【全年齢】Adult Only

洗う

【全年齢】Adult Only

 後ろから肩を掴んだ。

 相手は漫画のように飛び上がってから振り返る。それに合わせて、長い髪と制服のスカートが揺れる。

「君、そこ入れる歳じゃないよね?」

 黒い暖簾を背景に、青ざめた少女が目を伏せた。

 俺は、とんでもない奴を捕まえたのかもしれない。




 ここは、某レンタルビデオショップのスタッフルームである。かなり狭い正方形の部屋で、ロッカーやら流し台やら店長デスクやらを詰め込んで圧迫されている。全体的に少し古くて汚れているが、照明はかろうじてLED。

 パイプ椅子に座る俺は、白いテーブルを挟んで向かい合う少女に切り出した。

「君さあ、これで三回目なんだけど」

 同じくパイプ椅子にちょこんと乗る少女は、口を結んだままこちらを見た。その目から伺える恐怖は、あるにはあるが、何故か申し訳程度。

 彼女は柏岡 野雪(かしおか のゆき)という。螢晟(けいせい)女学院高等部二年の十六歳。胸元までのすとんと真っ直ぐな黒髪をハーフアップにまとめて、前髪は横に切り揃えている。顔は中の上。化粧気は全く無いが肌が白く、清潔感のある良い子って感じ。誰もが知る名門お嬢様学校に通う、紛う方なき未成年である。

 この店のバイトである俺が、18禁コーナーの暖簾をくぐろうとする彼女を止めたのが一週間前。ぎりぎりくぐってはいないから、親や学校への連絡はせずに注意だけで終わらせた。高校の制服のまま入るのは奇行すぎると思うが、若者のちょっとした興味本位だろうと、俺も店長も、最初はそこまで気にしなかった。

 しかし彼女はその三日後、そして今日と一週間で三回同じ奇行に走り、三回俺に止められている。もう意味が分からない。

「知ってると思うけど、あそこは十八歳未満は入れないし、うちの店は十八歳でも高校生のうちはお断りしてるの」

「あ、卒業しないと駄目なんですね」

「へえーみたいな顔しない! まだ二年生でしょうが!」

 彼女はそこそこ喋るくせに、奇行の理由は全然言わない。

「そもそも螢晟、どうせ寄り道禁止でしょ」

「はい」

「駄目じゃん。そんなにAV見たいの?」

「いえ別に」

「えっじゃあ何してんの? 怖……」

 会話しているうちに、彼女は店舗の方向をちらちらと気にし始めた。今日の当店は珍しく盛況で、他のスタッフがレジ応対をする声が途絶えない。この部屋には二人しかいないから、壁の向こうとのコントラストが強い。

「どうしたの」

「……すみません。忙しい日に、お手数おかけして」

「いや全然? むしろ喋ってるだけで時給もらえて最高」

「えっ」

「大人が全員真面目だと思うなよ」

 彼女は目を丸くすると、しばらく黙る。そして。

「……ふふ」

 今までとは違う軽い音で、嬉しそうに微笑んだ。

「ええ、何」

「いえ」

「ていうか、謝るならやらなきゃいいでしょうが」

「中等部から仲良くしている同級生が、三人いるんですけど」

「急に!?」

「二年に進学したら突然、三人に恋人ができたんです」

「へえ」

「かなり仲良くしているみたいで、先週、三人とも……その……」

 そこで口ごもり、顔を赤らめて俯いた。

「……お、大人の階段を」

「は!?」

 一番恥ずかしい部分を言い終えたのか、彼女は一気に饒舌になった。両手で頬を押さえながらトーンを上げて話す。

「なんかあ、男子校との合コン? で知り合ったらしいんですよ! だから彼氏のほうも三人友達同士で、みんなでデートとかしてるらしくて、なんか同じスピードで進展してて」

「そこのタイミングまで合わせるなよ!! 正気か!?」

「昼休みにその話聞いたんですけど、なんかそれが結構リアルで、なんか初めてだと結構痛」

「だー--っ!! 言うな!! そこまで言うな!!」

 突然ノックが聞こえて、店長が入ってきた。冷蔵庫からペットボトルを取り出して、俺に問いかける。

「土井君、今どんな感じ?」

 JKの初体験の話聞いてますとは言えない。

「あーっと、この子結構思い悩んでるみたいで、大人としてほっとけないんで、話聞いてるって感じです! 場合によっては然るべき機関に連絡することも視野に入れて、この子にとってより良い方向になるよう進めてます! はい!」

 こんなにもっともらしい発言をしたのは数年ぶりかもしれない。

「そうか、僕にできることあったら言ってね。引き続き宜しく」

 人の良い店長が水分補給を終えて出て行くと、少女は落ち着きを取り戻して続けた。

「とにかく、すごくて楽しかったと言っていて」

「ジェットコースターの感想?」

「今までは三人とも、私と同じで、男子の知り合いなんていなかったんです。急に大人になって驚きました。私だけ何も変わっていなくて……置いて行かれるのが怖くて」

 こちらとしては、その三人が早熟なだけだと思うが。最近の高校生はそれが普通なのだろうか。お嬢様学校に通わせる親は教育に厳しそうだし、今まで抑圧されていた分の反動もあるのかもしれない。

「みんなに追いつきたいんです。でも彼氏を作るなんてできなくて」

「まあ、急にはね」

「だから映像から入ろうと」

「そうなるかあ~……。君、かなり変だよね」

「……私、変ですか」

「自覚無いの」

 彼女と目が合った。細い眉が下がると、黒い瞳が揺れた。

「どうしたら普通になれますか?」

 気が付くと、外は静かになっていた。

「……柏岡さんだっけ」

「え、はい」

「君は何が好きなの?」

「え?」

「何でも良いよ」

 彼女は視線をテーブルに泳がせて、暫く考えた後(のち)にゆっくりと答えた。

「……少女漫画が好きです。月刊セレナーデ」

「へえ。聞いたことはあるな」

「少女漫画誌の中では有名なんです。小学生の頃から毎月買ってます」

「いいじゃん。彼氏作るよりよっぽど面白いんじゃない、それ」

 彼女が顔を上げた。更に丸くなる黒い瞳に、かっこつけて微笑んでやる。

 そうしたら、その顔があんまり緩むから、思ったよりも心臓が重くなった。




「芳乃(よしの)、あんたいつまでふらふらしてるつもりなの!」

 スマホから飛んでくる母さんの声は、語尾に向かうにつれて甲高くなる。安いアパートの狭い一室で、俺はテレビの電源を付けながら気怠げに返した。目の前のローテーブルの上には、コンビニ弁当のごみと、カフェオレのペットボトルが飲みかけ。

「いつまでって、知らないけど。先のことなんか」

「その台詞、受ける高校聞いたときからずっと言ってるわよ」

「そうだっけ。じゃあ俺は凄いんだな。同じ場所に留まるためには、常に全力で走らなければならないから」

「ニーチェね」

 母さんは、この世の格言っぽい台詞は全てニーチェが言ったものだと思っている。

「あんたねえ、次で二十六でしょ。その歳でまだアルバイトだなんて、聞いたことないわ」

「その台詞、四年前からずっと言ってるね」

「いい加減就職しなさいよ」

「バイトも就職じゃん。職に就いてる」

「芳乃!」

 遊んだ返しをしながら、テレビのチャンネルを回していく。火曜午後七時の地上波は、名前の下に必ず出身大学のテロップを入れるクイズ番組と、人間の暗い部分だけを切り取るワイドショーと、少しでも年齢の低い実力者を探しているバラエティと、エトセトラ。音楽の特番を見つけて選択すると、今流行りの女性歌手の新曲が流れていた。顔出ししていない歌手だから、ミュージックビデオにナレーションを被せている。

「その曲、最近よく聞くわね」

 電話越しに聴こえたらしい母さんが反応した。

「ね、急に売れちゃって。上手いからなあ」

 ローテーブルに肘をつきながら呑気に呟くと、スマホから盛大な溜め息が流れてくる。そして続いた。

「その女の子、一九歳らしいわよ」

「え!?」

 言い捨てられて通話が切れた。一人になった六畳で、胡座のまま復唱する。一九歳? なんかここ数ヶ月でいろんなランキングかっさらってる時の人が、というかそれ以前にあんなに上手い歌歌う人が一九歳? 酒も飲めないじゃん。

 そのとき、少し遠くで鍵が開くと、足音と話し声で壁の向こうが少し騒がしくなった。一ヶ月程前、四月から、大学新一年生が隣に越してきた。新しくできたと思われる友達を頻繁に招いている。ここの壁の薄さにはいつ気付くだろうか。

 胡座の体勢を後ろへ倒して、背後のベッドにもたれかかる。

 冬を越えて、春。新学期。この部屋の外は、健全なスピードで変わっている。この部屋は何も変わらないと見せかけて、気付けばカフェオレが温くなっている。

 天井を見ていると、昨日の少女の顔を思い出した。

「……どうしたら、普通になれますか」

 無責任なことしたな。分からないって言ってやれば良かった。




 少女との初対面から三週間が経過した。18禁暖簾くぐり未遂は累計十回を超えており、今日もスタッフルームに通された彼女は。

「それで、ここに出てくるカップルは、この先生の前作の主人公たちなんです!」

 目を輝かせて少女漫画を語っていた。

「話が前の奴らと関係あるんだ」

「無いです!」

「え? じゃあ何で」

「土井さん! 過去作キャラクターのモブ活用がどれほどファンを沸かせるものか分かりますか!?」

「分からん」

「まあ読まない人はそうですよね。じゃあ、次の巻では何が起こると思います?」

「……文化祭?」

「すごい! 分かってきてますね!」

「少女漫画って、三角関係してる時期にしか文化祭できないの?」

 情に厚い店長の計らいで、俺は今日も彼女の人生相談に勤務時間を割いている。サブスクが普及した現代、奥まった立地、そして最新作が半年前発売されたやつというラインナップの古さも手伝って、この店が混雑することは少ない。常連と同じ頻度で来店する18禁暖簾くぐりJKの相手をするのは怖いらしく、他の店員もあまり彼女と話したがらない。人生相談を謳いながら毎度三十分弱雑談するだけで時給をもらっている現状について、流石の俺も少々の罪悪感が芽生えてきた。しかし俺はいただけない野郎なので、少々、である。

 それに、この謎の会合がだらだら続いているのは、俺の怠惰だけが原因ではない。

「柏岡さんってさあ」

「野雪でいいです」

「あ、そう」

 やけに野雪に懐かれているのだ。

 平日のうち、俺がシフトに入っている日は必ず野雪が来る。後ろ姿を見つけて肩に手を置くと、驚きもせずに振り返り、驚くどころか「土井さん、こんにちは!」と言って笑う。

「野雪、なんでまだあそこ入ろうとするの? もう無理だよ、顔割れてるし」

「だって、相変わらず友達の恋バナにはついていけてません」

「せめて制服着替えてくるとか、他の店にするとか」

「初志貫徹が家訓なので」

「今考えたろその家訓!」

「ばれました?」

 漫画の単行本を持ったまま、向かいに座る野雪が笑った。口を横に伸ばすように、少しだけ歯を見せる。

 すると、心臓が少し縮まって、身体が一瞬浮いた気がした。まただ。最近時々ある。自覚しているが、口に出したら恐らく法に触れる。

 話を続けながらテーブルに視線と感情を逃がしていると、彼女の声が少し不満げに変わった。

「もう、土井さん! 聞いてますか?」

「聞いてるよ。七月に文化祭なんでしょ。早いね」

「うちは毎年夏休み前にやるんです。他校の生徒が入れる校舎に入れるのは、文化祭と学校説明会だけなので、友達は彼氏と一緒に展示を回るらしくて」

「え、野雪がぼっちになるじゃん」

「はい……それで」

 ペットボトルのカフェオレを喉に流しながら聞く。

「みんなが、その彼氏たちの友達の男の子を連れてきて、その人と私で一緒に回るように計画してるみたいで」

 かなり下品なむせ方をしてしまった。

「えっ、大丈夫ですか!?」

「げほっ、うん、いや、出ーたよグループ合同交際……お前のグループ、もしかしなくても陽キャ?」

「ここ数か月で突然陽が差してきた感じがします」

 他人の青春にケチつける気は無いが、その手の集団で長続きした話を聞いたことが無い。中等部から仲が良いという友達と、もし亀裂が入ることがあれば、野雪が気の毒だ。

「別に好きにすればいいけどさあ。野雪はそいつに気いあるの?」

「いえ、会ったことないです。成り行きでウサスタだけ繋がってます」

「うわ令和」

 喋りながら立ち上がって、背の低い冷蔵庫を開ける。マジックで名前が書いてあるペットボトルを、首を傾げる彼女に投げてやった。相手は予想通りの慌てた顔でなんとか受け取る。

「えっ、何ですか」

「あげる。さっきから俺のずっと見てたでしょ」

 野雪の視線が、テーブルに置かれたペットボトルに戻った。俺が話しながらよく飲んでいる、いつものやつだ。この冷蔵庫に常に数本ストックしてある。

「飲んだことないの?」

「親に、こういう飲み物は控えるよう言われていて」

 だったらウサスタもAVコーナーも絶対控えるよう言われてるだろ。なんで飲食規制だけ守ってんだこの子。 

「くれるんですか?」

 小さな声で確認してくる野雪は、親より俺の言うことを優先しそうな顔をしている。

「あげるって言ってるじゃん」

「ありがとうございます。あ、でもコーヒー飲んだことなくて」

「平気だよ。それ超甘いから」

「そうですか」

「俺、ブラック飲めないんだよね」




 ビールは飲めるけど。

「なあ! 康介、来月からインドネシアだってよ」

 午後八時。半個室の居酒屋で集まっているのは、高校で仲が良かった同級生五人。それぞれ、いや、俺以外の奴らが忙しかったこともあり、会うのは一年ぶりになる。

 一番の下戸である大樹は、一杯目で既に真っ赤な顔で、向かいに座る康介の報告を先回りした。

「まじで。転勤?」

 康介がレバーを頬張りながら頷く。隆司と冬馬も会話に混ざってきた。

「去年はシンガポールとか行ってたよな」

「あれは二週間だけの出張。今回は一年くらい」

「うわー、会えなくなるのか。四人じゃ人形浄瑠璃も出来ないじゃん」

「やったこと無いが?」

「期間長いけど、プロジェクトリーダーになったから仕方無いとこもあってさ」

「え、まじ? 超昇進じゃね。まだ四年目だろ」

「すげー!」

「だろ」

 少し照れくさそうに笑う康介は、常にふざけていた高校時代よりもずっと大人びている。

「康介、頑張ってるよな。応援してる」

 そう言うと康介は、おう、と返してから話題を変えた。

「芳乃は最近どうなんだよ」

「俺?」

「おい大樹、しっかりしろ! すいませーんお冷ください!」

 潰れかけている大樹を見ながら、「別に、普通」と答えた。

「まだフリーターなんだっけ」

「ツルヤだろ?そのまま社員になっちゃえばいいじゃん」

「そういうことじゃないっていうか」

「何か無いの、店の面白い話」

「面白い話……あ」

 進んで話したいわけでは無いが、フリーターの件を掘り下げられるよりましかと思った。

「最近変な奴が来る」

「クレーマーか?」

「借りるAVの趣味がえぐい常連客か?」

「大樹! それは俺じゃなくて煮玉子だ!」

「そうじゃなくて、学生なんだけど」

 暖簾の隙間から18禁コーナーを覗こうとする野雪を思い出すと、今更ながら滑稽で笑ってしまった。

「とにかくすげー変な奴」

 大樹以外の全員が口を揃えた。

「「「女だ!!!!!」」」

「は!?」

「芳乃お、しばらく色恋聞かねえと思ったら学生かよ!」

「JKか!?JDか!?」

「いっ、言わない!」

「芳乃、高二の頃に一回クラスメイトと付き合ってたよな。クリスマスマジックだから一か月で別れたけど! ぎゃははは!」

「でもあん時は結構淡泊だったじゃん。何、今回はマジなの~?」

「うるせえな!」

「芳乃、熟女モノ好きなのに惚れるのは年下なんだ」

「うるせえな!!!!!」

「大樹! それはお冷じゃなくて俺だ!」

 思ったよりずっと大事になってしまった。全員酒が入っているせいで余計にうるさい。喋らなきゃ良かった! いや一ミリしか喋ってないんだが!?

「どんな子なんだよ」

「言わない!」

「ケチ! まあ応援してるぜ~?」

「大樹! 可愛い店員の女の子はあっちだ! 俺に連絡先を渡すな!」

 揶揄うように笑う冬馬が、肩に腕を回してきた。酒臭さが鼻をつくが、おそらく俺も同じ位だろう。

 などと考えていると、目に入った。視界の左下にある冬馬の手。薬指に銀色の指輪。そうだ、去年結婚してた。

 ふと気付いて見回す。今日は金曜。四人はみんなスーツを着ている。

 Tシャツを着ているのも、横の髪にメッシュを入れているのも自分だけ。

 この色、いつから変えてないっけ。

 目に入ったつくねを口に入れたら、冷めていて美味しくなかった。




 よく晴れた月曜日。

 邦ロックの棚の前で見慣れた制服を見つけて、肩に手を置く。

 いつも通りに振り返った少女は、いつもと違う要素に気付くと目を丸くした。

「えっ」

 予想通りの反応に満足した俺は、私服でにやりと笑ってやった。

「今日は怒られないとこ入ろうよ」


 ゆっくりと持ち上がったアームが、当然のようにぬいぐるみを手放した。

 「あっ」と声に出してから、野雪は五回連続の落胆を見せる。

「噂の通りですね。全然取れません……」

「ゲーセン初めて?」

「はい。折角だから一つは持って帰りたいです」

「でも、景品持って帰ったら親に寄り道ばれるよ」

「はっ……!」

「だからあれにしよ」

「?」


『おめでと~! フルコンボだピョン!』

「すごい! っていうか、なんで丸が流れてくるスピードが私と全然違うんですか!?」

「難易度が違うから。ほら、ここで変えるやつ」

「おお~!」

 二曲目の選択画面で実演してやると、野雪は楽しそうに目を輝かせた。周囲に合わせて自然とお互いの声量が上がっている。光と音が騒がしい場所にいる野雪は新鮮で、大きな画面に照らされる横顔を見ていると、彼女と自分との関係が余計に分からなくなる気がした。

「土井さん、すごく上手ですね。和太鼓の経験があるんですか?」

「ねえよ。このゲーム機はどこにでもあるの」

「へえ。私は太鼓もゲームもからっきしです」

「あ、ごめん、楽しくない?」

「すっごい楽しいです!」

 ロードは終わっていたのに、こちらを見たまま笑うから、二曲目はフルコンボを逃した。


「土井さん、なんで今日遊んでくれたんですか?」

 窓際のテーブル席で、大きなチョコレートパフェを食べながら野雪が聞いてきた。

 まあ当然の疑問だよなあ。少々気まずく思いながら、アイスカフェラテをストローで混ぜてみる。

「あー……今日休みだったし。スタッフルームは飽きたでしょ」

「別に飽きてませんよ」

 AVコーナー入ろうとして捕まるのはいい加減飽きろよ。

「学校の帰りに喫茶店に行くなんて、『ときめき☆カラット』の三巻十一話みたいですね!」

「前に話してた漫画か」

「このパフェも美味しいです! きっと凄腕のシェフが作ってるんですね」

「いや、バイトの大学生でしょ」

「そうなんですか!?」

「でも分かる。高校生までは、現場を回してるのはほとんどバイトだって知らないんだよな……」

「現場を回すやりがいを感じてるから、土井さんはずっとアルバイターなんですか?」

「えっ無自覚ですごいとこ触れてくるね……」

 中高一貫のお嬢様学校に通う箱入り娘の野雪には、フリーターという進路は想像もつかないのだろう。割と無神経な質問だと思うが、彼女に言われると腹は立たないのが不思議だ。……いや、真面目な顔をしていても、こいつは制服のままAVコーナーに入ろうとする変人なので、何を言われても響かないのかもしれない。

 まあ、いいか。響かないなら、話しても。

「……正社員になりたくないから」

「どうして?」

「窮屈そうだから。時間も恰好も縛られてさ、とにかく楽しくなさそう。そりゃあお金とか安定とか、そういうののために頑張るのが……大人ってやつなんだろうけど」

 窓の向こうには、スーツ姿で電話をしながら歩いて行く人が見える。昼と夕方の間くらいの陽射しが黄色っぽい。

「別に、追いかけたい夢があるわけでもない。でも、周りが当たり前みたいに大人になってくの、俺には全然分かんないな」

「……成程」

「それだけかって思ったでしょ」

「まあ、はい」

「お前、もうちょっと社交辞令とか学んだほうが良いよ……」

 野雪はパフェを食べ進めながらけろりと笑った。

「でも私も、友達に追いつきたいだけであのコーナー入ろうとしましたから。同じようなものじゃないですか?」

 その機嫌の良い顔を見ていると、何だか気が抜けてきた。「確かに」と返すと、野雪がはっと手を止める。

「あ、そうだ! 次に土井さんに会ったら渡そうと思ってたんです」

 品のある革の鞄から出てきたのは、細長い紙だった。

「ああ、文化祭の」

「招待券です! 金曜日に配られたので。親の分の他に二枚貰えるんです」

「いや俺に渡しちゃ駄目でしょ! 世間的に!」

「歳の離れたいとこって設定ならいけます!」

「頑張るな! これとあと一枚でほら、おじいちゃんおばあちゃんでも呼びなよ」

「もう無いんです」

「え、誰にあげたの」

「例の、私と展示を見る予定らしい男の人です」

 それを聞いた瞬間、想像以上に不機嫌になった自分に驚いた。

「……はあ? 野雪が渡したくて渡したの?」

「いえ、前に話した通り、友達が私たちを仲良くさせたいみたいで。友達経由で渡しました」

「お前はそれでいいわけ」

「……まあ、男の人の友達が増えるのは嬉しいです。会ってみて嫌だったら断ればいいし。でも」

「何」

「……土井さんが来てくれるなら、土井さんと回ります」

 緩く口を結んで、上目遣いに俺を見る野雪が、斜めの陽射しに照らされた。グラスの氷が音を立てて溶けた。

 数年ぶり、いや、もしかしたら初めての心臓の速度に、分かってるよと言い返したくなる。多分、俺はそこまで鈍くない。自分にも他人にも。そのくせに、止めてやるほど紳士でもない。やっぱりまともな大人じゃないな。

「……行けたら行く」

「それ来ないやつです。あ!」

「今度は何」

「そろそろ帰らないと、親に怪しまれます。いつも勉強会してるってことにしてるので」

 そうだ。こいつもまともな学生じゃなかったわ。

「じゃあ帰ろ。今から電車で間に合う?」

「えっと、ぎりぎり大丈夫だと思います」

「ん。そうだ、これ」

「え?」

 立ち上がった拍子で思い出した。ポケットに入れていたキーホルダーを野雪の手に乗せる。小ぶりな白熊のぬいぐるみだ。

「可愛い! どうしたんですか」

「さっきゲーセンで取った。お前がトイレ行ってる時」

「あんな短時間で? すごいですね」

「そんだけ小さければばれないんじゃない?」

「……!」

 伝票を取ってから、会計に向かおうと視線をずらすと、野雪がまた上目遣いでこちらを見ていた。胸の前でキーホルダーを握って、口をぱくぱく動かしてから、結局右下へ視線をずらす。そして小さく呟いた。 

「……狡い」

「何が?」

「もう! 土井さんの馬鹿!」

「え、何が!? 今のはまじで分かんなかった!」




 大学の卒業式ぶりにスーツを着た。腰を下ろしたパイプ椅子は、うちの店のものよりずっと座り心地が良くて驚いた。

「えー、土井さんは、現在二十五歳なんですね」

 五十代ほどの小太りした男性が、エントリーシートらしきプリントを見ながら確認してくる。恐らく、人事部とかいうやつだろう。

 志望動機を暗唱したばかりの俺は、なんとか集中を保ちながら「はい」と返した。ここまで緊張するのも数年ぶりだと思う。家の近くにある雑居ビルの三階、小さな清掃業者の事務所の一室。大層な広さではないが、流れる空気はそれなりに張りつめていた。

 次は何を聞かれる。自己PRかガクチカが定番だが、学生時代はとうに終わっている。

「土井さんは二十二歳で大学を卒業していますね。それから三年アルバイトをしていたとありますが」

「あ、はい」

「正社員にならなかったこの三年間は、どのように過ごしていましたか?」

「え、」

 だから、バイトしてたんです。と喉まで出かかって、すんでのところで気付いた。

 そうか。それじゃ駄目なのか。

 考えてみれば当然だ。誰にも相談せずに、とりあえずの自己流のみで対策してきてしまった。ほら、こういうところが全然駄目。

「……え、っと」

 面接官と目を逸らせない。考えろ。俺は何してた? この場で堂々と言えるような、誇れるような努力。成長に繋がるような何か。

 この三年、俺は何が変わった?

 三年生きていたら、絶対に変わらなくちゃいけないのか?

 一分近く黙っていたのに、小学生みたいに薄っぺらいことしか言えなかった。




 自動ドアが開くと、臙脂色の制服を着て、白い紙袋を持った少女が入ってくる。ゆっくりと奥に進みながらあたりを見回している。

 こちらと目が合う。その顔は分かりやすく驚いていた。

「えっ、土井さん?」

「よ」

 俺は他の店員に聞こえない声で言った。

「スタッフルーム入りたいなら、いつもの未遂しとく?」


 スタッフルームに入ってすぐ、野雪はずいと詰め寄って聞いてきた。

「どうしたんですか、その髪!」

「ちょっとね」

 案の定の質問だったので、軽く応えて終わらせる。反して、相手の顔は疑問符が消えない。

「気分ですか?」

「似たようなもん。で、何。話したいことあるんじゃないの」

 店に入ってきたときの表情が、いつもとは少し違っていた。野雪は「なんで分かるんですか」と目を見開いたあと、机の上で紙袋の口を広げた。取り出したのは、前にも見せてきた少女漫画誌。表紙の上部にごてごてしたフォントで「月刊セレナーデ」とある。

 野雪は眉を下げて、萎れた声で訴えた。

「土井さん、月セレに、とうとう来月号の月セレに……」

「うん」

「悪役令嬢モノが!!!!!」

 三秒考えてから、「何それ」と思ったので、「何それ」と言った。

「最近流行ってる女性向けジャンルです。現実で死んでしまった女の子がヨーロッパ風の異世界に生きる性格の悪い令嬢に転生して、ヒロイン枠の女の子やヒーロー枠の男の子に翻弄されるカテゴリです」

「ふうん。嫌いなの?」

「悪役令嬢モノ自体は好きでも嫌いでもありません! ただ! 月セレはそうじゃないんです!」

 野雪は分厚い雑誌を両手で握りしめる。

「私が好きな月セレは、学園モノばっかりで、オチは大体予想がついて、小学生向けの分かりやすい内容の漫画が詰まってるんです。ずっと変わらずに、ずっと私に寄り添ってくれてたものなんです」

「へえ」

「変わっていかないと生き残れないって理屈は分かります。最近は売り上げも落ちてるらしいし。でも」

「うん」

「私は何も変わってないのに、月セレだけ変わっちゃったら、私が置いていかれちゃったら、もう私の好きな月セレじゃなくなっちゃうかも」

 テーブルを挟んで座る普段より、立ったまま向かい合う今のほうが近い。揺れる瞳が俯くと、長い髪の束が散らばって顔にかかった。

「土井さん、私、どうしよう……」

 白い電球が照らす狭い部屋で、遠くに車が通り過ぎる音を聞いた。

「…………どうしようもないでしょ」

「……へ?」

 少女が顔を上げる。

「たまたまここ数年が大して変わらなかった、ってだけじゃないの。変わらないとか無理じゃん」

「……土井さん?」

「俺だってそうだし」

「え?」

「ここ辞めるかも」

「え」

「就職しようと思って」

 目の前の顔が、先程は教えなかった理由に気付いた。

 その視線を逃がすように俯く。ろくに掃除もされていない床が見える。何もしないから汚れていく床が見える。

「お前も、いつまでもそのままじゃいられないよ」

 呟いた。ゆっくりと目線を戻した。短くなった前髪の隙間から前を見た。

 野雪が泣いていた。

 驚いて声が出ない。彼女は俺と入れ替わるように下を向いて、愚直に顔を歪ませながら、両手で涙を拭った。それでも取り零したものが重力に攫われた。(漢字チェック)

「……っ、ぃ、さんはっ、」

「……」

「どいさんは、そんなこと言わないとおもってたのに」

「……」

「ぅう~、ぅ、っ、ばかぁ……!」

 彼女は部屋を出ていった。


 気付くと暗い道を歩いていた。

 閉店まで働いたこと、退勤して家に向かっていることは分かる。分かるのに、他人事みたいに色が薄い。

 漸く戻ってきた意識に合わせて、右側が眩しくなった。自動販売機の横にさしかかったのだ。

 そういえば、今、家の冷蔵庫に何も無い。迂回して買い物をする気は起きない。せめて飲むものだけ持ち帰ろうと、人工的な四角に近付く。

 小銭を入れる。青く光る突起を押し込む。下で鈍い音がする。しゃがんで取り出す。

 あ、と、声は出ずに口だけ動いた。落ちてきたのは黒い缶。商品の列を見直すと、左手のものと同じブラックコーヒーの画像が、カフェオレのペットボトルの隣。

 物音が二回聞こえるまで動かなかった。そして、足はその場のままに、プルタブを開けた。控えめな角度で煽った。

 驚いた気がした。そうでもないような気がした。

「…………飲めるじゃん」




 土曜の昼下がり、各駅停車の車内に人はまばらだ。

 右端の座席に座って足を組むと、着慣れない布の固さが気になる。消臭スプレーだけして着回してるけど、スーツって毎回洗濯するんだっけ。いや、そもそもこのスーツが洗濯機に入れていいものか分からない。

 前方の窓から景色を眺めて、ぼんやりと、夏だなあと思った。真夏のものよりほんの少し薄い水色が七月らしい。

 先日受けた企業には案の定お祈りされたため、今、二社目の面接に向かっている。自信は無いが、前回よりはまともな受け答えを用意してきた。多方面から祈られまくって俺が神社仏閣と化す前に、何とか決まってくれると良いのだが。

 反対方面の電車とすれ違って、陽射しが遮られる。少し暗くなった車内で、あと何駅で降りるのか確認しようと、スマホを取り出した。画面を光らせてまず見えるのは、ロック画面のデジタル時計。七月十八日土曜日、午後一時四十三分。

 七月十八日。

 どこかで見た日付だ。面接の日程だからか。いや、それ以外にもどこか、画面じゃなくて紙で見た気がする。

 ぱっと陽射しが戻った。勝手に口から出た。

「今日じゃん!」

 周囲から視線を浴びた気がするが、目が合うと余計に恥ずかしいので確認はしない。

 いや、だからって別に何も無いけど。行けたら行くとしか言ってないし、あれ以降あいつ店に来てないし。今の状況で行くほうが不自然だ。金で買ったチケットでもないのに。

 車内アナウンスが流れ始める。路線が二つ通っている駅だから、駅名の後に乗り換え案内が続く。俺が降りるのは三つ先だ。

 速度を落としていった車両が、ホームドアに位置を合わせて止まる。

 あいつの学校の最寄り駅の名前を思い出した。

 え。

 俺が泣かせた野雪が、他の男と並んで歩くの?

 何それ。絶対嫌だ。

 滑らかに開き始めるドアを視界に捉えた。

 気付くのも、思うのも、なんて我儘なタイミングだろう。

 ほら。俺が大人になるなんて到底無理だ。




 後ろから肩を掴んだ。

 相手は漫画のように飛び上がってから振り返る。それに合わせて、長い髪と、夏服に変わった制服のスカートが揺れる。

 所狭しと並ぶ露店を背景に、俺を真っ直ぐに見た少女が呟いた。

「…………スーツ、全然似合ってない」

「え、まじで?」

 螢晟女学院の文化祭初日。馬鹿でかい敷地、屋敷のような外観の校舎の窓に、手作りの看板が散りばめられて、高貴さと学生らしさが入り混じった非現実的な空間だった。息を整えながら状況を整理する。ここはグラウンドの隣、広々としたコンクリートの通路。片側には生徒の出し物である露店が連なり、周囲には、螢晟やそれ以外の制服を着た男女の学生。高そうな服装の保護者。左斜め前には、うん、これは後で考えよう。天気は快晴。空は薄い水色。右手には受付で渡されたビニール袋、入学案内の冊子入り。

 左手には野雪の右手。

「って、そうじゃなくて」

 はっとして言葉を探す。野雪は最後に会った二週間前と何も変わらない姿で、上目遣いに俺を見つめた。周囲の視線をどんどん集めている気がする。

「……悪かったよ」

「……」

「えーっと、あのさあ」

 賑わいの中、俺はかなり大きな声で言った。

「悪役令嬢のやつだけ読まなきゃ良いんじゃないかな!」

 野雪はぽかんと口を開けた。

「読んだって良い。気が向いたときに読んで、案外気に入っても、やっぱり気に入らなくてもどっちでも良い。一生読まなくても良いよ」

 野雪は黙っているが、目は逸らさない。

「自分のことだって、変わるときは嫌でも勝手に変わってくもんだし。無理する必要無いんじゃないの」

「……」

「だからその、そのままの野雪で良いよ。……って……思う、俺は」

 じわじわと顔が熱くなる。一気にここまでやったけど、よく考えなくても大変なことをした。お嬢様学校の文化祭にスーツの似合っていない男が乗り込んで、女生徒を捕まえて、よく分からない持論を叫んでいる。後戻りはできないし、するつもりもない。だが、まあ、正直今は、あと数分で終わる予感がするハイを振り絞っている状態である。

「なんだおっさん!」

 すぐ近くから声が飛んできた。

 言ったのは、野雪の隣に立つ男子高校生。そこにいることは最初から気付いていたが、どうでもいいので、野雪に言いたいことを言い終えるまで無視していた。長すぎず短すぎない黒髪をかっちりと固めた、つり目の少年だ。ぱっと見の印象は、「エリート気取りの偉そうなガキ」。

 突然現れた俺に動揺しているが、彼も持論を持ち歩いているタイプの男のようで、理屈臭い口調で反論してきた。

「急に出てきたと思ったらさあ、ガキみたいなことすんなよ。大人がそんな駄々こねたこと言って、恥ずかしくないわけ」

「ああ?」

「言ってることがすっげー頭悪い。そんな保守的な姿勢じゃ成長しないじゃん」

「うるせえな!! 成長するために生きてんじゃねえんだよ!!」

 勢いに任せて怒鳴ると、少年はびくついてから後ずさった。ギャラリーのざわつきは大きくなるばかりだ。冷静さが多少戻ってきたそのとき、向こうから警備員らしき服装が見えた。

「おい! そこのスーツが似合ってない男!」

 警備員のいかつい顔がずんずんと近付いてくる。逃げようにも、出入口である正門は警備員が来る方角にあるし、まずこの人混みを突破するなんぞ砂上の楼閣だろう。まずい! 内定の前に前科を貰ってしまう!

 と思ったとき、ドンと大きなものが身体にぶつかる。驚いて足元がふらつく。数人から黄色い声が上がる。

 野雪が俺に抱きついたのだと理解するのに三秒かかった。

 その場の喧騒が、校舎内の賑わいが遠く聞こえる程にまで収まる。

 胸元に収まった少女が俺を見上げる。誰もが戸惑う空気の中、野雪だけが頬を染めて、心底嬉しそうに笑った。真っ直ぐな瞳が太陽の光を弾いて光った。

「じゃあ、いつか読んだときは、感想聞いてくださいね!」

 大きすぎる鼓動が一瞬で身体を昇って、喉につっかえて止まった。

 沈黙を破ったのは予想外の人物だった。

「しょーま! 何してんの!」

 声の主はショートヘアの少女だ。Tシャツにスキニーパンツというラフな服装で、太い眉をきりりと上げている。その視線の先は、先程俺が一喝した少年。改めて思うと俺、この場の年齢層に全然合ってないな。

 少年は俺を見たときとはまた違う困惑を見せた。

「ゆかり!? なんでいんだよ!」

「財布! 忘れてったでしょ。ほんと馬鹿なんだから!」

 ゆかりと呼ばれた少女は迷い無く少年の目の前まで歩いてきて、小ぶりな黒い財布を彼の顔にぽんと置いた。二人はやけに距離感が近い。俺に抱きついたままの野雪に、顔を寄せてこっそり聞いてみた。

「こいつらどういう関係?」

「分からないんですか? どう見ても幼馴染でしょう」

「そうなの?」

 信じられないことに、この幼馴染、この場の異常性に全く気付いていない。ただ文化祭に来ただけですって顔で会話を続けていた。周囲の視線を集めすぎて、この二人の漫才会場みたいになっている。

「それだけでわざわざ来たのかよ」

「それだけって、財布無いと何も買えないじゃん。友達と来てるんでしょ?」

「ほんとお節介だな! 親じゃねーんだからさあ」

 なんか少年、エリート気取りの見た目のくせに口調がエリートじゃなくて違和感あるな。

「また生意気言って! いっつも助けてあげてるのに!」

「頼んでねーよ!」

 至近距離で眺めているうちに、漸く理解してきた。ので、がっつり口を挟んでやった。

「何お前。好きな子に冷たくしてんの? ガキみたいなことすんなよ」

 瞬間、少年の顔が茹蛸みたいに赤くなった!

「うるせえ!!!!!!!!!!」

「えっ、しょーま!? どこ行くの!?」

 少年は音速で逃げて行った。幼馴染が慌てて追いかけていく。

 俺たちを囲んでいた通行人たちも、一区切りついた雰囲気によって散ってゆき、元通りの賑わいになった。警備員もいない。野雪が俺に抵抗しなかったので、不審者ではないと判断してくれたのだろう。

 その野雪に、校舎のほうに目をやりながら呼びかけた。

「今更だけど、あいつが例の、一緒に回ろうとしてた男?」

「あ、そうです。なんかあの人も、私にそこまで興味無かったみたいですね」

「ならいいや。で、いつまでそうしてんの」

 ずっと抱きついたままでいることに気付いた彼女は、「あっ」と声を出すと、背中に回していた腕を解こうとする。

 そのタイミングで、彼女を背中から引き寄せた。

「へっ!?」

 上ずった声が聞こえる。そのまま腕に力を入れると、相手は抵抗せずに固まった。スーツの固い布に制服が擦れて、今まで知らなかった匂いが、二人分の熱に乗ってぶわりと広がる。心臓が苦しい位に締まった。でも、嫌じゃない。

 その態勢のまま続けた。

「やっぱ、正社員なんてなるもんじゃないね」

「……スーツが似合わないからですか」

「ちげえよ」

「じゃあなんで?」

「フルタイムで働いてたら、野雪のこと捕まえられないじゃん」

 晴れた空が覆う騒がしさの中で、何も言わない野雪が、俺の背中の布を握った。




 驚きの後日談がある。

 なんとこいつ、18禁暖簾くぐりを再開した。

「もう何がしたいんだよお前は!」

 いつもの店のスタッフルームで、いつもの制服を着た俺は、夏休み真っ只中の野雪に叫んでいた。授業は無くても補習があるらしく、今日も制服を着ている。

「何ですか!? 中途採用の面接蹴ったアルバイターを笑いに来てるんですか!?」

「違いますよ」

 野雪はいつもの椅子に座って、不満気に口を尖らせた。

「分からないんですか?」

 出会った頃よりも表情が豊かになったことを感じて、正直ぐっとくる。が、嘘をついた。

「……分かんない」

「本当に? 何一つ分かりませんか」

「……」

「土井さん!」

「……っあ~もう! だから、その」

 結局、食い下がる圧に負けてしまった。

 そもそも、野雪は俺のシフトを知らないはずだ。なのに俺がいる平日には必ずいた。つまり、こいつは平日毎日来ていたことになる。でも、他の店員は野雪を捕まえていない。 

「……薄々気付いてたんだけどさあ」

「……」

「二回目から、俺がいる日だけ捕まろうとしてるよね?」

 目を逸らした野雪の顔にじわりと照れが滲む。言わせたのはそっちのくせに。

 暫く沈黙が続いたが、彼女は突然視線を戻した。

「土井さん!」

「うわっ、何!」

「私、高校卒業するまで、ちゃんと秘密にしますよ!」

「……な゛っ!! ちょ、なん、……っあ゛あ゛~~~!!!!! 俺がモラルを考えてギリギリ超えなかった一線をお前……!!!!!」

 頭を抱える俺に野雪が容赦無く畳み掛ける。

「デート連れ回して文化祭まで来といて、今更何言ってるんですか! 法にびびるの遅すぎ!」

「うるさいな!! 俺はそういう奴なんだよ!!」

「大丈夫ですって! 九歳差なんて教師と生徒程度くらいですよ!」

「教師と生徒くらいはアウトだろうが!!」

「でもしょうがないじゃないですかあ! 土井さんがいいんだもん!」

「っだあ゛あ゛~~~!! やめて!! これ以上そういうこと言わないで!!」

 俺は、とんでもない奴に捕まったのかもしれない。

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