6・慎重な性格のせいで
帰りの下り列車に揺られながら、菜穂は千鶴の指摘をぼんやりと思い返していた。
──「菜穂サンは慎重ですねー、ってこと」
それは千鶴に限らず、これまでいろいろな人たちに指摘されてきたことだ。
(「慎重」「保守的」「冒険しない」──なんて)
だからこそ、つい先日までの「緒形と交際して、何が何でも処女を捨てる」と思い込んでいた自分は、極めて異常事態にあったといえる。ふだんの菜穂ならば、そんな振り切った行動をとることはまずあり得ないからだ。
とはいえ、そうした自分の慎重さがこれまで何度も足かせになってきたことは、菜穂自身がいちばんよく知っていた。
(みんな、どうしてそんなに思いきりがいいんだろう)
誰かを好きになることは、怖い。すごく怖い。
裏切られたり、傷つけられたりするのはもちろんのこと、自分をさらけ出さなければいけないことにも、菜穂はいつも躊躇してしまう。
高校時代の緒形とうまくいかなくなったあと、まったく誰にも恋をしなかったわけではない。
ほのかに「いいな」と想う相手は何人かいた。なかには「好きかもしれない」「お付き合いしてみたい」と感じた相手もいた。
けれど、菜穂が心を決めるころには、相手は別のひととの交際をはじめてしまう。
あれは、社会人2年目のことだったか。当時の勤務先に、菜穂に積極的にアプローチをしてきた男性がいた。
彼とは何度もデートを繰り返し、悪い人ではなさそうだと判断するのに半年ほどかかった。「この人となら、楽しく付き合っていけるかもしれない」──ようやく心が決まり、そのことを伝えようとした矢先、彼から深々と頭を下げられた。
『ごめん、三辺さんとふたりきりで会うのはこれが最後ってことで!』
理由は「別の女性と授かり婚をすることになった」から。
菜穂としてはそれ自体もかなりショックだったが、それ以上に心をえぐられたのは、相手の男性が泣きながら訴えてきたその内容だ。
『俺が本当に好きなのは、三辺さんだから! ほんと、三辺さんだけが好きだから!』
つまり、自分が煮えきらない態度をとらなければ、彼は他の女性に目を向けなかったのか。「付き合ってほしい」と告げられたとき、すぐに応じていればよかったのか。
冷静になって考えてみれば、決してそんなことはない。彼が本当に菜穂を好きだというのなら、そもそも他の女性と関係をもつこと自体なかったはずだ。
頭ではそう理解していても、悔やむ気持ちを吹っ切るのに一年かかった。食べそびれたブドウは、いつだって甘く夢想してしまうものなのだ。
(慎重・保守的・冒険しない──)
そんな自分の性格を、いよいよ変えなければいけないのかもしれない。そうしなければ、いつまでたっても重たいこの荷物を下ろせないのかもしれない。
(これからは、もう少し冒険してみようかな)
ほのかに決意したところで、下車駅に到着した。
菜穂はいつもどおり定期券で改札を通過すると、やはりいつもどおり南口から駅の構外に出た。
すると、制服姿の若い女性からA4サイズのチラシを渡された。
「本日オープンでーす、よろしくおねがいしまーす」
印字されていたのは、有名な牛丼チェーンの主力商品だ。もちろん、菜穂も名前だけならよく知っている。
ただ、実際に店に入ったことはなかった。なんとなく気になってはいたが、今まで行く機会がなかったのだ。
(せっかくだし、入ってみようかな)
これも、ちょっとした冒険だ。
菜穂は小さくうなずくと、いつもの横断歩道を曲がらず左折した。
店は、そこから50メートルほど先にあり「オープン記念・割引キャンペーン」につられた人たちで少しばかりの列ができていた。
その列を前に、早くも菜穂は怯んでしまった。
(男の人ばかり……)
おしゃべりに興じる大学生、仕事帰りらしい会社員──ざっと見る限り、みんな男性だ。女性客もひとりいたが、彼女の隣には連れの男性客がいる。
店内にも女性客の姿がちらほらあったが、やはり隣には男性がいて、楽しそうに牛丼を頬張っていた。
菜穂は、迷った。この列に、女性ひとりで並ぶのは場違いではないだろうか。
いや──女性ひとりで入っても構わないはずだ。大学時代の同級生に、頻繁に牛丼屋に通っていた友人がいたのだから。
(ああ、でも……)
そういえば、その彼女に言われたことがある。「菜穂は、ああいうお店には向いてないよ」「もっと、ちゃんとしたお店で食べたほうがいいって」──
とたんに、足が重くなった。
菜穂は、改めてチラシに目を落とした。
それから、満席の──男性だらけの店内に目を向けた。
(今日は、やめておこうかな)
もらったチラシをていねいに折りたたむと、菜穂はそのまま帰路についた。
どこからか「菜穂って、ほんと慎重だよねぇ」とひやかすような声が聞こえたような気がした。
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