6・別れ際
店を出たとたん、冷たいビル風が吹きつけてきた。
思わず首をすくめた菜穂の隣で、緒形も「ひゃっ」と同じように首をすくめている。
目が合い、どちらからともなく笑ってしまった。
「今、俺、へんな声でてたよな」
「うん……でも、気持ちはわかるよ。私も『ひゃっ』って思ったし」
並んで歩く足取りは、ひとりのときよりもずいぶんゆっくりだ。それでも、駅にはあっという間に着いてしまう。
「今日はいろいろありがとう」
「いや、こちらこそ」
楽しかったし、と付け加えた緒形に、菜穂は心のなかで「私も」と同意する。
「じゃあ、また会社で」
「うん、また」
別れの挨拶をかわしたものの、どういうわけか緒形が動きだす気配はない。どうしたんだろう、と首を傾げていると、緒形が「あの」とポケットに手を入れた。
「三辺、帰らないの?」
「……えっ」
「もしかして……どこか寄りたいところがある、とか?」
そう問われたことで、ようやく菜穂は、自分もまた帰ろうとしていなかったことに気がついた。
いや、むしろ自分が動き出さなかったからこそ、緒形も気を遣って帰れなかったのかもしれない。そうだとしたら、申し訳ないことをしてしまった。
「ごめん、大丈夫……もう帰るから!」
「えっ、あ、いや……」
「それじゃ、また!」
勢いよく頭をさげると、すぐさま地下鉄の階段を降りようとする。
「待って、三辺!」
なぜか、緒形が慌てたように呼び止めてきた。
「三辺、あの……」
「なに?」
「いや、その……」
はっきりしないその態度は、なんだかいつもの緒形らしくない。
もしかして、なにか言いにくいことでも言うつもりなのか――菜穂が思わず身構えたところで、再び冷たいビル風が吹きつけてきた。
前髪がふわりとあがり、今度は菜穂が「ん……っ」と声を洩らした。
「……やば」
「えっ?」
「あ、いや……今の風、ヤバかったと思って」
「そうだね、かなり強かったよね。おかげで前髪ぐちゃぐちゃだよ」
苦笑しながら、菜穂は乱れた前髪をととのえようとした。
それができなかったのは、緒形の右手にさえぎられたからだ。
「ほんと、ひどいことになってる」
緒形の大きな手が、菜穂の前髪を撫でつける。そのことに驚いているうちに、緒形の顔が近づいてきた。
あ、と思う間すらなかった。
おでこにぶつかった、やわらかな感触――それがなんだったのかを理解するよりも早く、緒形は菜穂から距離をとった。
「じゃあ、また」
今度は緒形が早口でそう告げて、あっという間に立ち去ってしまった。
あとに残された菜穂は、ぽかんとその後ろ姿を見送るばかりだ。
(え……今、キスされた?)
それとも、自分の勘違いだろうか。
ぼんやりと反芻しながら、おでこに手を当てる。
そこには、濡れた感触が残っていた。菜穂は、じわじわと頬が熱くなるのを感じていた。
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