり呟いた。

 ローザとラファエラとの間に、血の繋がりがないことは知っている。

 詳しい事情は教えてくれなかったが、血の繋がらないローザを、ラファエラは本当の孫のように愛してくれた。

 ローザも愛していたし、今でも愛している。傍らには常に、ラファエラの姿があった。

 それが当たり前で、当たり前のように続くと信じていた。

 けれどこれからは――ローザの隣に彼女はいない。

 だから、彼女のいない明日からの生活を思い浮かべようとしても、それをうまく描くことはできなかった。


「うっ、ふぇっ……、ひぐっ……! おばあ、ちゃん……。おばあ……、ちゃん……!」


 しゃくりあげながら名前を呼べば――涙でいっぱいの湖のほとりで、金色の光がほのかに揺れるのが見えた。

 ローザはグイッと、乱暴に涙を拭う。

 グズグズと洟を啜りながら、淡い金色の光に視線を向けた。

 椅子の肘掛け部分に、それは、いる。

 〈妖精國〉からの迷い人。

 ラファエラが友と呼ぶ――人間の小さな隣人、妖精だ。

 身丈は掌ほどしかない彼らは、まるで人形のようだ。

 しかし触れると、確かに暖かいことを、ローザは知っている。

 ローザは肘掛けに、おっかなびっくり、両手を伸ばす。

 淡い光を放つ妖精の少女は、軽やかにローザの指先に降り立つと、虹色に輝く翅を、フルフルと震わせた。


 ――妖精。


 人間とは生体を異とする生き物だ。

 だから、ローザには彼らの言葉を聞き取ることはできない。


 それでも、その美しくも凛々しい表情は。


「何をしているの?」


 と、ローザを叱咤しているようにも思えた。


 ローザは妖精の少女に、おずおずと左手の人差し指を寄せると、彼女は嬉しそうに頬ずりをする。

 指先でその熱量を感じながら、ローザはぼんやりと思った。


(おばあちゃんは、死んだ。もう、会えない。だから、泣き暮らしちゃ、ダメ、なんだ……!)


 ローザはラファエラを愛していた。

 ラファエラもまた、ローザを愛してくれていたのだろう。

 だから、血の繋がりがなくとも、ローザはラファエラの孫だと、胸を張って言える。

 そして祖母は、〈星葬画家〉だった。ローザはそんな祖母の背中を見て育った。

 いつしか彼女のような〈星葬画家〉になりたいという夢を持つまでに、そう時間はかからなかった。

 ローザが覚悟を決めきれなかっただけで、今なさなければならないことには、とっくに辿り着いていたのだ。

 残さなければ。彼女の居場所を。


「っ…………、ぐすっ。あたしが、今、するべきことっ…………」


 泣いたせいで、喉がガラガラに枯れていたけれど、己を奮い立たせるように、ローザは声を張り上げた。

 誰も聞いていなくとも。

 ローザ自身が、聞いている。

 それにきっと、ラファエラも、聞いてくれているのだ。


「それは、おばあちゃんの、〈星葬画〉を描くこと……! おばあちゃんを、きちんと、見送ること……」


 そして、一番大切なことは。


「おばあちゃんに、サヨナラを言う……、こと……、なんだっ……!」


 サヨナラの儀式が、今のローザにとって、何よりも必要なのだ。

 ぐしゃぐしゃのローザの顔を、妖精の少女は不思議そうな表情で見つめている。


「……ひぐっ、あたしに……、できる、かな……? できるのかな、こんな、あたしなんかに……。……君は、  ここで、見ていてくれる…………?」


 ローザはズズっと鼻を啜って、ぎこちなく微笑んだ。

 気のせいかもしれない。ローザの都合のいい幻覚か。

 妖精の少女も、微笑み返してくれたような気がする。

 だから、ローザの胸を、熱い炎が迸る。

 ローザは妖精の少女を、再び肘掛けに座らせると、椅子から勢いよく飛び降りた。

 居間の端にイーゼルを立て、木枠には真新しい画布を張りつける。ラファエラの私室から必要な顔料を拝借し、机の端に丁寧に並べていく。

 ローザは鉛筆を右手に、大好きなラファエラの姿を思い起こした。


(おばあちゃんの〈星葬画〉を描くとすれば……)


 頭の中には、いくつもの構図が思い浮かぶ。

 これだ、と決めた一枚を、曖昧なかたちから、くっきりとしたそれへと描き換えていく。

 視界の端で、妖精の微かな光が揺らめいた。


 ――もう、迷わない。


 ローザは鉛筆の先を、キャンバスに滑らせた。

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