3・そのころ、菜穂は……

 同じ頃、菜穂はぼんやりと代々木駅周辺のカフェに身を置いていた。

 本当なら、今頃は地下鉄で帰路についているはず。けれど、どうしても改札をくぐる気になれず、ふらふらとここまで移動してきたのだ。

 薄いハーブティーに唇をつけ、読みかけだった文庫本に手をのばす。

 けれど、せっかくページをめくっても、内容はほとんど頭に入ってこない。どうしても、先ほどの緒形の声が脳裏によみがえってしまうのだ。


 ──「別れるの、嫌だ──って言ったら、三辺はどうする?」


 どうする、と言われても。菜穂は、心のなかで独りごちる。

 緒形と再び付き合うことにしたのは、ひとえに重たい荷物を下ろすためだ。決して、彼に恋をしていたからではない。

 ──その、はずだ。


(恋、なんてしていないはず)


 それなのに、菜穂の心は未だどんよりと沈んだまま。窓の外はすっきりと晴れ渡っているのに、彼女だけが昨日の曇天を引きずっているかのようだ。


(本当に、これで良かったのかな)


 もし、あの場で緒形の申し出に応じていれば──

 いや、やはりそれは不誠実だ。ただでさえ、ひどい理由でよりを戻したのだ。終わらせるときくらいは、少しでも誠実であるべきだ。

 頭ではわかっている。「これでいい、これで間違っていないのだ」と、理性は声高に主張している。

 それなのに、感情が「本当に?」と問いかけてくる。

 それが本音? 本当に断ってよかったの?

 何度もそう問われて、菜穂の心はずっとぐらついたままだ。

 ため息をこぼしたところで、慌ただしい足音が聞こえてきた。女子高生と思しき二人組が、菜穂の隣の席に買ったばかりのドリンクを置く。


「どうする、どこからやる?」

「昨日、答え合わせしたとこからで良くない?」


 リュックから出てきたのは、英語のテキスト──どうやら休日にもかかわらず、これから勉強に勤しむようだ。


(このあたりの予備校に通ってる子たちかな)


 テキストの表紙に目を向けると、案の定、大手予備校の名前が記載されている。

 彼女たちはそれらを開くと、クリームたっぷりのココアを手に、問題の正誤を確認しはじめた。


「えーここ『to』入るの? なんで?」

「うーん……なんとなく?」

「『なんとなく』って」

「とりあえずそう覚えておけばいいじゃん。それが正解なわけだからさ」


(正解……か)


 いっそ、恋愛にも「正しい答え」が存在していればいいのに。ついでに、誰にでも当てはまる「参考書」があって、後ろのページに「正解」と「解説」が掲載されていればいいのに。

 菜穂は、ごつ、と文庫本の上に額を乗せた。とっくに帰路についているだろう緒形のことが、今はひどく恨めしかった。

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