3・自分なりの冒険
自動ドアが開くなり、カウンターのなかにいた女性店員が「いらっしゃいませ」と笑顔を向けてくる。
緒形は、慣れた様子で店内を見まわすと「あそこでいい?」とカウンター席の中程を指さした。
「私は、どこでも」
返答が妙にたどたどしかったせいか、緒形がぷっと吹き出した。
「もしかして緊張してる?」
「して──ません」
「敬語だし」
遠慮のないその指摘に、菜穂はぷいっと視線を逸らした。
(そりゃ、緒形くんは牛丼屋くらい余裕かもしれないけど)
菜穂にとって、これは「冒険」だ。何年もずっと気になっていて、ようやく今、入店できたのだ。
ドキドキしながら席に着くと、緒形から「はい」とメニュー表を渡された。
「緒形くんは見ないの?」
「ここのメニュー、だいたい頭に入ってるから」
「そっか。慣れてるんだね」
やはり、緒形を含めた世間の人たちは、この程度のことなど当たり前のように経験しているのだろう。少し沈みかけた気分をなんとかとりなおして、菜穂はメニュー表に目を向けてみた。
「へぇ……牛丼以外のメニューもあるんだね」
「いちおうな。でも、いちばんうまいのはやっぱり牛丼」
「だったら、牛丼にしてみようかな」
軽くそう口にしたあとで、はたと手が止まる。
ひとくちに「牛丼」といっても、ずいぶん種類があるようだ。キムチ、ネギ、とろろ──そのなかでも菜穂の目を引いたのは、牛丼とミックスチーズを組み合わせたものだ。
(これって美味しいの?)
キムチやネギ、とろろは、わからなくはない。だが、チーズはさすがに冒険がすぎるのではないだろうか。
(でも、メニューにあるってことは、それなりに人気だったりする?)
だったらいっそ頼んでみるべきか……でも、さすがにチーズは……
メニュー表を前に葛藤していた菜穂だったが、ふと視線を感じて、顔をあげた。
なぜか、緒形が笑いをこらえるような顔つきでこっちを見ていた。
「……え、何?」
怪訝に思って訊ねると、緒形は「いや」と唇をほころばせた。
「三辺、すごい真剣な顔をしてるなあって」
「それは……だって、牛丼屋さんに来るの、初めてだし」
なんだかいたたまれなくなって、菜穂は再び視線を落とした。
やはり、自分は世間からずれているのだろうか。皆が当たり前のように行っていることを、いちいちこんなふうに足踏みしてしまうだなんて。
本当は、こうしたお店で涼しい顔をしていたい。注文するだけで、いちいちうろたえたくはない。それなのに──
菜穂がうなだれかけた、そのときだった。
「なあ、俺のおすすめ知りたくない?」
「……え」
「俺はさ、だいたいいつもこれ」
形よく調えられた人差し指の爪が、コツコツとメニュー表を叩く。
「これって……ふつうの牛丼?」
「そう。ただし、サイズは大盛り。で、いつも生玉子をトッピングしてる」
トッピング──と視線を動かすと、たしかに「サイドメニュー」としていろいろなものが用意されている。生玉子以外にも、温泉玉子やサラダ、お新香、味噌汁、意外なところでは焼き鮭なども頼めるようだ。
「他のトッピングはしないの?」
「しない。俺、あまり冒険しない主義だから」
「えっ、そうだっけ?」
「そうなんですよ、こう見えて意外と」
でもさ、と緒形は続けた。
「食べ物なんてさ、ふつうのやつが一番うまいだろ」
わかる、と菜穂は強く思った。それでようやく心が決まった。
「じゃあ、私もふつうの牛丼で」
「大盛り?」
「それはさすがに……並で十分だよ」
「トッピングは?」
「──生玉子、頼んでみようかな」
注文して数分、ふたり分の牛丼は驚くような早さで運ばれてきた。なるほど、これなら昼食時にサラリーマンで賑わうのもうなずける。
緒形は、小鉢に入った生玉子を丁寧に混ぜはじめた。
「混ぜたほうがいいの?」
「あーそのへんは人それぞれかな。このまま丼にいれるヤツもいるし、卵黄しかいれないヤツもいる。玉子かけご飯にも流派があるだろ。それと同じ」
それなら、と菜穂も軽く箸で掻き混ぜてみた。どろりとした卵白が軽く泡立ち、崩れた黄身と混ざり合う。
「これを、牛丼にかければいいんだよね?」
「ああ。でも、その前に牛丼だけで食べてみれば?」
たしかに、まずはそのままの味を楽しむべきかもしれない。
菜穂は、生玉子の入った小鉢を置くと、丼のなかの牛丼をすくってみた。
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