9・チョコよりもずっと

「三辺も残業? めずらしいな、クライアントが暴れているとか?」


 軽口のようでいて、緒形の声には明らかに疲れがにじみでている。例の大手クライアントのことで、各方面に頭を下げ続けているのだろう。


「ううん、こっちは制作会社からの原稿待ち」

「えっ、もう20時過ぎてるけど」

「もともと、うちの依頼が遅くなった案件だから」


 菜穂の説明に、緒形は「なるほど」とうなずいた。


「じゃあ、その原稿があがってきたら帰れるんだ?」

「うん、まあ……」

「ってことは、お互い『待ち』か。ただ待つのって、キツいよなぁ」


 緒形の唇に、苦い笑みが浮かんだ。


「手伝えることがあるなら、いくらでも手伝いたいんだけどさ。俺、制作関連のことはぜんぜんわかんないし」

「そこは割り切るしかないよ。お互い、できることが違うんだから」

「まぁな」

「それに、緒形くんは十分がんばってるよ」


 自分の担当ではない案件だったにも関わらず、各方面に頭を下げ、進捗管理者と話し合ってスケジュールを調整し、業務時間外でもこうして待機しているのだ。


「それだけで十分だと思うけど」

「……そうかな」

「そうだよ、ほんと頑張ってるよ」


 お世辞ではない──本気でそう思っているからこそ、つい声に力が入ってしまう。

 緒形は、くすぐったそうな顔つきで「そっか」と缶コーヒーのプルトップを開けた。


「まあ、でも、それが仕事だし。営業は原稿を作ったりはできないから、せめてクライアントに頭くらいは下げないとなぁ」


 当たり前のようにそう口にした彼を、菜穂はまじまじと見つめてしまった。


「……え、俺、なんかへんなこと言った?」

「う、ううん」


 すぐに首を横に振って、手のなかのペットボトルをギュッと包み込む。

 異動してきてまだ数週間の緒形が、急きょ手のかかるクライアントを任された理由が少しだけわかったような気がした。

 おそらく彼は、クライアントとだけでなく、制作部署ともうまくやっていける営業マンだ。

 営業部の社員のなかには「会社に利益をもたらしているのは、自分たち営業だ」と豪語し、制作部や他の部署を見下している人たちが少なからずいる。彼ら・彼女らは、原稿依頼の期日を平気で破っておきながら「制作部に仕事があるのは、自分たちが仕事を取ってきてやったおかげ」という態度を崩さない。

 けれど、緒形はクライアントだけでなく、各方面に頭を下げてくれる。だからこそ、今回のような制作部との調整が必須な案件を任されたのだろう。


(高校時代は、あまりそういう印象がなかったのに)


 クラスの、いわゆるヒエラルキーの上位にいて、同じような人たち以外とは会話をしない印象があった。

 だからこそ、そこには属さない菜穂との交際に皆ずいぶん驚いていたし、自然消滅したあとは当たり前のように言葉をかわす機会がなくなった。お互い、なんとなく避けていただけでなく、そもそもの接点が少ないふたりだったのだ。


(でも、今の緒形くんならそんなことはないのかも)


 社内には、緒形のような正社員だけでなく、契約社員やアルバイト、菜穂のような派遣社員など様々な雇用形態の人たちがいる。

 なかには「正社員としか会話をしない」「アルバイトや派遣社員の名前は覚えない」という人たちもいるが、緒形は誰とでも気さくに接すると評判だ。


(その上で、仕事もできて、外見もととのっていて……)


 それなら、女性に好かれるのも当然だ。高校時代の彼も女子からの人気が高かったが、今はもっと幅広い層から好かれているのだろう。


「あ、やば……ぜんぶ飲み切っちゃった」


 緒形は、気まずそうに空っぽの缶を振ってみせた。


「これ、部署に戻ってから飲むつもりだったのに」

「そうなの?」

「そうなの。でも、ここでぜんぶ開けちゃった」


 三辺のせいだな、と付け足されて、菜穂は「えっ」と声をあげた。


「私、なにかした?」

「いーや、なんにも」


 だったら、なぜ菜穂のせいになるのか。

 首を傾げる彼女に、緒形はいたずらっぽく目を細めた。


「三辺とおしゃべりしたくて、ここで開けちゃった。もう1本、買いなおさないと」


 口説き文句のようなその言葉に、菜穂の心臓は派手な音をたてる。

 こんなの、営業マンにありがちなただのリップサービスだ──頭ではそうわかっているのに、高鳴る鼓動はおさまりそうにない。


「そういう発言、人を選んだほうがいいよ」


 ようやく口にしたそれは、元同級生としての忠告であり、ちょっとした恨み言でもあった。

 それなのに、当の緒形は軽く肩をすくめただけだ。


「大丈夫、ちゃんと選んでるから」


 またもや、心臓が派手に跳ねた。

 動揺する菜穂に気づいているのかいないのか、緒形は「じゃ、おつかれ」と、買い直した缶コーヒーを手に戻っていった。

 ひとり残された菜穂は、ただただうつむくしかない。


(今のも、冗談──だよね?)


 頭ではそう思っているのに、口のなかがやけに甘い。それこそ、千鶴からもらったチョコレートよりもずっと。

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