5・夜のカフェにて
「えっ、じゃあ、結局やらなかったの!?」
学生や仕事終わりの会社員で賑わう、夜のシアトル系カフェ。その片隅ですっとんきょうな声をあげた同僚に、菜穂は「しーっ」と人差し指をたてた。
「そんな大声ださないで」
「あ、ごめん」
結局、千鶴には「ホテルに行ったものの、罪悪感と怖さを拭えなくて、途中でやめてもらった」とだけ伝えた。それで納得してもらえるか不安だったが、彼女としては、そもそも「途中でやめてもらった」ことがずいぶんと衝撃的だったらしい。
「あのさぁ」
千鶴は、季節限定ドリンクのホイップクリームをすくいあげながら、探るような目を向けてきた。
「ほんとにほんと? 本当にやらなかったの? ホテルまで行っておいて?」
「ビジネスホテルだけどね」
「ビジホでもホテルはホテルじゃん」
ごもっともな千鶴の指摘に、菜穂は「うん、まあ」と口ごもるしかない。
「でも、やっぱりダメかなって……交際を決めた理由が理由だし。あのまま関係をもつのは、その……不誠実かなって」
「そうかなぁ、私的にはぜんぜん有りだけど。ていうか、ホテルにまで行って何もしないのも不誠実じゃない? だったら最初から誘うなよって話じゃん」
「それは……まあ……」
これもまたごもっともなので、菜穂としては返す言葉がない。
「でもさ、それでただおしゃべりして、ふつうに眠って帰ってくるって、緒形さんも案外我慢強いんだね」
「どうだろう……相手が私だからかも。もともと私とどうこうなるの、気乗りしていなかったみたいだったし」
食事後、ホテルに行くことが決まってからの緒形は、ずっとどこか憂鬱そうだった。そのことを踏まえれば、彼が何もしなかったのはわりと納得がいくのだ。
(私のことを抱けるっていうのも、ただの社交辞令かもしれないし)
あるいは「気は乗らないけど、抱くくらいはできる」という意味だったのかもしれない。
いずれにせよ、あのときの緒形の選択は、それほどハードルが高いものではなかったのだろう。そう結論づけようとした菜穂の目の前で、千鶴は「いやいやいや」と芝居がかったように手を振った。
「ないでしょ、ないない! 気乗りしてなかったとか! 今日の緒形さん、菜穂に対してめちゃくちゃ距離が近かったじゃん!」
「……え、そう?」
「そうだよ、会話している間もずーっと菜穂の肩に触っててさ。緒形さんと話してるの、私だってのに」
「ああ……うん」
たしかに、あれには面食らった。どうして肩に触れられているのか、菜穂としてもずっと疑問だった。
「あの距離感を見てさ、ピンときたんだよね。『菜穂、ついにやったな』って」
「そんな『やった』って……」
同僚のあけすけすぎる発言に、菜穂は軽いめまいを覚えた。
「ぜんぜん的外れだよ。本当に何もなかったし」
「って言ってるけど、実は──」
「ありません」
「本当に? 何も?」
「ないものはないってば。それに、緒形くんとはもう別れたから」
「……はぁっ!?」
今日いちばんの大声が、千鶴から飛び出した。
「えっ、どういうこと!? 別れた!? 緒形さんと!? なんで!?」
「なんでって……もともと彼のことを好きだったわけじゃないし。付き合うことにした理由が理由だったから、やっぱり別れるべきかなって」
菜穂としては、理に適った発言だ。それなのに、千鶴は脱力したように頭を抱えてしまった。
「ねぇ、菜穂……それ本気?」
「えっ?」
「ほんとのほんとに、菜穂は緒形さんのことを好きじゃないの?」
そうだよ、と即答するべきだ。
だって、それが真実であるはずだ。
それなのに、菜穂は口ごもってしまった。代わりに出てきたのは「そんなふうに見える?」という頼りない問いかけだ。
「見えるよ! 菜穂、明らかに緒形さんのこと意識してるじゃん!」
「そんなこと……」
「ないとは言わせないから。今日、緒形さんに肩を触られてたときも、菜穂、ずっと顔を真っ赤にしてたし」
「それは……突然のことで驚いて……」
力のこもらない言い訳に、千鶴は「うそうそ」と容赦ない。
「あんた、そのへんわりと潔癖っていうか……どんなイケメンでも、いきなり触ってくるような人には嫌な顔するじゃん。『それ、セクハラですよね?』って感じでさぁ」
菜穂は、またもや返答に詰まった。千鶴のその指摘には大いに心当たりがあったからだ。
「でも、緒形さんに対してそれはなかったじゃん? それどころか赤くなっちゃって……そうなると、こちらとしてはいろいろ勘ぐりたくなるわけですよ」
ね、と同意を求められたけれど、菜穂としては素直に頷けない。
頭の中では、必死に反論のための言葉を探している。けれど、納得のいく答えがまるで浮かんでこない。
「まあ、でもさ」
千鶴の口元に、苦い笑みが浮かんだ。
「そこで、あっさり『そうかも』って同意しないとこが、菜穂らしいといえば菜穂らしいわ」
「……どういうこと?」
「菜穂サンは慎重ですねー、ってこと。良くも悪くもさ」
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