8・飛び火

 突然のマネージャーからの指示に、菜穂はもう一度「えっ?」と聞き返してしまった。


「すみません、それはどういう……」

「ちょっとね……今、難しい案件があって。その原稿、絶対落とすわけにはいかないから、確実に高いクオリティで仕上げてくれる永野さんにお願いしたくて」


 その難しい案件とやらが、どのクライアントのものなのかは想像がつく。

 けれど、このタイミングで永野に原稿を依頼できないのは、菜穂も困る。他の制作会社にお願いするにしても、今日の夕方にいきなり依頼をして「明日までに初稿、その翌日には決定稿を」というのは、かなり厳しいはずだ。

 それでも、小山は退くつもりはないらしい。


「永野さんには私から事情を説明するから。三辺さんは、今から引き受けてくれる別の制作会社を探して」

「わかり……ました」


 ぼんやりとした返答になったものの、頭のなかは完全にパニック状態だ。まさか、大手クライアントとのトラブルの飛び火が、別チームの自分にくるとは思ってもみなかった。


「菜穂、大丈夫?」


 千鶴が気遣わしげに訊ねてくる。

 菜穂はなんとか頷きかえすと、ひとまず頭をフル回転させた。


「ごめん千鶴、ちょっとだけ協力して。今、どの制作会社が動いてるのか確認したい」

「了解。ええと、私の担当分は……A社とC社に頼んでたぶんはぜんぶ終わってて、B社が今日中、F社も明日の午前中にはぜんぶ終わる予定で……」


 そうして依頼できそうな制作会社をなんとかピックアップしてみたものの、そこから先はさらに苦戦した。

 なにせ、たいていの制作会社は、他社との仕事も抱えている。「悪いけど、今週はもういっぱいかな」「そのスケジュールで仕上げるのはちょっと……」「制作料金をあげてくれるなら考えてもいいけど」――そんな断り文句が何度も繰り返され、菜穂の心は確実に削られていった。

 加えて、C社の小高からは相変わらず原稿があがってこない。夕方に電話をしたところ「催促がないからまだ大丈夫かと思っていた」と返ってきて、どうにも脱力してしまった。


「あの人、うちらが派遣社員だからって舐めてるよね」


 千鶴が、憤慨したように吐き捨てる。


「ていうか、C社がうちらを舐めてるんだよ。仕事ができる人、絶対うちみたいな中小チームにはまわしてくれないじゃん」

「それは……でも、制作会社としても、仕事ができない人に大手クライアントは任せられないから」


 そうはいっても、この状況はさすがに堪える。

 時間ばかりがどんどん過ぎていき、定時間際になっても永野の代打は決まらない。ひとりだけ「今、抱えている仕事が今日中に終わったら」と答えてくれたフリーライターがいたが、返答は20時以降とのことだ。


「菜穂も適当なところで帰りなよ。定時過ぎの連絡は、小山さんが引き受けるって言ってくれてるんでしょ」

「そうだけど、小高さんの原稿も待たないといけないから」


 それに、もし頼みにしていたフリーライターから「やっぱり無理です」と断られた場合、次の手を考える必要がある。

 おそらく「原稿料次第」と言ってくれた人たちに料金交渉を持ちかけることになるが、あいにく派遣社員である菜穂にその決定権はない。

 よって、まずは引き受けてくれそうな制作会社やフリーライターをリストアップし、マネージャーの小山に相談しなければいけなかった。


(そのリストの提出だけでも、今日中に済ませないと)


 ため息をつく菜穂を、千鶴も気の毒に思ったのだろう。引き出しから小分けされたチョコレートをいくつか取り出した。


「これでも食べて元気出しな」

「うん、ありがとう」


 そんなわけで、チョコレートをつまみながらひとり黙々と残業に勤しんでいるうちに、時刻は20時を経過した。小高からも、件のフリーライターからも、未だ連絡は届いていない。

 菜穂は、ふうと息をついた。さすがに、肩も眉間もひどくこりかたまっている。

 息抜きも兼ねてお茶でも飲もうと、社内の自動販売機コーナーへと向かった。ミルクティーの購入ボタンを押したところで「あれ?」と背後から声をかけられた。


「おつかれ、三辺も残業?」


 菜穂は、唇を引き結んだ。

 振り返るまでもなく、この声は緒形雪野のものに違いなかった。

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