2・釈然としない
11月にも関わらず、昼間の気温はまだそれほど低くはない。
とはいえ、ビル街に吹きつける風はどこか冷たく、やっぱりコートを着てくるべきだったと菜穂はひっそり後悔した。
会社のすぐそばにあるATMには、祝日前のせいか長蛇の列ができていた。この分だと、おそらく10分以上は並ぶことになるだろう。
ため息を飲み込み、列の最後尾にまわる。今のうちにメッセージアプリの返信でもしておこうかとスマートフォンを取り出したところで、背後から「えっ、ほんとに?」と弾けるような声が聞こえてきた。
「ほんとに? ほんとにキスしたの?」
「うん、まあ……」
会話の主は、菜穂のさらに後ろに並んだ女性たちだ。声の雰囲気からすると、自分と同年代、もしくはもう少し若いのかもしれない。
「でも、キスだけだよ? それも頬っぺだよ?」
「いやいや、頬でもキスはキスでしょ」
「軽いのでも?」
「軽いってどれくらい?」
「ちゅ……みたいな?」
聞き耳をたてるのは行儀が悪い──わかってはいても、菜穂の意識はつい彼女たちへと向いてしまう。
だって、あまりにも先日の自分と状況が似ているではないか。
「それで? そのあとは?」
期待に満ちた声でうながされて、女性は「うーん」と恥ずかしそうに口を開いた。
「いちおう、駅まで一緒に帰った……かな」
「手は?」
「つないだ……けど」
「やっぱ、ラブじゃん!」
「わかんないよぉ、あっちは酔ってたし」
改めて、先日の自分たちを思い起こしてみる。
キスをされたのはおでこ。でも、そのあと、緒形は早足でその場を去ってしまったため、手をつなぐようなことはしていない。素面だったのも断言できる。
(あとは……お詫びのメッセージが届いてたっけ)
菜穂は、メッセージアプリをスクロールして、緒形のアイコンをタップした。
──「昨日はあんなことしてごめん」
日付は、ふたりで牛丼を食べた日の翌日。当然「あんなこと」に該当する行為はひとつしかない。
(これって、つまり「なかったことにしたい」ってことなのかな)
そうでなければ、お詫びのメッセージをよこしたりはしないだろう。
問い詰めたい気持ちはあったし、実際そのような返信も何度か入力しかけたが、結局菜穂が送信したのは「OK」のスタンプのみ。
それに対して、緒形からは「ごめん」「ありがとう」のスタンプが届いて、この件のやりとりは終了した。
以降、社内で緒形と会ったときはふつうに会話をかわしているが、菜穂のなかに釈然としないものが残っているのは否めない。
(やっぱり、ちゃんと訊いておくべきだったのかな)
ぐるぐる考えこんでいるうちに順番がまわってきて、菜穂は必要な分だけ現金を引き落とした。
昼食はすでに済ませているので、あとは会社に戻るだけだ。ビル風の冷たさも相まって、足取りは自然と速くなる。
その勢いでエレベーターに乗ったせいだろうか。下りるときもつい早足になってしまい、通りがかった人とぶつかってしまった。
「すみません」
「いえ──あ」
相手の声とほぼ同時に、菜穂もまた心のなかで「あっ」と声をあげていた。
ぶつかった相手は、校正作業を担当している浜島だった。
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