12・これから
そんなわけで、菜穂はスマートフォンのアラームが鳴るまで、緒形は9時過ぎまで熟睡し、10時ぎりぎりにふたりでホテルを後にした。
ホテル代は全額自分が払うと菜穂は申し出たが、緒形は半額しか受け取ってくれなかった。
代わりに、会社で缶コーヒーをおごる約束をした。それでは釣り合いがとれてないと思わなくもなかったが、これ以上言い募るのもかえって野暮というものかもしれない。菜穂は、スケジュール管理アプリに「緒形くんにコーヒー」と入力した。
昨日の曇天が嘘のように、空はからりと晴れていた。
「これからどうする?」
「そうだね、お腹すいてるし……どこかのカフェで軽く食べてから帰る?」
チェーン店のカフェやファストフードなら、まだモーニング営業の時間帯だ。
けれど、緒形は「いや、朝食の話じゃなくて」と、どこか気まずそうに頭を掻いた。
「その……これからっていうか。俺たち、いちおう『付き合ってる』んだよな?」
メガネの奥の目が、うかがうように菜穂を見る。
菜穂は、ハッと息をのむと、そのまま視線を足元に落とした。どう答えようかとしばし迷って──けれども、結局はありきたりな言葉しか浮かんではこなかった。
「ごめんなさい」
「ってことは?」
「別れてほしい、です」
今回の交際の目的は、あくまで「処女を捨てるため」だ。そのために「よりを戻す」と決めたのだ。
冷静になった今、自分がやろうとしていたことがいかに不誠実だったのか痛感する。でも、だからこそ、これ以上、嘘を重ねるわけにはいかない。
ごめんなさい、と頭を下げる菜穂に、緒形はしばらくの間、沈黙を貫いた。
けれど、やがて苦笑まじりに「だよなぁ」とため息をついた。
「まあ、そうなるよな。三辺、俺のことが好きなわけじゃないし。結局、その──捨てたかっただけなんだろ?」
「ごめん……本当にごめんなさい」
「いいよ、誰にでもあるからさ。ちょっとおかしくなるときって」
うながすように肩を叩かれ、菜穂はようやく頭をあげた。
「じゃ、ひとまず帰るか」
「うん」
駅までの道のりを、ふたりで並んで歩く。会話は特にない。ただ、歩く速度はゆるやかで、緒形が自分にあわせてくれているのが伝わってくる。
午前中にもかかわらず、駅周辺はそれなりに賑わっていた。さすがは都内有数のターミナル駅、この先のJRの駅前はもっと人があふれているのだろう。
「それじゃ、私、こっちだから」
「ああ、また会社でな」
「うん……会社で」
そう口にしたところで、初めて菜穂はこれが長い別れの場面に該当するのではと思い至った。
もし、自分たちに日常の接点がなかった場合、ここは「さよなら」「さよなら」「お元気で」──となったはずだ。たまたま緒形とは勤務先が同じだから「また」と言い合っているだけであって、そうでなければこれ以降「もう会わない」という状況のはずなのだ。
胸の内を、隙間風のようなものが吹き抜ける。
その理由を、菜穂は考えようとして──結局は緩く首を振るだけにとどめた。
これは、おそらくただの感傷だ。あるいは、多感な時期に好きだった相手との二度目の別れを迎えた「寂しさ」だ。どちらにせよ、時間がすぎれば跡形もなく消えてしまう──しょせん、その程度のものであるはず。
菜穂は、そう結論づけて歩き出した。そして、自分自身に言い聞かせた。こんな気持ちは「今」だけで、取るに足らないものなのだ、と。
地下鉄に続く階段は、どこか薄暗い。空気もずいぶんひんやりとしている。
この物悲しさは、ふたりからひとりになったせいか。いや、緒形が隣にいたところで、景色は何も変わらない。つまりは、同じ気持ちを味わっていたはず──もっとも、その緒形は今、明るい地上を歩いてJRの駅に向かっているのだろうけれど。
と、そのとき、背後から慌ただしい足音が響いてきた。
「三辺!」
いきなり、後ろから腕を掴まれた。振り返るまでもない──その声の主が誰なのか、菜穂はよく知っていた。
「あの……あの、さ」
息を弾ませる緒形は、どこか高校時代の彼をほうふつとさせる。職場ではあまり見ないメガネをかけているからか、だが、そのメガネもあのころとは違うデザインのものであるはずで──
「嫌だ、って言ったら?」
緒形の言葉が、菜穂にぶつかった。
「別れるの、嫌だ──って言ったら、三辺はどうする?」
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