伊右エ門村の蟹岩

木園 碧雄

伊右エ門村の蟹岩

 月代さかやきに乗せた申し訳程度の貧相なもとどりを、相手に検分させるかのように深々と座礼する伊坂伊右エいさかいうえもんの言葉に、岡田雄之助数近おかだゆうのすけかずちかは、年相応に刻み込まれた顔の皺の数をさらに増やした。


肝煎きもいり?」


 すかさず背後に控えていた従者が膝を進め、彼に耳打ちする。


(庄屋のことにございます)


(ああ、片田舎では庄屋をそう呼ぶのか)


 腑に落ちた岡田は居ずまいを正し、咳払い一つしてから改めて宣言した。


「面を上げい」


 言われて上体を起こした伊右エ門の容貌から察する年齢は、自分とそう変わらないだろう。百姓どもを統制するのに、力ではなく弁と――己の経験から得た知恵を頼りにする性格の男だ、と岡田は判断した。


「岡田雄之助数近である。代官から話は聞いておるな?」


「はい。確かに承っております。まあ、何はともあれ、まずは」


 答えてから上体を起こした伊右エ門が両手を二回叩くと、その意味を悟った岡田は左手で「待った」を掛けた。


「あ、いや、歓待は有難いのだが、気持ちだけ受け取っておこう。こちらにも事情と立場があるのでな」


「しかし」


「立場ある者が他家の人間の歓待を受けては、後々の災禍の種になりかねんのだ」


「左様でございますか」


 納得した伊右エ門は、膳と酒を運んできた下女らを下がらせた。


 岡田もまた、背後に控えていた従者を奥座敷から下がらせる。


「それで、だ」


 従者が襖を閉めるなり、岡田は膝を乗り出して話を切り出した。

 特に急いでいるわけではないのだが、こんな不便そうな片田舎に長々と滞在するつもりはないし、江戸が恋しいという思いもある。


伴吉ばんきちは覚えておるか?」


「はあ。名前までは流石に憶えてはおりませぬが、件の岩に執着していた修験者のことでしたら覚えております。江戸から使いの者が来るまで、決してあの岩を動かしたり壊したりしてはならぬ、と私どもに戒めておりましたが」


「あれは、わしの部下だ」


「ほう」


 声だけは驚いているものの、表情には驚愕も動揺も浮かび上がらない辺り、どうやら伊右エ門の方でも、あらかた察しはついていたらしい。


「儂は、さる藩の留守居役るすいやくとして仕えておる。留守居役というのは、主に他所の藩との交際や交渉を担当しておるのだが、今回は他領すなわち他の藩の領内のものを、認可を得て持ち出すということで、その監督と有事の際の交渉役として、この伊右エ門村に参じたわけだ」


 目の前にいる伊右エ門の父も、やはり伊坂伊右エ門と名乗ったという。

 代々「伊右エ門」が治めているから「伊右エ門村」なのだそうだ。


「ご足労様でございます」


 伊右エ門はもう一度、深々とお辞儀をした。悪気も悪意も無いのだろうし、所詮は事務的、儀礼的なものでしかないとわかってはいるのだが、その恭しさの中に、どこか自分たちを小馬鹿にするような白々しさが垣間見えるような気がするのは、自分の勘繰りに過ぎないのだろうか。


「さて。代官からの書状には、詳細まで書かれてはおらなかったであろうから、それを今から語るとしよう。我が藩は近々、江戸屋敷を改築する予定である。それに伴って屋敷の庭も一新する予定になっておるのだが、その新しい庭に合う庭石が必要になったので、昨年より全国に人を派遣し、庭石になりそうな石の候補を探し続けておったのだ」


「それでは、存外早くお見つけになられたことになりますな。修験者がこの村を訪れたのが、昨年の話になりますからな」


 いちいち人をからかっているように聞こえるのは、岡田の気のせいなのだろう。


「そしてこの村を訪れた伴吉が、あの岩を図に描いて報告書と共に儂に献上し、殿のお目に留まったというわけだが、ここに一つ問題がある。それというのも、この伊右エ門村は我が藩の領地に非ず、他家の領地である。いかに殿のお目に適い敵いし名石とはいえ、他家の者がその価値を見出せなければ、良くも悪くも只の岩。向こうの確たる認可を得さえすれば動かすのも持ち運ぶのも差しさわりは無いのだが、領内の人間を使うとなると、そうはいかない。他家の者に、自分たちの領内で領民を使役させるわけにはいかないのである」


 初めて、伊右エ門が蝋で固めたかのような笑い顔以外の表情――困り顔を見せた。


「お武家様は、色々と御難儀なことでございますなぁ。我々のように、村の人間同士なら、話し合いだけでいくらでも力を貸しあえるものなのですが」


 それは、ここが片田舎だからだ――と本音を漏らしたくなるところを、どうにか堪え、岡田は鷹揚に頷いた。


「それゆえ、我々は江戸を発つ際に国元の力自慢を二人と荷車、さらに道中で人足を八名ほど雇い入れた。さて本題に入るが、これらの者が寝泊まりできる場所を用意してもらいたい。なに、雨露をしのげる場所さえあればよいのだ。ついでに伝えておくが、飯の支度もいらぬ。米や味噌はこちらで事前に用意しておいたし、人足を雇ったのは煮炊きをさせるため、というのもある。野菜が欲しくなったら金子を出して買い求めるゆえ、井戸の場所だけ教えてくれればよい」


「しかし、お武家様にそこまでしていただけくわけには」


「伊右エ門とやら、儂の話を聞いておったのか。役柄を持った者が、おいそれと他家の領内で世話を受けるわけにはいかんのだ。それより宿泊先だ。こればかりは流石に、自前で持って来るというわけにはいかぬからな」


「岡田様。それでございましたら、ご心配には及びませぬ。代官から書状を受け取ってすぐ、こうなるだろうと思いまして村の若者を使い、村からそう離れていない平地に小屋を建てておきました。二十人は寝泊まりできますでしょうし、御用がお済みの後には焼き窯用の薪を納めて置く薪小屋にする予定になっておりますので、ご心配もお心遣いも無用にございます」


「そうか、それは有難い」


 予想外の手早さと周到さに、つい本音を晒して頭を下げかけた岡田は、慌てて上体を起こした。武士が百姓に頭を下げるのは、立場としておかしい。


「いかんせん、こちらには力自慢の元相撲取りが二人もおるのでな。寝泊まりする場所が広いに越したことはない」


「ほほう、相撲取りが二人も。それはさぞかし壮観でございましょうなあ」


「元だ、元。両名とも既に廃業しておるし、番付もたいしたことはなかった者どもだぞ」


 角力二人の名を喧伝するつもりは無かったが、碌に相撲取りも見たことが無いだろう片田舎の庄屋が細い眼を大きく見開いたところを見て、岡田はなんとなく嬉しくなり、また気も大きくなった。


「一人は白鰐しろわにという四股名しこなで、十両まで昇進したが、庶民との喧嘩を繰り返した挙句に土俵を追われたのだそうだ」


 実際には旗本を殴り倒して騒動になり、生地である当家の江戸屋敷に匿われていたのだが、と岡田は心の中で付け加えた。こんな事情までわざわざ説明する必要は無いだろう。 


「もう一人は、四股名を玄星くろぼしという」


「それはなんとも、縁起のよろしくない四股名でございますな」


「元は武家の末子でな、苗字に星の字があるのでそう名付けられたらしい。年の離れた長兄が子沢山で家督が回ってくることは無いと断念し、一念発起して土俵に立ってはみたものの、厳しい稽古に耐えきれず逃げ出して当家の厄介になっていた者だ。双方とも力だけはあるというので連れてきたに過ぎん」


「ははあ、それは残念」


 相撲を取らせるつもりはない、という岡田の意を察したのか、伊右エ門は残念そうな声を出した。


「もし滞在中に何事か起これば、難儀するのは某の方である。出来る限り速やかに事を済ませ、迷惑をかけないよう早々に退散したい。それ故、今すぐにでも案内を頼みたいのだが、出来るか?」


「その件について、申し上げたき旨がございます」


 それまで呑気そうに岡田の話を聞きながら、時折朗らかに笑ってさえいた伊右エ門が、何故か表情を強張らせて頭を振った。


「あの岩に近づくことすら、この村の者は嫌がるのでございます。それというのも、修験者の伴吉殿がこの村を去ってからというもの、あの岩には魑魅魍魎が憑りつくようになったのでございます」






(あの岩には魑魅魍魎が憑りつくようになったのでございます)


 そう語った伊坂伊右エ門の両眼からは、異様な輝きは見て取れなかった。


 そもそも岡田が伊右エ門の屋敷に到着してから、その岩の話が出るまでの間、伊右エ門の行動におかしなところは何ひとつ見出せなかったほどである。


 陽も傾いているということで案内された薪小屋は、土間に筵を敷いただけという武士の仮住まいにはそぐわない、みすぼらしいものではあったが、十人を超える大所帯でも狭苦しさを感じないだけの広さは確保されており、単に雑魚寝を決め込むだけの場所と割り切ってしまえば、それ以上の不快さは感じられないものだった。


 玄米と沢庵のみ、朝餉あさげと呼ぶにはあまりにもみすぼらしい、茶すらも出ない朝食を済ませてから、従者だけは留守番として小屋に残した岡田雄之助数近は、元相撲取りを含めた十一名と大八車を率いて、件の岩があるという広場へと向かった。


「それにしても」


 魑魅魍魎が憑りついているという岩の話を岡田から聞かされ半信半疑の人足たちに比べ、そんなものは追い払ってやると豪語する元相撲取りの白鰐は、村を出るなり話題を切り出してきた。四股名の通り、男にしては珍しいほどに白い肌をしている一方で、背は低くとも全身が引き締まった筋肉の塊という風体であり、旗本との諍いさえ起こさなければ、江戸中の女性に大人気の力士として評判になっていたかもしれない。


「伴吉って奴が報告書とやらに書くほど似ているのかね、その蟹岩ってやつは」


「行ってみればわかる」


 答えてはみたものの、岡田の胸中は複雑である。もし蟹岩が報告書に記されていた通りの形でなければ、持ち帰るに値しないものであり、早々に作業を切り上げて今日か明日にでも江戸へ舞い戻ることが可能になるだろう。


 しかしそれは、彼の部下である伴吉が功績欲しさに見当違いの報告書を書き上げた、ということにも捉えられかねず、事によっては彼のみならず自分にまでも害が及ぶ恐れがある。


 蟹に似てようと似ていまいと、岡田が得るのは苦労か気苦労のどちらかでしかない。


「蟹の化け物ならともかく、岩に憑りつく化け物の話なんて聞いたこともねぇや」


 玄星はまだ合点がいかないのか、歩きながらしきりに首を捻る。こちらは白鰐とは対照的な痩せ型で、背は一行の中で最も高いが手足は人並み程度に過ぎず、長く伸びた胴の周りには贅肉がとこびり付いている、という有り様である。

 伊右エ門の前では、元相撲取りだけに力はあると言ってみたものの、実際にそう言い張っているのは玄星だけであり、ひょっとすると本人ですら本当はそう思っていないのではないか、と思わせることすらある。


「蟹の化け物の話なら、俺も聞いたことがある。蟹坊主って名前なんだが、無人の寺に泊まった坊主の前に雲水うんすいが現れて、我は何者であるかという謎々を出すんだそうだ」


「なんですかい、そりゃ」


 大八車を取り囲むようにしながら歩いていた人足の一人が呆れたような声を出したが、白鰐は「待て待て」とそれを制してから話を続ける。


「誰だって、そんな質問にゃ答えられない。するってぇと、その雲水は答えられなかった奴を重い拳で殴り殺すんだそうだ。そんなこんなで悪い噂が広まり、元から無人だったその寺には、さらに人が寄りつかなくなった」


 謎々を出された相手は一人残らず殴り殺されているのだから、目撃者も全員死んでいるはずなのに、どうやって噂が広まったのだろうと岡田は一瞬だけ考えたが、敢えて口を挟まないことにした。


「そんなある日の晩、噂を聞いた旅の坊主が寺に泊まったら、やっぱり雲水が出てきた。ところがどこで答えを知ったのか、坊主はきっぱりと言ったのさ」


 汝は蟹である。


 そう答えてから雲水の胸めがけて突き出された独鈷どっこは、胸から背までを一撃で貫き通し、たまらず正体を現した巨大な化け物蟹が、甲羅を砕かれ仰向けに倒れたまま絶命した、という話である。


「なんですかい、そのドッコというのは?」


「真言宗や天台宗といった密教で使われる法具のことだな。両端が尖っているので、いざという時の護身具にもなる。その話では、まさにそういう使われ方をしたということだ」


 説明に困っている白鰐に代わって岡田が答えると、のっぽの玄星がすぐさまその尻馬に乗ってきた。


「俺が知っている話と、ちょっと違うな。俺が知っているのは、寺に泊まる坊主が殺されるというあたりまでは一緒なんだが、殴り殺されるんじゃなくて首を斬り落とされるんだ。それで噂を聞いた槍の達人が同じように寝泊まりしていたら蟹の化け物が現れたんで、八尺の大身槍でその甲羅を突き破って殺したって筋書きだったぞ」


 法具ではなく槍で仕留めるというあたりが、いかにも武家の間で語り継がれていそうな武勇伝ではあるが、残念ながら岡田はその話を聞いたことが無かった。


「蟹の串刺しか、それも悪くないな。本当に蟹岩に化け物が憑りついているってんなら、蟹坊主みたいに串刺しにして焼いちまおうか」


 白鰐が豪快に呵々大笑かかたいしょうしたところで、急に一行の視界が開けた。


 蟹岩のある広場まで案内したがる者がおらず、自分もまた多忙なので案内できず、その代わりにと伊右エ門が用意したのは、伊右エ門村から広場までの道程が記された巻物だった。

 これもまた薪小屋と同様に、こうなるのではないかと予想した伊右エ門が、予め書き認めておいたものであるらしい。


 その地図に記された道を延々と歩き続け、どうにか辿り着いた広場――単に開けた土地で灌木も少ないことからこう呼ばれているだけらしい――の中心に、「それ」はごろりと横たわっていた。


 縦幅一間、横幅は二間から二間半、高さは三尺から四尺程度。


 その姿は、まさに二本の巨大な鋏と、縮こまった四対八本の足を持つ蟹を模ったものにしか見えない。


「こりゃ驚いたぜ」


「伴吉の報告に嘘は無かったな。しかし、ここまで本物そっくりとは思わなんだ」


 驚嘆しながら蟹石に近づいてみると、その造形の深さに岡田は目を見張った。


 誰の手によるものでもない自然と偶然の産物だというのに――誰の手であろうと、ここまで精巧に粋を凝らし、本物と見間違えるほど徹底して岩を彫り削るのは不可能だろう。


「岡田様」


 人足の一人が、動揺を面に出しながら蟹岩を指さした。


「あれを持ち上げで運ぶんで?」


「そうだ。その為に、こんな片田舎まで足を運んだのだからな。魑魅魍魎が怖いのか?」


「そうじゃねぇです。岩の縁をご覧くだせぇ」


 目を凝らしてみると、蟹岩の眼の辺りから鋏の付け根に至るまで、鋭く尖った棘のような石片がびっしりと並んでいた。こんなところまで本物そっくりとは、つくづく驚嘆せざるを得ない。


「ふむ」


 岡田は蟹岩に近づき、緑黒色のすべすべした甲羅を何度も手のひらで叩いてから、広場の先で鬱蒼と生い茂る森を指さした。


「大八車に、買い置きの縄が入っていただろう。まずはあちらの森で太い枝を調達し、それをこの甲羅の辺りに乗せてから縄で縛って持ち上げるというのは――」


 突如、白鰐が眼前に迫ってきたと思った時には岡田の身体は宙を舞い、次の瞬間には地面に転がっていた。


「何をする!」


「うわっ!」


 上体を起こした岡田の叱責と、人足どもの中から声が上がったのは、ほぼ同時であった。


 投げ飛ばされる直前まで岡田が立っていた辺りの地面には、赤々と燃え盛る炎に包まれた棒が突き刺さっている。


「火矢だ!」


「逃げろ!」


 叫ぶが早いか、蜘蛛の子を散らすように一斉にその場から逃げ出す玄星と人足たち。慌てて起き上がった岡田も後を追うように駆け出すと、火矢は蟹岩の周辺に降り注ぎ、次々と突き刺さっては地面を舐め尽くすかのように燃え続ける。


「岡田様」


 広場から遠く離れた場所でその様子を伺っていた岡田は、背後から声を掛けられた。


 振り向くとそこには、大八車を抱え上げた白鰐が立っていた。


「さっきはすいません。咄嗟のことだったので、つい手が出てしまったもんで」


「いいや、お陰で助かった。礼を言うぞ。しかし、あの火の雨はなんなのだ」


「あれが、蟹岩に憑りついた化け物の正体なんですかね」


「一本だけならともかく、あれだけの本数の火矢となると……おや?」


 それまで驟雨しゅううの如く降り注いでいた火矢は、さながら通り雨が過ぎたかのようにピタリと止み、地面で燃え盛っていた炎も灯心である矢が燃え尽きたせいで次第に小さくなり、次々と消滅する。


「終わったのか?」


 何がどう終わったのか、自分でも上手く表現できないまま呟いた岡田の隣で、いつの間にか近づいていた玄星が己の腿をぴしゃりと叩いた。


「もう一度、蟹岩に近づいてみりゃわかるでしょ。ここは俺に任せておくんなせぇ」


「無茶するなよ」


「なあに、逃げ足には自信がありまさぁ」


 かなり情けないことを自慢してから玄星は駆け出し、蟹岩に近づいてからそのすべすべした甲羅に手を乗せた。


「何も起こらないみてぇだな。これなら」


「上っ!」


 白鰐の声に反応し、上空を見上げもせずに駆け戻る玄星。


 半拍遅れ、彼が立っていた場所を含めた広場の地面に、またしても炎の雨が降り注ぐ。


「おのれ、一度ならず二度までも、か」


「岡田様。今日のところは一旦引き下がりましょう」


「何を言うか。このままおめおめと逃げ帰ったのでは、村の連中の物笑いの種にされるだけだぞ。しっかりせい」


「白鰐の兄貴の言う通りですよ、岡田様。それに俺たち三人だけであの蟹岩を運ぶというのは、流石に無理ってもんです」


「三人? 人足連中はどうした?」


「全員逃げました」






 手ぶらで伊坂村に戻ってきた岡田雄之助数近を、伊坂伊右エ門は驚きも怪しみもせず出迎えてくれた。どうやら先に逃げ帰ってきた人足たちから、事情を聞き出していたらしい。


 同じく火の雨から逃げ帰ってきた身としては五十歩百歩を叱りつけるわけにもいかず、また怪異に面食らったままでは怒る気力も沸かず、心身ともに疲弊していた岡田は人足たちと雑魚寝を決め込んだが、事件は翌朝に起こった。


「足りぬ?」


 従者からの報告を受けた岡田は困惑した。昨夜までは確かに十人揃っていたはずの人足が、朝には八人に減っていたというのだ。


「逃げた?」


「恐らく、今日は蟹岩に降る火の雨の中を進めと命じられる……とでも思い込んだのでは」


「馬鹿な」


 吐き捨ててから、やらせるなら昨日のうちにやらせていた――と付け加えようとして、止めた。

 残っている人足連中をわざわざ脅すようなことを言ったところで逆効果である。

 むしろ彼らが逃げ出さないような発言をしなければならない。


「岡田様、もし逃げ出した奴をどこかで見かけたら、いかがいたしましょう?」


「殴ってでも連れ戻せ。儂が見つけて抵抗した場合は斬るつもりだ。雇われてから昨夜まで飯を喰らっておきながら、働かねばならぬという時において怖くなったから逃げ出すなど、言語道断である」


 昨日と同様に質素な朝餉を済ませてから、残った人足八人と元相撲取りの二人を連れ、大八車を牽かせながら、再び蟹岩のある広場へと向かう。


「岡田様。白鰐の兄貴が担いでいるの中身はなんですか?」


 道中、やや歩を速めて先頭の岡田に追いついた玄星が、歩きながら背後の白鰐が担いだ唐櫃からひつを指さした。昨日までは、留守番の従者に預けたまま、薪小屋に置いてきた代物である。


「いくら聞いても兄貴は教えてくれないし、開けるどころか触らせてもくれやしねぇ。あの中には、一体何が入っているんです?」


「必要があれば使うものだ。その時が来たら教えてやるし、来なければ江戸に戻ってから教えてやる」


 それから広場に辿り着くまでの間にもしつこく聞かれたが、時には言葉ではぐらかし、時には沈黙を持って語らず、また時には白鰐が背後から玄星を蹴り飛ばすことすらあった。








 広場の蟹岩は、昨日の二度に渡る火の雨にも我関せずという風体で、さながら神社の狛犬の如く居座り続けていた。


「それで、これからどうなさるおつもりで……どうかなさいましたか?」


 到着するなり屈んで自らの草履を弄り始めた岡田を見て、背後に控える人足たちにも屈むように指示した白鰐が、怪訝そうな顔をする。


「なに、褒美をな……よし、出てきた。誰か、あの蟹岩に近づいて昨日のような火の雨を降らせて来い」


「誰が行くもんかい!」


 屈んだままの人足たちの中から飛んだ罵声に応えるように、屈んだままの岡田は草履から取り出したを頭上高く掲げた。


「戻ってきた者には、これをやろう。一枚きりの早い者勝ちだぞ」


 本物の慶長小判である。


 次々と立ち上がった人足たちより先に、玄星が駆け出していた。一気に蟹岩に辿り着いてからその場で二、三度飛び跳ねてから駆け戻って来ると、すぐにその周辺に昨日と同じような火の雨が降り注ぐ。


「見よ」


 こういう時だけ恭しく両手を差し出した玄星に慶長小判を与えながら、岡田は上空を指さした。


「この火矢は、本当に天から降っているわけではない。何者かの集団が森の中から一度に上空に放って、それがここに降り注いでおるに過ぎんのだ。したがって、あの発射元を押さえれば、化け物の正体もわかるだろうし対峙も出来るというわけだ」


「ですが岡田様。何かがいるのはわかりましたが、一体何がいるのでございましょうか?」


「直接見て確かめるしかあるまい。出どころを押さえぬ限り、蟹岩を持ち出すのは不可能であろうからな」


「山賊か野盗の類だったら、いかがいたします?」


「何故あの蟹岩に執着するのか、それを問い質したい。近づいただけで何十本もの火矢を放つのは並大抵の労力ではない。きっと何か謂れか理由があるはずだからな」


「しかし、相手は少なくとも弓矢を持った奴が数人ですぜ。襲われでもしたら勝ち目は無ぇ」


「白鰐、唐櫃を下ろせ」


 命じられた通り白鰐が降ろした唐櫃に近づいた岡田がその蓋を開けると、中を見た玄星と八人の人足はあっと声を上げた。


 一尺八寸の長脇差が五振り。


「有事に備え、従者の松吉に用意させておいたものである。非常時故、今回に限り、五名にこれを貸し与える。我々はこれから火矢が放たれていると思しき場所まで調査に向かうが、同行を拒否する者はここに留まることを止めはせぬ。ただし脇差を貸し与えるのは、同行する者に限られる。見ての通り数に限りがあるので、早い者勝ちである。さて、我々に同行する者はおるか?」





 伊坂伊右エ門の気遣いが、意外なところで役に立った。


 巻物の地図には、広場をぐるりと取り囲む森の獣道や抜け道までもが詳細に記されており、道案内もいないというのに初めて森に入るという無謀をやらかした岡田ら一行ですら、迷うことなく目的地まで辿り着くことが出来た。


 目的地までの導き手は、伊右エ門の地図だけに限らなかった。


 森の中でさえずる鳥の声に混じり、猿や狼、熊のものとは明らかに異なる、鳴き声とさえ判別しかねる音が時折聞こえており、それが魑魅魍魎ちみもうりょうの起こした怪現象と相まって一行を惹き寄せているのだ。


「あれはなんだ?」


 だんびらを手にした五人どころか素手の人足三人全員までもがついてきた一行の、先頭を歩いていた白鰐は、足を止め後続の岡田たちに屈むよう指示してから、前方を指さした。


 生い茂った木々の間を縫うように立ち並ぶ七つの人影と、その影たちに囲まれている四足の獣。


 人影の一つに陽光が差し、その顔を照らし出した時、岡田は我が目を疑った。


 猿だ。


 人間よりも小柄で、樹上に生活しているはずの猿が、何故か人間と大差ない体格の修験者の姿で直立しているのだ。篠懸すずかけ引敷ひっしき結袈裟ゆいげさ梵天ぼんてんまであるその出で立ちは、顔と全身を覆う黄褐色の獣毛を除けば、まさに人間そのものである。


(噂に聞いた、天狗ですかね)


(馬鹿を申すな。鞍馬山の烏天狗ならいざ知らず、猿天狗の話など聞いたこともないわい)


 そういう問題ではないとわかっていながらも言い返した岡田の視線は、天狗たちの作る円陣の中心に吸い寄せられる。


 四足の獣の体躯は熊ほどもあり、その頭部は猿よりも人に似ていた。濃い獣毛が覆っているのは頭部のみで、その頭部よりも目立っているのが、蜘蛛の足のように硬くごつごつと節くれ立った尻尾であり、その先端もまた蜘蛛の足の如く鋭く尖っていた。


 猿天狗たちがこの妖獣に背を向けたまま取り囲んでいるということは、恐らく対峙ではなく守護しているのだろう。その証拠に、妖獣は四肢を折り曲げ、警戒の構えも見せずに蹲ったままである。


(あれは、なんだ)


 問うてから岡田は一行を顧みたが、答えられるものはいなかった。


(岡田様、あれが魑魅魍魎の正体なんですかね?)


(わからぬ。しかし少なくとも無関係ではあるまい)


(どうします? 不意を突いて一気にやっちまいますか?)


(それは)


 

「やろう」とも「やめよう」とも言えなかった。


 武器を持っているのは、自分を含めて六人。玄星はともかく、白鰐は素手でも戦力になるだろう。

 数だけなら互角だろうが、敵は得体のしれない化け物であり、こちらは武器を持っているとはいえ、ほぼ全員が素人である。

 唯一武芸を嗜んでいる岡田ですら、齢と日々の仕事に追われてここ数年はまともに剣を振る機会さえ無かったという有り様なのだから、戦力としては白鰐一人にすら劣るかもしれない。


 戻って作戦を立てよう。


 そう宣言するのが、僅かに遅かった。


 甲高い猿の咆哮が森中に響き渡る。


「気づかれたか!」


 反射的に立ち上がった岡田は左肩を強く押され、その勢いに負けた身体が、後方に控えていた人足たちに向かって跳び込むかのように大きく跳ねた。


「岡田様!」


「肩だ、肩に何か刺さっているぞ!」


 途端に、左肩を名状しがたい激痛が襲う。


「撤退、撤退だ!」


「早く岡田様を村まで運べ、早く!」


 かくして――


 その正体も判別できないまま――岡田雄之助数近一行は、片田舎と馬鹿にしていた伊坂村の蟹岩に憑りついたと言われる魑魅魍魎の前に、屈辱の二連敗を喫する羽目になった。






 翌日は、朝から雨がざあざあと降り続いた。


「お体の具合は如何ですかな?」


「まあ、悪くはない」


 もちろん痛みが抜けたわけではないし、負傷した左肩も気軽に振り回せるような状態ではないのだが、それでも伊右エ門邸に担ぎ込まれた時に比べれば雲泥の差である。


 岡田を撃ち飛ばした武器の正体は、子供の握り拳ほどもある丸い石だった。幸いにも急所を外れ骨も砕けることは無かったが、これが頭部や顔面に命中していたらと思うと、流石に背筋に冷たいものが走る。


 医者などという洒落た者などいるはずもない伊坂村ではあるが、伊右エ門の手配により用意された薬草を塗りたくった湿布は、傷の痛みに悶絶する岡田を熟睡へといざなうほどの効果を見せた。


「ところで、今日は如何さなれますか? やはり蟹岩へ?」


「いや、今日はやめにする」


 答えてから岡田は粗末な布団から上体を起こし、痛みの残る左肩に手を当てながら苦笑する。


「いざそうなってからわかったのだが、迂闊にも人数分の雨具を用意しておらなんだ」


「左様ですか。しかし雨具をお持ちであったとしても、この天気ではお止めになさった方が宜しゅうございます。雨天の森はとても見通しが悪く、また足元もぬかるんで滑りやすいので、村の者もおいそれと外出いたしませぬ。それに傷の御養生もございますでしょうし」


「これしきの傷で音を上げる岡田雄之助数近ではない。雨が上がり次第、今日にでも」


 臥せながらも恨めし気に黒雲を仰いでいた岡田の視線が、ふと軒先に移った。


 横切ったのは、若い女だ。


「今の女は?」


「一人娘のすみでございます。当家では、雨が降りますと色々となさねばならぬ用事や用心が増えまして、人手不足の折には、こうして手伝わせているのでございます」


 僅かに横顔を見かけただけであったが、幼さの残る容貌に白百合の如き可憐さと美しさとを兼ね備えた美少女である。


「美人であるな」


 共通の話題が欲しかったこともあり、岡田としては他意無く本心から娘を褒めただけなのだが、途端に主人は血相を変えてひれ伏した。


「恐れながら、あれは女房に先立たれた当家としてましては、唯一の一粒種にございます。あれに合う婿を村の中から探し出して跡を継がせねば、伊坂村は潰れてしまいます」


「左様か。村の為にも良い婿を選べよ」


「有難うございます」


 岡田は複雑な気分になった。自身も、他家に嫁いだ娘を持つ身である。


 こちらとしては他意無く褒めただけのつもりだったのだが、どうやら伊右エ門は額面通りには受け取らなかったらしい。暗に自分か、自分の主への輿入こしいれを示唆された――と勘違いしたのだろう。


 伊右エ門を責めるつもりは微塵もないが、さりとて自分の飾りない本音すら曲解されてしまったのでは、どうにもやるせない。


 やはり、侍と農民の間には身分という巨大な壁が立ちはだかっているのだろうか。


「猿」


「は」


 重苦しい空気を破った岡田の呟きが、耳に入ったらしい。


 顔を上げた伊右エ門の表情は、怪訝なものに変わっていた。


「猿の天狗だった。いや、猿顔の天狗だった。それらが奇妙な化け物を取り囲んでおった。恐らく、蟹岩に降り注ぐ火矢の雨は、あやつらが射たものであろう。この村には何か、猿や天狗に関わる謂れなどは無いのかな?」


「猿……はて」


 伊右エ門はしばらく銀杏髷を揺らしながら考え込んでいたが、やがてすまなそうにまた頭を下げた。


「あいにくと、私どもと猿との間に、これといった因縁は思い浮かびませぬ。件の蟹岩で火矢を受けた者はあれど、それが天狗の仕業であると聞かされたのでさえ、今日が初めてのことでございますゆえ」


「左様か」 


 火矢を見て逃げ出す者はいても、それが付近の森から放たれたものだと見破った者は、今まで皆無だったということか。


 岡田は、手当てを受け包帯が巻かれた左肩に右手を当てた。


 聞こえてくるのは雨音ばかりである。


「それだけに、村では決して蟹岩には近づかぬようにと触れ回っておるのでございます。こちらが何もしなければ火の雨も降り注がない。まさに触らぬ神に祟りなし、という言葉通りにございますからな」


「そうだな。この村の人間としては、そうすべきであろう。しかし我々は、そういうわけにはいかぬのだ。武士が怪異に出会い、命惜しさに逃げ帰ったとあっては、江戸中の物笑いの種になる。このような村で例えるならば、毎朝水を汲みに井戸へ向かうだけで後ろ指をさされた挙句、お主のような立場のものから、貴様のような腰抜けに村の井戸は使わせられぬと言われる時が来るかもしれぬのだぞ? それでどうやって生きていける?」


「はあ、心中お察しいたします」


「しておらぬ!」


 激昂した岡田を制したのは伊右エ門ではなく、肩口の傷の痛みだった。


 それを治療したのが誰の手によるものであるのかを思い出し、岡田の胸中で燻っていた苛立ちの炎も、さながら外の雨に打たれたかの如く速やかに鎮火した。


「すまぬ、言い過ぎた。しかし、どうあってもあの蟹岩を持ち帰りたいことに変わりはない。いや、絶対に持ち帰らねばならぬ」


 さらなる自制のために深呼吸してから、岡田は言葉を続けた。


「儂が江戸で留守居役として仕えておることは前にも言ったが、恥ずかしながら当家は他の諸大名に比べて力を持つ勢力ではないのだ。しかし我が殿には肩身の狭い思いなどさせたくはないし、だからこそ此度こたびのように、せめて庭石などという物で見栄を張りたがるというお気持ちも、痛いほど理解しているつもりであるし、出来ることならば叶えて差し上げたいと願っておるのだ」


「臣下としての、なんと申せばよろしいのでございましょう?」


「忠節かな……いや、矜持であろうな。しかし、それだけが理由ではない。儂の立場もあるのだ。蟹岩を引き取る話にしてもそうだが、留守居役が他家の同役と交渉を行う際には、遊興の場を用意するのが暗黙のしきたりになっておる。向こうの機嫌を取らねばどうにもならぬこととはいえ、今までそれ相応に高い金を湯水の如く使い続け、肝心の蟹岩を持ち帰れなかったとあっては、当家の江戸屋敷に儂と伴吉の居場所が無くなってしまう」


 だからといって、これ以上村に留まるのは伊右エ門らに迷惑が掛かるとも思っているのだが、それを口にするのは流石におもねっていると思われそうなので自粛した。それでなくとも結局は伊右エ門に対して「どうにかならぬのか」と問題の解決を押し付けているだけにしか過ぎないことは、岡田も不承不承ながら自覚している。


「そう申されましても、あの岩には誰も近づかないようにするというのが、この村に住む者の置目おきめでございまして――あ、いや」


 何を思い出したのか、伊右エ門は月代に手を当てて唸った。


「お役に立ちますかどうか、その辺りは保証しかねますが、一人だけ敢えて蟹岩に近づこうとする者がおりましてな。ただ、どこまで本気で言っておるのか、村の者でも弁別を付けられぬ変わり者でございます」


「ほう」


「修験者がこの村を立ち去ってから興味本位で蟹岩に近づき、火矢を受けてからというもの、どうにかしてあの怪異の正体を見極めてやろうと広言しておるのですが、その癖やっていることはあばら屋に引き籠って読書三昧という有り様。元々、この村のしきたりは古い、これからは時代に合わせて変わらなければならぬと吹聴しては煙たがられていた男でして、近頃では村の者からも傍観どころか相手にされておりませぬ」


「それでも何かの役には立つかもしれない、ということか」


 少なくとも地元の人間として、自分たちよりは何か詳しいものを掴んでいるのかもしれない。話が合えば協力してくれるだろう


「会ってみよう。呼んで、いや案内、いや居場所だけ教えてくれ」







「ほほお、あの蟹岩をねぇ。へぇえ、それはまた奇特な」


 他家の領内でなければ、手討ちにされても文句は言えない態度である。


 伊坂伊右エ門から紹介された男――平戸典也ひらどてんやは、伊右エ門村の菩提寺の裏にある、あばら屋に居を構えていた。

 あばら屋とはいえ、粗雑なのは見すぼらしい外観だけで、雨漏りも無い屋内は奇麗に整頓されており、棲んでいる者の几帳面さが窺い知れる。

 ただし農具の類は、岡田がざっと見ただけでも伊右エ門の屋敷に比べて極端に少なく、また意外なことに、床板張りの部屋の片隅には、漆塗りの文箱が置かれていた。


 あばら屋の主である平戸典也は、これもまた家屋の外観とは釣り合わないほど小ざっぱりとした、とても片田舎の百姓とは思えない垢抜けた若者である。


 ただ、彼の態度と言葉遣いが、いちいち岡田の癇に障った。


「如何であろう。そこもとなら我々に手を貸してくれるであろうという、伊右エ門殿の推奨なのだ。ここはお互い協力して、あの怪異の大元を断ち切ろうではないか」


「得するのはあんたらだけって気もしますがねぇ」


 こちらを値踏みするような物言いに、岡田はこれまで何度も胸の内で「なんて奴だ」と腹を立てていた。そもそも百姓の住まいに侍が訪れたというのに、客を下座に座らせたまま自分は上座に居座り、正座こそしているものの脇息きょうそくに片肘をついて、話を聞いているのである。


「俺の場合は、あれに憑りついているという魑魅魍魎とやらに対する仕返しというか意趣返しのつもりなんだが、それであんたらが碌な苦労も無く蟹岩を持ち帰って褒められる、という筋書きが気に食わないですな。大体、他所から珍しい石を運び込むような金があるなら、自分の見栄や体面なんかより、領地や領民の為に使った方が、いくらかましだろうに。そういう殿様こそ名君と呼ばれ、後世に残すべき良き見本として末代まで語り継がれるものなんじゃないですかね?」


「それは違うぞ、平戸殿」


 雨天にもかかわらず、座しながら反論に転じようとする岡田の全身から噴き出る大量の汗。

 その原因が決して疼き続ける左肩の傷によるものだけではない――ということは、岡田なりに自覚している。


まつりごとと殿の個人的な趣向とは、全くの別ものである。政は国元に仕えておる老中家老らによって滞ることなく行われ、それによって得た財の殆どは、常に領民を慰撫することに費やされておるのだ。かかる件には無関係である。費用とて政に支障をきたすような額ではなく、あくまでも殿がお住まいになる江戸屋敷に掛かる改築費用の一部に過ぎぬ」


「それだけの手間と金を掛けるぐらいなら、いっそ殿様ご自身でここまで来ればよかったでしょうに。ご本人が国元に居なくても政は滞りなく行われて、江戸でも特にすること無いのでしょう?」


「たわけっ! 人足の握り飯に沢庵のみ、などという朝餉を殿にお出しするつもりか!」


 こんな男が役に立つものか。


 半ば捨て鉢になった岡田の自虐的な叱責に、何を面食らったのか、平戸は急に寄りかかっていた脇息から離れて背筋を伸ばした。


「いやあ、こんな村に、そんなみすぼらしい食生活を続けてまで来るとは思っていませんでしたので、その……はあ、苦労なさっているんですねぇ」


「同情せんでもよい、かえって惨めになる。それに、今の殿は江戸におらねばならぬ御身体。たとえ当主であろうと、みだりに江戸から出るわけにはいかんのだ。もし勝手な行動を取ろうものなら、忽ち将軍家より厳しい御咎めを受けるであろう。まして他国の領地に足を運ぼうなどと知られては」


「何か企みがあるのではと勘繰られて窮地に陥る、と。侍の世界はおっかないですなぁ、刀を抜かずとも殺し合いが出来るのですから」


 そこまで顛末が分かっているのに当て擦りを続けるあたり、言い換えれば頭の切れと性格の悪さが釣り合わないあたりが、変わり者と呼ばれ遠ざけられている所以なのだろう。


「それで、どうじゃ。蟹岩の魑魅魍魎について、何か知っておらぬか」


「答える前に、一つだけ確かめておくべき旨がございます」


 平戸典也は顔中の筋肉を引き締めるなり、身を乗り出して質問してきた。その両眼に鎮座する瞳は、さながら偏屈さの中に埋もれていた知性の珠が輝き始めたようにも見える。


「半年前にの地を訪れた伴吉なる偽修験者、今は江戸に居るというのは絶対の事実でございましょうな?」


「それは絶対である。江戸にて我らを見送っていた伴吉が、我らより先に伊右エ門村に到着するなどということは、韋駄天の如き健脚を持ってしても不可能であろうし、また伴吉がそのような脚を持っていないことは確実である」


「ならば、村の誰かが天狗の真似事をしているだけでございましょう」


「平戸殿は、あれが魑魅魍魎の仕業ではなく、人間の仕業だと仰るおつもりか?」


「左様。それも精々、一人か二人によるものだと見ております」


「待て、それは流石に納得できん。一人や二人で、あの雨の如き火矢を降らせることが出来ようか。あれは大勢の弓手が一斉に放ったものとしか思えぬし、そうでなければとても説明がつかぬ」


「それが可能なのですよ。この島国には無いものを使えば」


 意味ありげに語ってから、やおら立ち上がった平戸典也は部屋の片隅に置かれた文箱を持ってきて、漆塗りの蓋を開けた。中には胡蝶装や綴葉装の冊子が幾つも重ねられていたが、平戸はそのうちの一冊を文箱から取り出し蓋をすると、手にした冊子をめくって岡田の眼前に突き出した。


「これをご覧ください」


 覗き込んだ冊子には、外国のものらしき紋様が描かれた八角柱が二本、縦に並んでいた。右側の柱の先端は、蓮の実のように穴だらけになっており、どうやら左側の柱はその内部を書き記しているものらしい。


「これは、何か」


「我が神州の隣にある、清という国が別の名前だった頃に存在していた兵器だそうです。その兵器を知っていた毛唐が長崎を訪れた折に話を聞いた物好き――この村の人間が書き残したもので、まあ他にも色々と書かれてはいるのですが、これによると名を四十九矢飛廉箭しじゅうきゅうしひれんせんといい、弓の弦ではなく火薬の力で、一度に四十九本もの矢を飛ばすのだそうです。それも飛距離は三町から五町と、相当なものだとか」


「そんなものが、この世に存在するのか?」


 問い質しながら、岡田は己の全身から血の気が引くのを感じた。


 もしこれが江戸屋敷や国元の城相手に使われようものなら、屋敷や城はたちまち焼け落ちてしまうのは明白である。


「存在しなければ、中身の構造に至るまで詳細に語れるものではございますまい。もっとも数と飛距離があっても威力は劣るので、鏃に毒を塗ったりなどしたそうですが。兵器に限らず、外国では常にこのような新しいものが考えられ創られているというのに、この国はそれを脅威とも感じず取り入れようともしない。だから俺は、今のやり方では古いと唱え続けておるのです」


「まあ、その話はよい。それより平戸殿は、あの天狗どもの正体は人であり、この兵器を使って火矢の雨を降らせている、と仰るわけだな?」


「左様。筒に詰めた矢の尻に紙を巻くなり羽毛を付けるなり工夫すれば、発射して間もなく矢そのものに引火し、火矢に変えることも不可能ではありますまい。まあ、その工夫というのが問題なのですが」


 岡田は、視線を冊子から平戸の顔に移した。その意味を悟ったのか、平戸は慌てて冊子を持っていない方の手を左右に振る。


「俺じゃありませんよ。今でこそ俺の手元にありますが、この本を手に入れたのはつい最近のことです。あの薪小屋を建てる時に使っていた資材置き場に打ち捨てられていたのですが、それまではどこの誰が目を通したのかもわからないという有り様でして」


「つまり、これを読んで魑魅魍魎の正体を悟ったからこそ、犯人を捕まえて意趣返しがしたいと思ったわけだな」


「それだけじゃありません。斯様な兵器を濫りに使っていては、いずれいらぬ諍いの原因になるのは必定。この村の怪異として穏やかに語り継がれているうちに、騒ぎの元を始末して、この冊子ともども始末すべきと考えています」


「ふむ」


 態度こそよろしくないが、見識と聡明さとを併せ持った、将来性のある若者である。


「どうであろう、平戸殿。我らはこの雨が止み次第、また蟹岩に挑むつもりであるが、ご助力願えぬだろうか?」


「そうですなあ」


 それまで凛とした覇気を背負っていた若者と同一人物とは思えない、だらけきった口調で返答した平戸典也は、まただらりと脇息にもたれかかった。


「相手が誰であろうとお構いなしに、見ただけで石礫を飛ばしてくるような奴なら、盾が必要になるでしょうからな。肉の盾が控えてくれるなら安心できるでしょう」


「平戸殿を盾にしようなどとは考えておらぬ」


「私が必要としているのです」


 どうやら、また元のぞんざいで皮肉屋な性格に戻ってしまったらしい。


「それと、もし貴殿が望むのであれば、こちらの藩での仕官の道について、我々からも口添えしたいと思っておるのだが」


「今の貴方の立場と苦労を知ったうえで首を縦に振る人がいたら、ぜひ会ってみたいものですな」


「では、これにて失礼する」


 岡田は急いで立ち上がった。


 これ以上このあばら屋に留まっていては、また不快な気分になる。






 昼頃まで降り続いていた雨は、辰の刻を過ぎた辺りにはぴたりと止み、それまでの空模様が幻だったのではないかと疑いたくなるような強い日差しが、伊右エ門村一面を焼き尽くしていた。


「さて、それでは出発しようか」


「ちょいと待ってくださいよ、岡田様。此奴こいつは一体何者なんですか? 村では人足は雇わないって仰っていたじゃないですか」


 さらに二人逃げて六人に減っていた人足たちと、二人の元相撲取りの前に、さも当然と言わんばかりの風体で立っている平戸典也を、玄星は訝しげに指さした。


「この村に棲んでいる、平戸典也殿だ。平戸殿は蟹岩の魑魅魍魎退治に自ずから協力を申し出てくれた身、こちらが金で雇ったわけではない」


 紹介してから、岡田は伊右エ門が語った平戸典也の素性を思い起こしていた。

 彼の父親はとある藩の藩士であったが、思うところあって脱藩し、逃げ隠れるように伊右エ門村に移住して来たのだそうである。

 典也が成人した直後に病死したので脱藩の理由までは聞き出せず、皆目見当もつかなかったそうだが、典也の斜に構える性格は、ひょっとしたら彼の父親の死に関係しているのかもしれない。


「伊右エ門村で起こっている怪異であるから、伊右エ門村の人間の協力を得た方が解決も早かろうと思い、申し出を受け入れた次第だ。何か不都合な点でもあるのか?」


「まあ村の人間の協力で解決できるのなら、とっくに村の人間だけで解決しているのでしょうけどね」


 岡田の気遣いからの抗弁を、平戸は一瞬にして台無しにし、雨上がりの清々しい空模様とは裏腹に、周囲の空気は好ましくないものへと変わった。


「それと、今から出発というのも合点がいきません。今から出発したら、仮に首尾よく蟹岩を持ってこれたとしても、村に到着するまでに日が暮れてしまいますぜ」


「だから、俺が作った松明を大八車に積み込んだわけだ」


 そう言いながら、平戸は大八車に積まれた松明を一本、手に取った。


「松明は、それでまあわかったとして、こっちの天秤棒の束は一体何に使うんだ? 予備の松明というわけでもないんだろう?」


「それは、到着してからすぐに必要になるから」


 唐櫃を担いだままの白鰐が、件の棒の一本を大八車から取り出した。四十本余りの頑丈な棒は全て長さ三間を超え、その太さは白鰐の前腕に劣らないほどである。


「どうせ広場に到着するまでは空なのだから、これぐらい乗せても構わないでしょう。ついでにあんたの担いでいるその唐櫃も乗せちまったらどうだい?」


「いや、これは」


 言い澱んだ白鰐は、ちらりと岡田に目配せした。


 その中身については予め平戸に伝えてあるし、使うかどうかも尋ねてはいるのだが、彼は断った。


 曰く「対策は用意してある」らしい。


「出発前に言い伝えておくことがある。我々がこれから運び出そうとしている蟹岩は、近寄るだけで火の雨を降らせているが、あれは天狗の仕業でも魑魅魍魎の仕業でもない。その絡繰りについては、まあ事が上手く運んだら教えてやろう。では、出発!」






 広場に到着した時分には陽も沈みつつあり、辺りは薄闇に包まれていた。


「さて、問題は誰が蟹岩に近づくか、だが」


「俺が行きましょう」


 玄星や人足たちを差し置いて挙手したのは、意外にも平戸だった。


「あ、おめぇ岡田様から小判の話を聞いたな?」


「なんのことだ?」


 生憎、岡田は小判を褒美にくれてやった話は伝えていない。


 平戸は大八車から棒の束を下ろすと、それを抱え込んで一行の前に立った。


「俺は走って近づいたりしませんよ。その代わり、近づきながらこうします」


 そう言いながら棒の一本を地面に置き、蟹岩に一歩近づいては同じような向きにもう一本置き、同じ動作を繰り返す。棒は蟹岩の横幅に合わせるように並び、少しずつ大八車へと続く道へと変わっていく。


「こうして転がる棒を並べておけば、後はこの上に蟹岩を置いて押すだけで、楽に動かせます。大人数で持ち上げて運ぶより、ずっと効率が良い」


「成程、こいつは確かにあんたの言う通りだ」


 蟹岩と大八車の中間あたりで立ち止まった平戸の説明に、白鰐は感心したように唸ったものの、彼と岡田を除いた面々には今一つ理解が及ばなかったのか、誰もが狐に抓まれたような顔をしている。


「だけど、火矢が……そら来た!」


 玄星が叫び指さすその先で、宵闇を切り裂くように輝く炎の矢が森の中から一斉に解き放たれ、炎の雨と化して降り注ぐ。


「来たか!」


 呼びかけようとした時には、既に平戸は駆け出していた。玄星よりもさらに速く駆け岡田たちの元へと戻った彼は、息が切れるのも構わず上空を見上げる。


「発射している場所は、わかりますか?」


「昨日とは違う場所のようだが、憂慮に及ばん。こちらには伊右エ門殿が用意してくれた地図がある。迷うことはあるまい」


「地図ですと?」


 村を発ってから、初めて平戸の顔から余裕の色が消失しかけたが、それも僅かに一瞬だけのこと。


「行きましょう。全員、松明に火を点けて持ってください」


「いや、まだ完全に陽が落ちたわけでもあるまいし、それに相手に気付かれる恐れがあることを考えれば、それは逸り過ぎなのではあるまいか?」


「俺への目印です。方向音痴なうえに、すぐ道に迷ってしまうもので」






(いたぞ)


 猿顔の天狗が七体と、その中央に居座る蜘蛛脚の尻尾を持つ怪物。


 昨日と同じ顔ぶれの怪物たちが、昨日と同様に円陣を組んでいた。


 ただし、今日の岡田一行は煌々と輝く松明をその手に掲げているので、昨日と同じように、相手に気付かれないまま近づけるわけがなかった。


 案の定、先頭を歩いていた岡田が怪物たちを発見し後続に伝えた途端、甲高い咆哮が再び森に谺した。


 猿天狗は一斉に跳び上がって木々に隠れ、あとには四肢を折り曲げ微動だにしない妖獣だけがその場に残る。


「おおっ!」


 雄叫びを上げて妖獣に突進した白鰐が、途中で頭を押さえもんどりうった。


「石礫か!」


 正体を知ると同時に身を伏せた岡田の頭上を一陣の風が薙ぎ、背後に控えていた人足の一人が悲鳴を上げる。


 立ち上がろうとする白鰐と彼を助けようと立ち上がった玄星の身体にも次々と礫が命中し、一切の行動を許そうとはしない。


「平戸殿!」


「だから言ったでしょ、盾が必要だって」


 最後尾を歩いていたはずの平戸の声は、人足たちのさらに後ろから聞こえた。どうやら本気で人足たちを肉盾にするつもりらしい。


「そんな今さら」


「だから用意した」


 突如、屈んで動こうとしない人足たちを押し分け岡田の側へと近づいてきたのは、満月のように丸い円を描いた、巨大な円盤だった。その正面には獣の皮が貼り固められており、屈んだ平戸の身体がその後方にすっぽり収まっている。


「平戸殿、それは」


団牌だんぱいといって、やはり外国の兵器です。これなら飛び道具もしっかり防ぎます」


「こんなものを。いつの間にどこから?」


「大八車に棒を積み込んだ際、こっそりその下に隠しておきました。使う機会が無ければ何の為に持ち込んだのかわからない代物ですし、使う機会が有ったら有ったで、武士が使う武器ではない、と難癖つけられそうでしたからね。お披露目は、これが無ければ手も足も出ないと皆が思った時だけにしようと思っていたのですよ」


 確かに、今がその時であるのは間違いない。


「じゃあ、行ってきます」


 岡田にそう告げ、膝立ちで団牌を前面に構えたまま、少しずつ白鰐の元へと前進する平戸。

 団牌めがけて次々と、あらゆる方向から石礫が飛び襲うものの、頑丈な盾はその全てを受け止めながら弾き返していた。


 やがて蹲る白鰐の元に到着した平戸は、団牌を前面に構えたまま停止する。

 その防御に守られた白鰐が、本物の鰐のように地面を這いながら自分たちの方へと戻って来るのを見届けていた岡田の視線が、頭上の木々の間で蠢く影を追った。


 木々の蔭から、次々と姿を現す七体の天狗たち。


 うち二体が宙を舞い、団牌を構える平戸の背後へと回り込んだ。


「そこだっ!」


 しかしその手から礫が投げ放たれるよりも早く、団牌から飛び出した平戸の手から飛んだ「それ」が、猿天狗の一体が立っていた枝を足場としていた大木の幹に命中した。


 刹那――


 森中に轟く爆発音と大木が大きく揺れ、振り落とされまいと幹にしがみつく猿天狗。


「あっ!」


 すると、それがまるで合図であったかのように、残り六体の猿天狗は突如として煙の如く消え失せてしまった。


「もう一丁!」


 懐中から取り出し投げつけた「それ」は、またしても大木の根元で爆発し、みしみしという音と共にその巨躯を大きく傾かせる。


 振り落とされたのか、それとも自ら跳び上がったのか。


 一体だけ残った猿天狗の身体は不自然な軌道を描きながら宙を舞い、夜の森の中に消え去ってしまった。


「よし、勝った!」


 目の前で蹲る妖獣の存在を忘れてしまったのか。


 平戸は構えていた団牌を放り出して立ち上がった。


「後ろ、後ろ!」


「平戸殿、まだ化け物が残っておりますぞ!」


「ああ」


 岡田たちの喚起が聞こえているのかいないのか。


 晴れやかな笑顔を浮かべた平戸典也は、まるで子飼いの牛か馬にでも近づくかのように警戒心の伺えない足取りで妖獣に近づくと、全く反応しない怪物の横面を足の裏で蹴り倒した。


「この怪物が火の雨の正体――即ち四十九矢飛廉箭ですよ、岡田様」


「しかし、あれは八角の」


「中身の構造が同じであれば、発射筒の外見なんてどう変わっても問題無いでしょう。あの猿天狗は、これを本物の化け物らしく見せていただけに過ぎません」


「平戸の兄貴。あの猿天狗も本物の天狗じゃないんですかい?」


 玄星の質問に、蹴り倒した四十九矢飛廉箭を踏み壊していた平戸はその足を止めた。


「あれも中身は只の人間だろうな。幻術を使って七人いるように見せかけていただけだ」


「幻術使いが、只の人間なわけがないだろう。もっとも、そんなことを平気で言うあんたも只の人間とは思えないが」


「俺だって、只の人間だよ。只の人間でも、あんたらとは物の見方とここの出来が違うというだけで、大分変わるものなのさ」


 白鰐の皮肉に、平戸典也は己の頭を軽く突きながら皮肉を返した。






 今はもう伊右エ門村を去った岡田雄之助数近を歓迎したこともある部屋で、肝煎の伊坂伊右エ門は、一人の若者と向かい合いながら茶を啜っていた。


 青年の名は、仙七せんしちという。どちらかといえば風采の上がらない容貌で、加えてここ最近はどこで会おうと変わらぬ鬱屈顔だったのだが、今はまるで憑きものが落ちたかのようにさっぱりとした、爽快な笑顔を見せている。


「肝煎の仰る通り、いや岡田殿のご報告の通りにございます。俺があつらえた手妻てづまの数々、ことごとく典也の奴に打ち破られてしまいましたわい」


 岡田から、猿面の天狗という怪異の報告を受けた時点で、その正体がこの男であることを、実は伊右エ門は知っていた。

 それだけではない。

 平戸典也を岡田に紹介したのも、実は彼が事前に用意しておいた筋書きの一部だったのである。


 蟹岩に憑りついた魑魅魍魎という怪異譚そのものが、伊右エ門――いや伊右エ門村が作り上げた虚言だったのだ。


 全ては、肝煎である伊右エ門の一人娘、お澄の婿選びが発端だった。


 村中の独身男が「我を、我を」と挙手した婿探しの結論を、伊右エ門が一方的に決めたのでは男たちの人間関係、さらに言うなら村の共存意識に不和のひびが生じると危ぶんだ伊右エ門は、これまで彼らに様々な難題を押し付け、それを試練として乗り越えた者を婿として迎えよう――と宣言したのである。


 双方合意の元とはいえ、今になって思い返してみれば、よく死人が出なかったものだ、と反省したくなるような試練もあった。


 それらを乗り越えてきたのが、平戸典也と仙七だったのである。


 最後の一騎討ちを迎え、さて内容はどうしようかと頭を悩ませていたところに代官からの書状が届き、それを読み終えた直後に伊右エ門はすぐさま婿候補たちを自邸に呼び寄せ、くじを引かせた。


「赤の籤を引いた者は、これから村にやって来る侍連中が蟹岩を持ち出そうとするのを阻止せよ。手段は問わぬが死人は出すな」


「白の籤を引いた者は、これから村にやって来る侍連中が蟹岩を持ち出そうとするのを成功させよ。手段は問わぬが死人は出すな」


「もし村の者に協力してもらいたいことがあれば、それぞれ秘かに相談に来ると良い。可能な限りの援助と協力を約束する」


 殺生を禁じたのは当然の事で、万一の事態が発生したことにより大名同士、或いは領内で諍いが起ころうものなら、もはや婿選びどころではなくなる。


 典也と仙七はその場で承諾し、岡田が伊坂村に到着する前日に、各々の腹案を伊右エ門に詳説していたのである。


「本来ならば二人共この場に呼び寄せて、お互い勝負の結果に不満が無いことを確かめたかったのだが、典也の方が海上の人となっては招きようがあるまい。勘弁してくれ」


 平戸典也は、船で江戸へ戻る岡田ら一行によって半ば強引に同行させられ、今頃は船上で海洋を眺望しているはずである。

 岡田としては、ただ感謝の一念だけであり、蟹岩の輸送に協力してくれたこと以上に猿天狗を退治した勇者として、改めて殿さまからお褒めのお言葉と褒美を受け取ってもらいたい――という厚意からの申し出であったし、それが真摯な心遣いからのものであることも、典也が一時的に村を出ることについての許可を岡田が伊右エ門に頼みに来た際に、その態度から得心している。


 これを受け入れ同行した典也にも、それ相応の事情があった。

 元から新しい知識や情報を知り得ることを人生の糧としてきた彼は、お澄と祝言を挙げ肝煎となれば、村を出て旅に出ることもままならなくなる。

 自分にとって、この申し出が江戸で見聞を広めるまたとない、そしておそらく最後の機会になるかもしれぬ――と江戸への同行を希望する心の燻りがあることを、伊右エ門に打ち明けていたのだ。


 伊右エ門としても、肝煎として婿の自由を奪う心苦しさがあり、またこれを断るのも岡田に対して失礼にあたると考え、特例として許可した。


 余りにも優遇し過ぎて、負けた仙七が不愉快に思うのではないかと僅かに憂慮していたのだが、しかし目の前の仙七には悪感情の欠片も見受けられない。


「負けた俺に不満は無いのです、誰も文句は言いませんよ」


「お前さん、負けた負けたと言うわりには、随分嬉しそうな顔をするじゃないか。お澄を嫁にできなかったのが、そんなに嬉しいのかい?」


「まさか。お澄さんの婿になれなかったのは悔しいし、典也に負けたことだって悔しいですよ。籤引きでお互いのやるべきことが決まったあの日から、寝食を忘れて考え抜いた手の内を破られて、おまけに先祖伝来の奥の手まで破られてしまったんですからね。それに、お借りした冊子の四十九矢飛廉箭だって、短期間で作り上げたにしては結構な出来の自信作だと思っていたんですから」


 平戸典也が持っていた、外国の近代兵器が記載されていた冊子の所有者は、伊坂伊右エ門だった。籤を引かせた直後に冊子を仙七に手渡し、手立てが決まったら典也に渡すようにと、二人の前で言い含めておいたのである。


「まあ、お澄さんは元々典也に気があったみたいだし、肝煎は肝煎で、それを知っていたからこそ、方向音痴の典也が森で迷わないようにと、岡田殿に地図をお渡しになったのですからね」


「それは違うぞ、仙七。あれは岡田殿とその手下どもが森で迷ってはならぬと、後になって気づいたから渡した物であって、典也に依怙贔屓はしておらぬ」


「まあ、どちらにせよ俺の完敗です。借り物同然の四十九矢飛廉箭だけならまだしも、俺にとって唯一の誇りだった分身の術を見破られたとあっては、もう降参するしかないんです」


「岡田殿から話は聞いたのだが、それは一体どういう仕組みなのだ?」


「忍びだったという先祖から、代々伝えられ続けてきた幻術です。詳しく説明すると陽が暮れるだろうし実際にご覧になっていただかないと納得していただけないでしょうが、大雑把に言ってしまえば、光の屈折を利用して一人が七人いるように見せかける術です。俺は子供の頃から人知れず修行を続け、森の中でなら七人が各々自分の意思を持っているかのように見える程度にまで磨き上げたつもりだったのですが、典也はそいつを初見で見破ってしまいました」


「どうやって見破ったのだろうな」


「村を発つ前に落ち合って、指摘されましたよ。七人中一人だけ、松明の煙から逃れるように風上へと動いていた天狗がいた、と。地図の存在を打ち明けられたのは、そのお返しだそうです」


 そう言ってから、仙七は清々しい顔で奥座敷の天井を見上げた。


「何十年も修行を続け、これなら本物の天狗でも見破られまいと絶対の自信を持っていた己の術が、他人から見れば当然の理由で見破られ、完膚なきまでに叩きのめされたのです。怒りも悔しさも通り越して、何もかもが馬鹿馬鹿しく思えた末に、典也の知性と己の狭量を思い知ったわけですよ。今はもう、夢から醒めたような気持ちです。そこで肝煎にお願いしたいのですが、典也……いや次の伊右エ門様とお澄さんの祝言を見届けてから、俺は」


「き、肝煎!」


 悲鳴のような声を上げて伊右エ門邸の庭先に転がり込んできたのは、水飲み百姓の丑松うしまつだった。


「どうしたんだね、丑松。用があるなら玄関からお上がんなさい」


「そ、それどころじゃねぇ! 祥亀丸しょうきまるが転覆したんだと!」


「なんじゃと、祥亀丸が!」


「肝煎、まさか!」


 事態を察したらしい仙七までもが血相を変えた。恐らく伊右エ門自身の面相も蒼白に変わっているだろう。


 祥亀丸。


 江戸へと戻る岡田雄之助数近と白鰐、玄星、そして平戸典也が乗り込んだ船である。


「沖で嵐に遭って、三隻いた船のうち二隻が沈んじまったんだと! 江戸さ着いた船からそういう報告が届いたと代官様が仰ってるんだと! おっつけ代官所からその話をしに人が来るんだとよ!」


「わかった、わかったから下がっておれ。ただし、事がはっきりするまで誰にも言うなよ」


 頷いた丑松が来た時と変わらぬ勢いで庭から飛び出すのを見送ってから、伊右エ門は、呆然と仰天という二つの表現が複雑に入り混じった頓狂な顔を晒している仙七に声を掛けた。


「どうじゃな、逆転勝ちした気分は」


 しばらく経ってからその意味に気付いた仙七は「あっ」と声を上げたが、直後にその表情は沈痛な、そして自虐的なものへと変わった。


「まずは、祥亀丸転覆が事実なのかどうかを確かめるのが先決でしょうな。しかし、それが事実だとして――どうでしょうなぁ。生きて添い遂げ、醜態を晒し続けながら老いていくより、若く優れた時代の面影を深く心に刻み込んだまま身罷みまかった相手の方が、遥かに難敵でございましょう」                                



                              (了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

伊右エ門村の蟹岩 木園 碧雄 @h-kisono

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ