第5話

1・緒形のため息

 さわやかと称するのがふさわしい、よく晴れた休日の昼前。なのに、駅前の屋外喫煙所では、さわやかさとはかけ離れた光景が広がっている。

 なぜ、喫煙者たちは背中を丸めがちなのか。このご時世、煙草を吸うことに後ろめたさがあるのか。それとも「後ろめたいことがある」からこそ、煙草を吸いたくなるのか。

 今の自分は、明らかに後者だな──そう思いながら、緒形は鞄から煙草を取り出した。

 火をつけ、普段どおり吸い込んでみたものの、やはり気分は晴れなかった。わかっていたことだ、もともと緒形はそれほど煙草が好きではない。

 それでも、どうしてもこのまま電車に乗る気にはなれなかった。なんとかして、いったん頭を切り替えたかった。


(なにやってんだろ、俺)


 煙草をくわえたまま、空いた右手を動かしてみる。ひらいたり握ったり、軽く振ってみたり。それでも、十数分前に掴んだ菜穂の細い腕の感触が、まだてのひらに残っているような気がして仕方がない。

 らしくないことをした。あれでは、まるでありきたりな恋愛ドラマの登場人物のようではないか。

 しかも、それだけではあきたらず──


 ──「別れるの、嫌だ──って言ったら、三辺はどうする?」


 あれもまた、自分らしからぬ言葉だ。「去る者追わず」こそが、これまでの自分だったはずなのに。

 けれど、階段を下りていく菜穂の背中を見送っているうちに、勝手に足が動いてしまったのだ。このまま見送ってはいけない──あるいは「このまま帰したくない」、そんな思いに突き動かされたかのように。

 緒形が追いかけてきたことに、菜穂はたいそう驚いたらしい。地味めなアイシャドウで彩られた目が、ぱちりと大きく瞬いた。


『どうしたの、いきなり』

『いや、だから……そのままの意味なんだけど』


 ひとまずそう答えたのは、自分でもどうしてこのような行動を取ってしまったのか、よくわからなかったからだ。つまりは、ある種の「逃げ」のようなものだ。

 けれど、そんな緒形の心情など、当然菜穂は知るよしもない。


『そんなの、突然言われても』


 困惑したようにうつむく彼女を見て、緒形は「まあ、そうだよな」と苦い気持ちになった。たしかに、この申し出は突然すぎただろう。彼女だけじゃない、実際口にした自分ですら戸惑っているくらいなのだ。

 その一方で、薄い不満がざらりと胸をこすった。ここまで困るということは、菜穂にとって、交際の継続はほぼ「あり得ない」ということではなのだろう。

 それは、それで──なんとなく面白くない。

 たしかに、今の彼女が自分に恋愛感情を抱いていないことはわかっている。それでも、緒形としては一緒にいて楽しいひとときもあったのだ。

 特に、昨夜ベッドで遅くまでおしゃべりをしていた時間は楽しかった。

 10年前、ひそかに緊張しながら、公園のベンチで時間が許すかぎり一緒にいたときとも違う──もっとやわらかく緩やかな昨夜のあの時間は、緒形にとってひどく心地よかったのだ。

 あんな時間を過ごせるのなら、菜穂と交際を続けるのも悪くない。彼女を「抱けるかどうか」についても、経験を積んだ今となっては問題ないはずだ。


『……あの』


 菜穂が、ようやく口を開いた。

 その眉間にしわが刻まれていることに気がついて、緒形はわずかに顎を引いた。

 たぶん、これから彼女が口にしようとしているのはあまり愉快な内容ではない。それでも耳を傾けないわけにはいかず、緒形は「うん?」と先をうながした。


『あのね、緒形くん……もしかしてだけど』


 菜穂はいったん言葉を切ると、やがて意を決したように顔をあげた。


『私がまだ誰ともそういうことをしていないの、自分のせいだと思ってたりしていない?』

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