第5話 初めての挑戦

晴人がアトリエ「空」に通い始めてから、少しずつ日常が変わり始めていた。毎日スケッチブックを持って出かけ、街を歩きながら気になったものを描く。それは以前の閉ざされた生活では考えられない行動だった。


そんなある日、アトリエの主・遠藤から声をかけられた。

「晴人くん、次のセッションに参加してみないかい?モデルを呼んで、ヌードデッサンをやる予定なんだ。」


その言葉に、晴人の心臓が跳ね上がった。ヌードデッサン。それは彼がずっと描きたいと思っていたものだった。しかし、同時に不安も押し寄せる。自分の腕で果たして描けるのか?他の参加者と一緒に描くことに耐えられるのか?


「……やります。」

少しの間を置いてから、晴人は絞り出すように答えた。その言葉には、彼の中の勇気が詰まっていた。


セッション当日、アトリエは少しざわついていた。参加者は10人ほど。みんなそれぞれの道具を持ち込み、モデルが座る椅子の周りに配置されている。晴人は隅の席を選び、緊張した面持ちでスケッチブックを広げた。


「よろしくお願いします。」

モデルが入ってきて、部屋の空気が少し変わった。若い女性で、堂々とした佇まいが印象的だった。彼女は笑顔で軽く頭を下げると、ポーズをとるための椅子に座った。


晴人は鉛筆を握りしめた。モデルの体が目の前にあり、その線や陰影が目に飛び込んでくる。何から描けばいいのか、頭の中が真っ白になる。


「大丈夫だよ、焦らずにね。」

遠藤の柔らかな声が、少しだけ彼を落ち着かせた。


晴人は深呼吸をし、目の前のモデルに集中することにした。彼女の肩の曲線、腰のライン、そして光が生む陰影。それらをひとつひとつ観察しながら、鉛筆を動かし始めた。


時間が経つにつれて、晴人は周囲の視線を忘れ、紙とモデルだけに集中していた。鉛筆が走る音と、自分の呼吸だけが聞こえる。彼は無心で描き続けた。


「休憩しましょう。」

遠藤の声で、セッションが中断された。晴人は鉛筆を置き、自分の描いたスケッチを見つめた。まだ未熟な部分が多い。しかし、彼の目には自分なりの「何か」が見えていた。


「これ、君が描いたのかい?」

隣の席に座っていた男性が、晴人のスケッチを覗き込んだ。


「えっと……はい。」

「いい線を描いているね。迷いがない。それが一番大事なんだ。」


その言葉に、晴人の胸が少しだけ温かくなった。自分の描いたものが誰かに認められる感覚。それはこれまで味わったことのない喜びだった。


セッションが終わり、晴人は完成したスケッチを持ち帰った。アトリエを出ると、夕日が街をオレンジ色に染めている。スケッチブックを抱えながら、彼は少しだけ笑った。


「もっと描きたいな。」


その言葉は、自分自身に向けた小さな約束だった。彼はこの街で、自分の「描きたい」を信じていいのだと、少しだけ思えるようになっていた。


街の風が優しく頬を撫でる中、晴人は次の挑戦を心に描きながら歩き出した。

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