5・冒険の結果(その2)
緒形は、手にしていた丼と箸を置いた。「それで?」と先をうながす声は、先ほどとは少しトーンが違っていて、菜穂は勇気づけられたような気がした。
「ずっとやってみたくて、でもひとりでお店に入る勇気がなくて……だから、今日緒形くんを誘ったの。いきなりひとりは無理でも、ふたりなら大丈夫かもって」
「……うん」
「それで、今日『ひとりでも大丈夫そう』ってわかったから、だから……」
「次はひとりで来てみよう、って?」
やわらかく問われて、菜穂は小さくうなずいた。
「緒形くんのことを必要としてない、とか『もう一緒に来る気はない』とか、そういうわけじゃないの。ただ、牛丼屋さんにくるのは、これからはもうひとりでも大丈夫だから」
「わかった、理解した」
緒形は、再び丼に手をのばすと「そっか」と独り言のように呟いた。
「つまり、俺は三辺の冒険のパートナーだったってことなんだよな」
それはそれで光栄だな、と彼はおどけたように笑う。
菜穂は、思わず目をみはった。
たしかに、緒形の指摘どおり、今日のこれは菜穂にとっては「冒険」だ。
ただ、その単語を口にした覚えはない。たかだか牛丼屋に入るだけで「冒険」だなんて──そんな思いが、心のどこかにあったからだ。
事実、店内を見まわしてみれば、ひとりで牛丼を頬張っている女性客はそれなりにいる。つまり「この程度のこと」は、深窓のご令嬢でもない限り、大したことではないはずなのだ。
だから「冒険」という言葉は、菜穂の心のなかだけにとどめておいた。
それなのに、どういうわけか緒形には伝わっていた。そのことが、嬉しくも、どこか気恥ずかしい。
「笑ってもいいよ」
「……うん?」
「こんなので『冒険』とか、大げさだなぁって自分でも思うし」
皆が難なくできることが、怖がりの自分にはうまくできない。いつも、その手前で足踏みしてしまう。
(だから、ずっと処女のままなのかな)
いくら緒形とのことがあったとはいえ、これまでにそれを乗り越えるきっかけなどいくらでもあったはずなのに。
半ば自虐的に、そんなことを思いはじめたときだった。
「別に、大げさではなくない?」
「……え?」
「冒険の基準なんて、人それぞれだろ」
緒形は事もなげにそう言うと、丼のなかの最後の一口をすくいとった。
「例えばだけど、三辺はおしゃれなカフェにひとりで入れる? 内装がSNS映えしそうで、コーヒーもケーキもそこそこうまくて、いかにも女性誌に取り上げられそうな店」
「それは……お店にもよるけど、たいていのところなら」
菜穂の脳裏に、休日になるとよく足を運ぶ近所のカフェが思い浮かぶ。
緒形は「だよな」と軽く唇をとがらせた。
「でも、俺はそういう店にはひとりで入れない。『男ひとりでカフェなんて恥ずかしい』って気持ちがどうしても拭えない」
「そうなの? 最近は、ひとりの男性客もよく見かけるけど……」
「それはわかってるし、そういうやつに対して俺がどうこう思うこともない。けど、俺自身はダメ。興味があるくせに、店の前まで来ると『やっぱりひとりで入るのはちょっと』って躊躇しちまう」
まあ、デートで行くのがギリギリってとこ、と緒形は軽い調子で付け加える。
菜穂は、困惑した。デート云々も若干引っかかりはしたが、それ以上にカフェの手前で尻込みする緒形が想像できなかった。
「じゃあ、その……先日のデートのとき、カフェに連れて行ってくれたときも、本当は嫌だった?」
「いや、あの店は営業マン御用達だから。実際、土曜日でも営業してるやつらがいただろ?」
そうだっただろうか。記憶を掘り起こしてみようとしたが、まったく覚えていない。
「とにかくさ」
緒形は、ほぼ空に近かったグラスに水を注いだ。
「今の世の中、みんな『多様性が大事』って声高に言うし、俺自身、そのほうがいいよなぁとは思ってるけど。それでも、誰のなかにでもハードルみたいなものはあって、それを乗りこえるのはたぶん容易じゃない。そのことをわかってたら、他人様のハードルを笑うなんて、ふつうはできないだろ」
いつになく真摯に響いた彼の言葉を、菜穂は心のなかで反芻した。
(そっか……私にとっての「牛丼屋」が、緒形くんにとっては「おしゃれなカフェ」なんだ)
そう考えたら、少しだけ気持ちが軽くなった。
自分だけではない――もしかしたら、斜め前の席で牛肉をつまみながらスマートフォンを眺めている女性も、席に着くなり早口で注文を済ませた大学生も、牛丼屋にこそ難なく入れても、他のことでは足踏みをしていたりするのかもしれない。
それこそ、菜穂と同じように。
「ありがとう」
自然とこぼれた言葉に、緒形は「何が?」と不思議そうに首を傾げる。
菜穂は、少し考えてから、こう答えた。
「私の冒険に、付き合ってくれて」
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