第8話 描くことの意味
エミリの言葉に背中を押され、晴人はアトリエでのデッサンにますます集中するようになった。スケッチブックのページは次第に埋まり、そこにはモデルの身体だけでなく、街の風景や人々の日常が描かれていた。
しかし、描けば描くほど、晴人の胸にはある疑問が膨らみ始めた。
「俺が描いているのは、ただの形なのか……それとも、何かもっと深いものがあるのか?」
エミリが言っていた「物語」という言葉が頭から離れない。果たして自分の絵には、何かを伝える力があるのだろうか。
その日、晴人はエミリの写真展に足を運ぶことにした。ギャラリーには多くの人が訪れ、写真が壁一面に展示されている。エミリの作品は、どれも人の身体を題材にしていたが、ただの美しい構図にとどまらない独特の魅力を持っていた。
一枚の写真が晴人の目に留まった。それは、女性が背中を見せて立っている写真だった。光と影のコントラストが強調され、背中の曲線が静かに語りかけてくるようだった。そこには、言葉では表現できないような深い感情が込められているように感じられた。
「どう?」
振り返ると、エミリが微笑んで立っていた。
「この写真……すごいです。背中から何かが伝わってくるような感じがします。」
「ありがとう。この女性の背中にはね、彼女が生きてきた人生の傷や喜びが全部詰まっているのよ。それを写真で残したかった。」
エミリの言葉を聞きながら、晴人はハッとした。絵を描くことも同じなのではないか。ただ形を写し取るのではなく、そこに込められた感情や背景を描き出すこと。それこそが、描くことの本質なのではないか。
その夜、晴人はスケッチブックを開いた。描きかけのヌードデッサンを見つめながら、もう一度鉛筆を手に取る。
これまでの自分は、線の美しさやバランスにばかり気を取られていた。けれど、今は違う。自分が見たもの、感じたものをすべて線に込めたいという気持ちが湧き上がってきた。
晴人は集中し、モデルの顔や体だけでなく、その表情や佇まいに宿る感情を描き出そうと試みた。頭の中にはエミリの言葉が浮かんでいる。
「その人自身の物語を描くんだ。」
朝方、窓の外が明るくなり始めたころ、晴人はスケッチブックを閉じた。完成したデッサンを見つめながら、胸に小さな達成感が芽生えるのを感じた。
「これが、俺の描きたかったものなんだ……。」
彼の絵には、以前にはなかった温かさと深みが宿っていた。そこには、モデルの体だけでなく、晴人自身の思いも重ねられていた。
描くこと。それは自分と向き合い、誰かの物語を感じ取る行為だった。そして晴人はその意味を少しずつ理解し始めていた。
夜が明け、新しい日が始まる。晴人の中には、描き続けたいという強い気持ちと、さらに多くの物語を見つけたいという願いが生まれていた。彼の旅は、まだ始まったばかりだった。
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