2・週末

「いやぁ、今週も無事に終わったねぇ」


 自席で大きく伸びをする千鶴の隣で、菜穂も「そうだね」と苦笑する。


「一時はどうなるかと思ったけど、なんとか全部FIXできたし」


 C社の小高からの原稿は納期には間に合ったものの、A社の永野の代わりを探すのは最後まで骨が折れた。頼みにしていたフリーライターには結局断られてしまったため、再度他の制作会社に頼み込むことになったせいだ。


「ほんと、菜穂は災難だったよね。まさか隣チームのトラブルのとばっちりをくらうなんて。こっちは無関係なんだから、巻き込まないでほしいよ」

「大丈夫、次からはこういうことがないようにするって小山さんも約束してくれたし」


 雑談しているうちに勤務時間が終わり、ふたりは打刻してパソコンの電源を落とした。

 定時ちょうどに退社できるのは、果たして何日ぶりだろう。少なくとも今週は初めてだな、と菜穂は口元をほころばせる。


(せっかくだし、寄り道して帰ろうかな)


 カフェでのんびり読書をしてもいいし、本屋で新刊をチェックするのも楽しそうだ。

 あるいは、近くの商業ビルを覗いてみるのはどうだろう。今シーズンは、コートを新調する予定だ。良さそうなものがあったら、今から値段等をチェックしておきたい。

 そんなことを考えていた矢先、たまたま手に取ったスマートフォンがブルッと振動した。

 どうやらメッセージアプリにメッセージが届いたようだ。誰からだろう、とアプリをタップした菜穂は、表示された内容に思わず「えっ」と声をあげてしまった。


「どうしたの?」

「えっ、あ……ううん、なんでもない!」


 何食わぬ顔でスマートフォンを鞄にしまい込んだものの、心はやけにざわついている。


 ──「今晩、時間ある?」


 突然の、緒形からのメッセージ。

 見間違いじゃないよね、とソワソワしながら千鶴とともに会社をあとにし、地下鉄の入り口で別れたところで、再びスマートフォンを取りだした。


 ──「今晩、時間ある?」


 やっぱり、間違いではなかったらしい。

 では、このメッセージへのリプライは?

 正直に答えるなら「時間はある」だ。ただ、緒形からこうしたメッセージをもらう理由が思い当たらない。


(もしかして、デートの誘い──とか?)


 考えたそばから「5日前に交際を解消したのに?」と、冷静なもうひとりの自分が疑問を投げかけてくる。

 さんざん悩んだ末に、菜穂はスタンプをひとつ送ってみることにした。人気のキャラクターが「うん」とうなずいているものだ。

 既読は、すぐについた。返信も驚くほど早く届いた。


 ──「今どこ? 社内?」


 周囲を見まわすと、ビルの1階にある書店が目に入った。奇しくも、今日の帰りに寄ろうと考えていた店だ。

 その書店の店名を打ち込むと、今度は「了解」のスタンプが送られてきた。


 ──「待ってて」

 ──「30分以内に行けるはず」


 菜穂はしばらくそのメッセージを眺めたあと、待ち合わせ場所となった書店へ移動した。

 会社員の利用が多いせいか、店頭にはビジネス書の新刊がずらりと平積みになっている。その次に目につくのは、20代〜30代向け女性誌の最新号──菜穂のような仕事帰りの女性をターゲットにしたものだ。

 けれど、菜穂のお目当てはもっと奥にある文庫本の棚だ。ぽつぽつとしか人がいないそこには、刊行されたばかりの小説が出版社ごとに積まれている。

 早速、気になった本を手に取り裏表紙を確認した。そこにはたいていあらすじが書いてあり、購入するかどうかの大きな決め手になる。

 それなのに、今日はその内容がまるで頭に入ってこない。文面を追おうとしても目がすべるばかりで、いわゆる「気もそぞろ」な状態だ。

 それもそのはず、菜穂の意識は今、明らかに書店の入り口に向けられている。自動ドアの開閉音が聞こえるたびに、ついそちらに気を取られてしまうのだ。


(なにをやってるんだろう、私)


 そんなに気になるなら、いっそ入り口で待てばいいのではないか。そう思いはじめた矢先、鞄のなかのスマートフォンがブルブルと音をたてた。

 案の定、メッセージを送ってきたのは緒形だった。


 ──「今、会社を出た。10分くらいで着く」


 だったら、と移動しかけて、菜穂はふと足を止めた。

 入り口で待つだなんて、いかにも「待ってました」と言わんばかりではないだろうか。

 そんなの恥ずかしい。いたたまれない。けれど、こんな奥まった場所で待たれても、緒形が苦労するのは目に見えている。


(でも……)


 さんざん迷ったものの、結局は気恥ずかしさが勝った。もし、緒形が菜穂を見つけられなかったとしても「どのあたりにいる?」などのメッセージが送ってくれば済む話だ。


(やっぱり、ここで待とう)


 菜穂は、別の文庫本を手に取った。ほんの150文字ほどのあらすじを繰り返し読んでいるうちに、どこか慌ただしい足音が近づいてきた。


「──いた、絶対ここだと思った」


 得意げな声とともに、緒形は菜穂の隣に並んだ。


「ごめん、待たせて。──それ買うの?」

「あ、うん……」

「じゃあ、貸して」


 緒形は、当たり前のように、菜穂の手から文庫本をとりあげた。


「えっ、あの……」

「他に欲しいのは? あと1冊くらいならプレゼントするけど」


 思いがけない申し出に、菜穂はギョッとして頭を振った。


「いいよ、自分で買うよ」

「まあまあ」

「『まあまあ』じゃなくて──そんなことしてもらう理由もないし」

「理由ならあるけど」


 緒形は、背中を屈めて菜穂の顔を覗き込んできた。


「今週、三辺が残業してたの、俺のせいだよな?」


 真摯な眼差しでそう問われて、菜穂は言葉を詰まらせた。

 たしかに、緒形が担当することになったクライアントのトラブルに巻き込まれたのは事実だ。けれど、それを「緒形のせい」というのはどうなのだろう。


「違うよ」


 だから、これは菜穂の本心だ。


「緒形くんのせいじゃない。たぶん──誰のせいでもないと思う」

「……そっか」


 緒形の唇に、苦い笑みが浮かんだ。


「そういうとこ、三辺らしいよな」

「──そういうところって?」

「自分の基準を、絶対に曲げないところ」


 はい、と菜穂に文庫本を返すと、緒形はやわらかく目を細めた。


「じゃあ、それはプレゼントしない。でも、飯くらいはおごらせて。他の制作部の人たちにも、お詫びのケーキを差し入れしているし」

「でも……」

「それとも、三辺もカップケーキをもらうほうが良かった? だったら週明けに買ってくるけど」


 菜穂は、返答に迷った。最初は「どちらもいらない」と答えるつもりでいた。緒形からお詫びをされる理由がない以上、断るのが筋だと思ったのだ。

 けれど、そう口にしかけたとき、手にしていた文庫本の帯が目に入った。「新たな冒険を、君に」──ファンタジー小説らしいそのキャッチコピーが、菜穂の心をふと揺さぶった。


「あの……じゃあ、付き合ってほしいところがあるんだけど」


 恐る恐る申し出ると、緒形はパッと目を輝かせた。


「いいよ、どこ?」

「その……大したところじゃないんだけど」

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