7・トラブルの気配

 翌日、その日最初のメールチェックを終えた菜穂は、ずんと胃が重くなるのを感じていた。


(やっぱり……小高さんの原稿、あがってきていない)


 昨日の夕方の時点で、届いているはずの原稿だ。菜穂が二度目の催促の電話をいれたときは、さすがに気まずそうに「今晩中になんとかするから」と言っていたはずなのだが。


(電話……どうしよう)


 午前中いっぱいは待つとして、それでもあがってこなければ三度目の電話をかけなければいけない。

 胃のあたりを軽くさすりながら、菜穂は別のメールを開封した。営業アシスタントの女性からで、今日依頼予定の原稿の資料を13時までに送付するとのことだった。


(よかった、こっちは予定どおりに進みそう)


 この原稿を依頼するのは、A社の永野だ。彼女なら、問題なく納期どおりに仕上げてくれるだろう。

 少しだけ気分が軽くなった菜穂は、校正にまわす予定の原稿の束を抱えて制作部を出た。


(この時間だと、浜島さんひとりってことはないよね)


 校正担当の浜島とは、あれ以降も何事もなかったかのように接している。

 とはいえ、お互いの間にできた溝はどうにもならない。菜穂としても、裏での浜島の発言を聞いてしまった以上、彼を好意的に見ることは二度とないだろう。


(今となっては良かったのかも。緒形くんに邪魔してもらえて)


 あのときはひどく腹をたてたが、結果的に助けられたことだけは間違いない。

 いつかお礼を言おうかな……そう思った矢先だった。


「ほんと、すみません!」


 聞き覚えのある声に、菜穂は思わず足を止めた。

 その声は、少し先にある給湯室付近から聞こえてきた。謝っているのは緒形だとして、謝罪相手は誰なのだろう。

 気になった菜穂は、給湯室の前を通りすぎる際に、ちらりと視線を投げかけてみた。


(え、今の……)


 緒形が頭をさげていたのは、制作部マネージャーの小山だ。そういえば、昨日も彼女に用がありそうだったことを思い出す。


(クライアントとのトラブルかな)


 あるいは、クライアントから無茶な要求をされて、そのしわ寄せが制作部にきているのかもしれない。

 緒形の所属チームを担当していない菜穂に、そのあたりの事情はよくわからない。ただ、もし推測どおりだとしたら、制作部の担当者は今頃頭を抱えているだろう。


(私も、他人事じゃないよね)


 C社の小高からの原稿を思い出し、またもや気が滅入ってくる。

 そんな菜穂を神様も気の毒に思ったのか、校正室では浜島と顔を合わせることなく用件を済ませることができた。

 再び菜穂が緒形を見かけたのは、昼休みを終えてからのことだ。やはりマネージャーの小山と話し込んでおり、何かしらのトラブルが発生したことは、ほぼ確定だと言えた。


「やっぱり例の大手クライアントかな」


 隣の席の千鶴も、渋い顔つきでふたりを見ている。


「例のって?」

「昨日話した、隣チームの大手クライアント。担当の正山さんだけじゃ手に負えなくなっちゃって、緒形さんもフォロー要員に加わったんだけど、クライアントは相変わらず大暴れしてて、今月分の制作がまだ動いてないみたい」

「えっ、それってかなりまずいんじゃ……」


 原稿をFIXさせるまでの工程を考えると、遅くても今日から取り掛からなければ納期には間に合わない。それも、確実に質の高い原稿をあげてくれるライターやデザイナーが引き受けないと、大変なことになる。


「でも、だからって先方のご意見を無下にはできないよね。あのクライアント、見開きの他に表4の広告スペースも持ってるもん」

「……たしかに」

「ああいうの見てると、大手クライアントチームは大変だよね。うちら、中小で良かったよ」


 まあ、こっちはこっちで大変だけど、と締めくくって、千鶴は受話機に手を伸ばす。まだ原稿の最終確認が終わっていないクライアントに、催促の連絡をいれるのだろう。


(そうだ、私も電話しなくちゃ)


 結局、午後になってもC社の小高からの原稿はあがってきていなかった。昨日の嫌味を思い出し、鬱々となりながらも菜穂は連絡先を検索しようとした。

 そのときだった。


「三辺さん、ちょっといい?」


 マネージャーの小山が、小柄な体躯に似合わない大股で、菜穂のもとにやってきた。


「三辺さん、A社の永野さんの予定を抑えていたよね?」

「はい、これから原稿を依頼する予定です」

「申し訳ないんだけど、それ、別の制作会社にお願いして」

「……えっ!?」

「永野さんには、別の案件をお願いしたいから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る