7・電話
仕事終わりの会社員で賑わう駅前を、緒形は早足に通り抜けていく。
顔に当たる風が、やけに冷たい。周辺にビルが多いせい──などという理由だけではとうてい説明がつきそうにない。
(デコチューとか、中学生かよ)
思い返せば思い返すほど、いたたまれなさに頭を抱えたくなってくる。
たしかに、今日の自分は若干テンションがおかしかった。けれど、それは午後以降の感情の起伏が、あまりにも激しすぎたせいだ。
まず、制作部のマネージャーから、今回の件で菜穂に迷惑をかけていたことを知らされ、胃が縮むような思いをした。
そこで、終業時間をみはからって彼女にメッセージを送ったわけだが、すぐに既読がつきながらもなかなか返信がこなかったことに、今度はどうしようもないほどハラハラした。
その後、返信が届き、無事に書店で落ち合えたときは、軽い高揚感を味わった。なにせ「三辺は小説コーナーにいるはず」との推察が当たったのだ。ただそれだけといえばそれだけなのだが、内心得意に思ったことは否めない。
牛丼屋に行くことになったときは、正直面食らった。ふだんの菜穂からは想像がつかない選択だったし、緒形としても、まさかの本日2食目の牛丼だ。
けれど、菜穂が物珍しそうに店内を見まわしたり、美味しそうに牛丼を頬張る姿を眺めているのは楽しかった。なにより、彼女の口から牛丼屋を選んだ理由を聞くことができて嬉しかった。
楽しい時間だった。これが他の女性なら「もう少し、お茶でも飲まない?」と声をかけていたに違いない。
けれど、相手は三辺菜穂だ。緒形にとっては、どうにも距離感を図りにくい女性だ。
そのせいで、うだうだしていた矢先、たまたま風が吹きつけて、彼女のおでこがさらされたのだ。
普段、前髪に隠されている「そこ」があらわになったとたん、言葉にしがたい想いがふくらんだ。
その結果が、あの10代の少年のような、つたないキスだったというわけだ。
(でも、だからって……デコチューはないだろ)
あまりにも中途半端すぎて、自分が彼女なら「いったいどういうつもりなのか」と間違いなく判断に困っただろう。
とはいえ、それ以上のことをしたら、間違いなくセクシャルハラスメントだ。
(いや、デコチューの時点でセクハラか?)
緒形は、足を止めた。
冷静に考えてみれば、後日訴えられても仕方のない行為だ。そもそも、普段の自分なら、デート以外ではあんなことは絶対にしない。
(やばい……まずは謝るべきだよな)
さらなるいたたまれなさを抱えながら、緒形はポケットからスマートフォンを取り出した。
と、スマートフォンがブルブルと振動しはじめた。
(非通知……誰だ?)
怪訝に思いつつも、通話アイコンをタップする。できれば非通知の電話には出たくないのだが、仕事関係者からだった場合、せっかくの営業チャンスを逃す可能性がある。
「はい、緒形ですが」
はっきりと名乗ったつもりだったが、相手からの反応はない。
もしかして、聞こえなかったのだろうか。
「もしもし? どちらさまですか?」
『へぇ、本当につながった』
そのとたん、緒形の全身に鳥肌がたった。
それは、二度と聞きたくなかったはずの声だ。記憶に固くふたをし、存在すら「なかったもの」にしていたはずのその声を、なぜ今、自分は聞いているのか。
動揺する緒形とは対照的に、相手はひどく朗らかに話しかけてくる。
『久しぶり、雪野』
緒形は、持っていたスマートフォンを地面に叩きつけないよう、震えるほど強く握りしめた。
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