西より東へ
楸
西より東へ
◇
ふと、海を見たくなる瞬間があった。
それはいつも唐突だ。ぼんやりと考え事をしているとき、衝動的とでもいわんばかりにいきなり浮かび上がる。別に海というものが好きなわけでもないのに、それでも海を見たい、そんな気持ちに駆られて、たまに近場の海まで車で走っていくことがある。
海まで行っても、楽しいことはそんなにない。ただ、景色として海はその場にあるだけで、それ以上にあるものをいつも見出すことができない。それは日常茶飯事ともいえるものであり、特に変わらない日常のひとつを切り取ったものだ。
ただ、これをこうして書いている間に、なぜそのような衝動が生まれるのか、というのを考えてみた。答えはいたって単純で、だいたい人生に疲れているときだった。
きっと、その日も同じように疲れ切っていた。だから、海に行ったんだと思う。
◇
計画的に行動することはあまりない。計画を作ったとしても、それが上手くいく、ということはなく、なんなら突発的に行動をした方が記憶にも残るし、時間の使い方に余裕ができる。計画があると、どうしたって意識が半分ほどそちらに割かれてしまうので、僕は突然の衝動に従うままに車を走らせてみた。
海に行きたい、という気持ちは先述の通り、いつだって突発的に浮き上がる。近場の海については見つくしていて、お気に入りのスポットも見いだせるくらいにはなっている。中でも、千葉県の木更津付近の海を眺めるのは割と楽しい。神奈川へとつながっているアクアラインを船がくぐるさまを見ているだけで、なんとなく満足感が得られる。
けれど、その日は違う海に行きたかった。いつも同じような景色を視界に収めるのではなく、たまには違う海というものを見てみたくなった。
僕が住んでいる場所を要約すると、千葉の形をした犬として見立てた時、だいたい心臓があるくらいの場所に住んでいる。……この言葉の意味が分からない人は、チーバくんという単語で調べてみるといい。舌を出しっぱなしにしている赤い獣が画像として現れるから、自ずと理解することはできるだろう。
心臓部、もとい中心ということで、東にも西にも行きやすい。いつも見ている海は東京湾の海であり、西に出向くことが多くある。だから、その日は本当に珍しく東のほうへと行くことにした。
ただ、珍しいイベントをただ東に行く、というのも味気がない。どうせならば、何かしら観光名所、と呼ばれる場所に行きたくなった。いつもならでは、というか、いつもじゃないからこその選択をしたくなったのだ。
そうして選んだ場所は犬吠埼という、関東で一番最東端とされている場所である。
犬吠埼には灯台があり、そこから大きく広がる太平洋、並びに水平線を確認できるらしい。東京湾から眺める海では、どうしたって景色が少し邪魔をする。本当に目をよく凝らしてみれば、水平線に見えるものも水平線ではないことに気づいてしまうから、改めて僕は水平線を見ることを目的に、そうして千葉の中心から北東のほうへと車を走らせた。
ガソリンを満タンにした。一年前に購入した車には愛着がある。最初こそは匂いに敏感だったけれど、今では気にしなくなってしまって車中でも煙草を吸っている。そんな煙臭さが染みついている車に乗り込んで、だいたい三時間ほどアクセルを踏む。
高速道路を使えば、一時間半でつくらしい。携帯で使っているグーグルマップと、車に備え付けられているカーナビがだいたい同じ時間を示していた。だが、こういうときに高速道路のつまらない山の景色を見ても甲斐がないから、一般道路を通っていった。別に何か景色に期待をしていたわけじゃなかったけれど、その方が安上がりだし、なにより思い出になるからそれでよかった。
途中、コンビニに寄ったりして、コーヒーを片手に抱えながら、長くても短い時間に体験しながら、そうして犬吠埼のほうへとたどり着く。
一瞬、駐車場がどこにあるのかわからなくなる。至る場所に駐車している車はあるものの、その大概は違法駐車であり、よくよく見れば黄色い立て札に『駐車禁止』と書かれているものが置いてあった。
なので何度か車で右往左往を繰り返した。たまに付近のホテル駐車場へと止めそうになったけれど、何とか公式の犬吠埼灯台の駐車場を見つけて、そこに停車。駐車場は犬吠埼灯台が目の前にあると感じられるような場所で、なぜここをすぐに見つけられなかったのだろう、と自分の視野の狭さに少しだけがっかりした。
ついてから煙草の時間を挟んで、意気揚々とドアを開ける。到着した時間はおおよそ昼間の二時ごろであり、駐車場から犬吠埼の道には疎らに人が歩いていた。観光名所と言われるだけはあるな、と思うくらいには。
駐車場から階段をのぼって、ご当地のお店のほうに入る。お店のほうからそのまま横断して犬吠埼のほうに行けるらしく、適当にそれらを冷やかしながら歩いた。ソフトクリームだったり、なにかの伝統工芸を体験できるコーナーもあったけれど、それぞれ自分が持ち合わせている金額では買うことができなかった。主にガソリンを満タンにしたことが原因として挙げられる。
別にいいし、と心の中で強がった後、自分の目的は海なのだ、と殊更独りで強がった。誰かに心の中を覗かれているわけでもあるまいし、そんなことをしている自分が少しだけ恥ずかしくなったけれど、それでも僕は歩いて店の外に出た。
店の外には石畳と、それらを囲うように芝生がある。さらに奥には最東端であることを解説するような看板があったり、何か国語に関連する大きな石碑があった。写真には一応収めたけれど、光の反射で読み返すことはできなかった。もっときちんと写真を撮ってくれよ、過去の自分よ。
それはさておき、看板のほうへと足を運ぶと、そこからようやくというべきか、僕が望んでいた海が視界の中に入ってきた。
正直、すごく驚いた。
東京湾から覗ける海というのは、ぶっちゃけあまりきれいなものではない。広さだけが唯一の取柄といっていいほど、どうしても海の汚さが目立ってしまう。青色とは言えない濁った海を目の当たりにしているからこそ、犬吠埼から見える海は、本当に青くて綺麗だった。
太陽の光を乱反射する海に、ぽつりと三隻ほど船が浮かんでいた。その奥には、確かに目を凝らしても何も見えない、まっすぐな水平線さえ覗くことができた。
もっと近くで見てみたい、そんな気持ちはあったけれど、看板の先にある階段を下っても大して距離は縮まることはない。それでも視界いっぱいに広がる青い空に驚嘆したことだけはよく覚えている。
どうせなら灯台にものぼろう、と思ったけれど、結局そう思うだけで上のほうへと行くことはしなかった。理由は単純に、もしかしたらお金がかかるかも? と考えたから。人に聞けばいいものの、そんな勇気さえ僕にはなかった。
だから、人には聞かないままでそうっと海だけを見渡した。それだけで十数分以上の時間をそのまま人生の中に落とし込んだ。
きっと、有意義な時間だったと思う。
西より東へ 楸 @Hisagi1037
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