第3話 アトリエとの出会い

翌日、晴人は昨日のギャラリーで感じた興奮を胸に、街を歩き回っていた。まだ見知らぬこの街の路地裏や小道を抜けながら、自分がどこへ向かっているのかもよくわからなかった。ただ、描きたいという気持ちが足を前に進めていた。


「ここ……何だろう。」


ふと目に留まったのは、小さな看板だった。手書きの文字で「アトリエ空」とだけ書かれている。その看板は、古びた木製の扉に掛かっていた。控えめな佇まいに惹かれるものを感じ、晴人は思い切って扉を押した。


「こんにちは……。」

中に入ると、広がっていたのは小さなアトリエだった。壁には完成した絵がいくつも飾られ、中央の机にはスケッチブックや筆、絵の具が散らばっている。その中に立っていたのは、白いシャツにベレー帽をかぶった中年の男性だった。


「おや、新しい顔だね。」

男性は穏やかな笑みを浮かべ、晴人に目を向けた。


「あ、あの……すみません。勝手に入ってしまって。」

「構わないさ。ここは誰にでも開かれた場所だからね。」

男性は筆を置き、晴人の方へ歩み寄った。「僕はこのアトリエを運営している遠藤だよ。君は?」


「晴人といいます……えっと、絵が好きで……。」

言葉に詰まりながらも、自分の名前と好きなことだけは伝えた。遠藤は優しい目でうなずきながら、晴人を手招きした。


「良かったら、少し座っていくといい。ここは好きなだけ描ける場所だよ。」

「え……本当ですか?」

「もちろんさ。この街にはね、絵を描くことに特別な意味を見出している人が多いんだ。君もそうなんじゃないかい?」


晴人は少し驚いた。自分の中にある描くことへの執着や願いを、こんなに自然に受け入れられることが新鮮だった。


「えっと……僕、ヌードデッサンが好きなんです。でも、それを言うと変だって思われることが多くて……。」

思い切って口に出したその言葉に、自分でも少し戸惑った。けれど、遠藤は何の驚きも見せずににっこり笑った。


「いいじゃないか。それは君が人の身体の美しさや感情に興味を持っている証拠だろう?ここでは誰も君を否定しないさ。」


その言葉に、晴人の胸が少しだけ軽くなった気がした。


「今描きたいものがあるなら、ここで描いてみるかい?」

遠藤が差し出したのは、大きなキャンバスと木炭だった。晴人は少し緊張しながらも、それを受け取った。


「じゃあ……描きます。」

晴人は静かに席に座り、目の前のキャンバスに向き合った。昨日見たギャラリーのヌードデッサンを思い出しながら、自分の心にあるイメージを描き始める。


最初は手が震えていた。しかし、線を引くごとに次第に集中し始め、周囲の音が消えていくようだった。頭の中には、ただその形と陰影だけが浮かんでいた。


「なかなかいい線を描くじゃないか。」

遠藤の声で、晴人は我に返った。気づけば1時間以上が経っていた。自分でも驚くほど、手がスムーズに動いていた。


「これ……どうでしょうか。」

キャンバスを遠藤に見せると、彼は目を細めてうなずいた。


「いいね。君の線には誠実さがある。それが何よりも大事だ。」

その一言が、晴人にとっては何よりも励みになった。


「もしまた描きたくなったら、いつでもおいで。この場所は君のための場所でもあるからね。」


晴人は深く頭を下げて、アトリエを後にした。心の中に、小さな灯がともったような気がした。この街で、自分は絵を描き続けてもいいのかもしれない。そんな思いが、彼の足を軽くしてくれた。


「俺、ここでやっていけるかもしれない……。」


晴人はスケッチブックを握りしめ、帰り道を歩き始めた。その表情には、少しだけ笑顔が浮かんでいた。

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