4・冒険の結果(その1)

 一口目の印象は「牛肉が薄い」だった。自分で牛丼を作ることは滅多にないが、もし作るなら、もう少し噛みごたえがありそうな厚めの肉を使うだろう。

 ただ、提供価格を考えると、この薄さも概ね納得できた。


(牛丼、いいお値段だもんね)


 つゆの味は、思ったよりも濃くない。それに甘みも少なめで、わりと菜穂の好みに近いかもしれない。

 玉ねぎもほんのりと甘く、歯ごたえが残っている感じが好印象だ。


(もう少しお肉多めでも良かったかも……たしか、そんなふうに頼めたよね)


 奥歯で噛み締めた脂身から、程よい旨味がじゅわっと滲み出た


(あ、しつこくない)


 脂身があまり得意ではない菜穂だったが、この肉の薄さなら問題ない。むしろ、美味しく食べられる。


「たまごはいいの?」

「あ、そうだね」


 慌てて小鉢を傾けた菜穂を見て、緒形はたまりかねたように吹き出した。きっと「鈍くさい」とでも思っているのだろう。


(初めてなのに……)


 なにもかも慣れていないのだから、少しくらい大目に見てほしい。

 菜穂が、ひっそりボヤいたのとほぼ同じタイミングで、緒形が「どう? はじめてのお味は」と訊ねてきた。


「ん……美味しいと思う」

「ほんとに?」

「本当だよ。脂身、まあまあ入ってるけど、しつこくなくて食べやすいね」

「そっか……そういうの、あまり気にしたことなかったな」

「男の人って、脂身とか好きそうだもんね」

「それは偏見だろ。……まあ、俺は好きだけど」


 緒形は、ようやく生玉子を掻き混ぜる手を止めた。


「ずいぶん混ぜるんだね」

「ああ、俺、どろっとした白身が許せないから」

「私と逆だ。私はそこが好きなんだよね」


 玉子かけごはんでも、すき焼きに生玉子をからめるときでも、かき混ぜるのはほどほどにして白身のかたまりを残したほうが美味しい――菜穂は常々そう思っているのだが、同意してくれる人にはあまり出会えたことがない。

 案の定、緒形は「ああ」と渋い顔つきになった。


「三辺、うちの母親と同じタイプだ」

「そうなの?」

「アレだろ、白身の喉越しを楽しむタイプ」

「あ……そうかも。あのごくんってなるときの感触、好きなんだよね」


 菜穂の言葉に、緒形は微妙な顔をしつつも「なるほどね」と呟いた。ちなみに、彼の小鉢のなかの玉子はすっかり混ざりあって、もはや黄色い液体のようだ。


「それを、牛丼と混ぜるの?」

「そう……って言っても、肉を半分ほど食ってからだけど」

「え、ごはんは?」

「肉が残り半分になるまで食べない。そうすると、まずは肉そのものを楽しめて、そのあと『豪華な玉子かけご飯』って感じにできるだろ?」

「……たしかに」


 菜穂は、思わずうなってしまった。

 正直なところ、牛丼屋に入って無事に注文を終えた時点で、自分の冒険は終わりだと思っていた。提供された牛丼をどのように食べるのかなど、まったく考えていなかったのだ。


「次は、私もそうやって食べてみようかな」

「お、宗旨替え?」

「そうじゃないけど、一度くらい試してみてもいいかなって」


 緒形は「そっか」と呟くと、牛肉を勢いよくすくいとった。


「じゃあ、いつにする? 次の牛丼デー」

「えっ」

「来週なら、比較的時間あるけど」


 菜穂は、手を止め、まじまじと緒形を見つめた。

 まず思ったのは「空耳だろうか」ということだ。それくらい緒形の口調はさり気なく、なんなら「明日、雨だってさ」と言われたほうがまだしっくりきたかもしれない。

 その次に脳裏をよぎったのは「お詫びのつづきだろうか」ということ。それならば、はっきりと断るべきだ。お礼もお詫びも、目の前の牛丼で十分足りている。

 けれど、本当はそのどちらでもないだろうということを、菜穂は薄々わかっていた。

 だからこそ、その可能性を認めるのは勇気がいった。もしも、この「3つめの可能性」が自分の勘違いだったとしたら、恥ずかしさといたたまれなさで立ち直れなくなってしまう。


(実際、今日のこのお誘いだって、ただの「お詫び」だったわけだし)


 菜穂は、うつむいた。身構えれば身構えるほど、正しい「返答」がわからなくなる。

 なんなら、緒形のことを少し恨めしく思ったりもした。そんな雑談のついでのような誘い方ではなく、どういう意図があるのかもっとはっきり示してくれたらいいのに。

 すると、隣からくすりと小さな笑い声が届いた。


「あーやっぱりダメな感じ?」


 菜穂は、弾かれたように顔をあげた。


「牛丼ならいけるかなーって思ったんだけど。三辺、けっこう気に入ったみたいだし」

「気に入ったよ、気に入ったけど……次はひとりで来るつもりだったから」


 取り繕うことも忘れて正直に伝えると、緒形は「ひとりかぁ」と苦笑した。


「戦力外通告するの、早すぎない?」

「えっ」

「そっかぁ、俺はもうお払い箱かぁ」


 やや芝居がかった仕草で肩を落とす緒形に、菜穂はさらに慌てて「違うよ」と否定した。


「お払い箱とか、そういうわけじゃなくて……」

「うそうそ、わかってる。冗談だから、適当に聞き流して」


 今度は、屈託のない笑顔が返ってきた。本当に、緒形としては冗談のつもりだったらしい。

 ああ、そうか。今、この場で、自分は「そうそう、緒形くんはもうお払い箱だよ」と軽く返せばよかったのか。そうすれば、この話題はなんということはなく終わっていたはずだったのに。

 菜穂は、目の前の丼に視線を落とした。こんなとき、自分の鈍さがつくづく嫌になる。


「……三辺?」


 菜穂が再び黙り込んでしまったせいだろう、緒形が気遣わしげに声をかけてきた。


「あの……なんかごめんな。今の、本当に冗談のつもりだったから」

「わかってる。こっちこそごめん、うまく返せなくて」

「いや、そんなのぜんぜんいいんだけどさ。三辺だし」


 最後の一言が、菜穂の心に刺さった。緒形から、やわらかく線を引かれたように感じた。

 もちろん、ただの考えすぎかもしれない。いや──おそらく、そうなのだろう。

 それでも菜穂は唇を引き結んだ。自分でもうまく説明できそうになかったが、とにかくこのままこれで終わりにはしたくはなかった。


「あのね、牛丼のことだけど」


 迷った末、菜穂は思いきって口を開いた。


「もともと、ひとりで来てみたかったの。ひとりでお店に入って、さっと食べて、さっと帰って……そういうの、やってみたかったの」

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