7・いたたまれない
まず、あの文庫本カバー自体は、決して高額なものではない。もともとは「お菓子の景品」だったものだ。
メーカーが指定したお菓子を4種類買うことで非売品の「文庫本カバー」が、6種類すべてを買うことで「文庫本カバー」と「しおり」が手に入る。しかも、そのデザインを手がけたのは、当時菜穂が好きだったデザイナーだ。
当然、菜穂は飛びついた。キャンペーン期間はすでに半ばを過ぎていたが、なんとしても「文庫本カバー」と「しおり」をセットでほしい。そのため、なけなしのお小遣いを計算してやりくりしながら、コツコツと指定のお菓子を買い集めていたのだ。
ところが、3枚まで集めたところで想定外の事態が起きた。6種類のうちの1種類が、売れに売れて、予定よりもだいぶ早く販売終了してしまったのだ。
悔しさとやりきれなさで、菜穂は投げやりになった。
もちろん4種類までは揃えられるから、文庫本カバーだけなら手に入る。けれど、しおりとセットでなければなんの意味もない。結局、菜穂はそこでお菓子を買うことをやめてしまった。
ところが、だ。
キャンペーン終了後、緒形から「はい、これ」とお菓子の景品を渡された。それも文庫本カバーだけではない、しおりもセットでだ。
『どうしたの、これ』
『この間、三辺からシールをもらっただろ。あれの続きを揃えてみた』
たしかに、緒形にせがまれて3枚のシールを譲ってはいた。彼は「文庫本カバーだけでももらえばいいのに」と言っていたから、きっと残りの1枚を自分で購入して、文庫本カバーと交換するつもりなのだろう──そう考えてもいた。
ただ、それはあくまで緒形自身が使うためであって、まさかこんなふうに譲ってくれるとは思ってもみなかった。ましてや、もう手に入らないはずの「しおり」まで添えて、だ。
『これ、どうやって手に入れたの? 1種類はもう販売終了だったよね?』
『そのへんは、まあ……いろいろやりようがあるというか』
『やりようって?』
『そのあたりはナイショってことで』
緒形はいたずらっぽく笑うと、「ほら」と改めて文庫本カバーとしおりを差し出してきた。
今の菜穂なら受け取ることにためらいを覚えただろうが、当時は喜びしか感じなかった。なにせ、一度はあきらめたはずのものが目の前にあるのだ。
『ありがとう、すごく嬉しい』
後日、彼が6枚目のシールを手に入れるために、他県まで足を運んでいたことを知った。しかも、その情報を得るために、何日も何日も粘り強くSNSに貼りついていたことも。
だから、彼と気まずくなり恋人関係が自然消滅したあとも、文庫本カバーとしおりだけは捨てることができなかった。あのときの彼の善意は、無碍にしていいものではないと思ったのだ。
けれど、10年後にこうして恥ずかしい思いをするくらいなら、やはり捨てるべきだったのかもしれない。
(しおりも、絶対に見られたよね)
文庫本を渡した際、緒形はパラッとページをめくっていた。その際、しおりがはさんであることにもおそらく気づいたはずだ。
(「別れても、ちゃっかり使ってるのかよ」って思われたかも)
考えれば考えるほど、いたたまれなくなってくる。
けれど、このあと菜穂を待っているのは、もっと「いたたまれないこと」だ。
(緒形くんと──するんだ)
10年ほど前、菜穂を傷つけた張本人と、再び同じ夜を迎えようとしている。
冷静に考えれば考えるほど、どうかしている。けれど、もう逃げられない──逃げるための道を、自ら断ってしまった。
折しもバスタブにお湯がたまり、菜穂は蛇口を止めた。
身につけているものを1枚1枚脱ぐたびに、自分で自分がわからなくなりそうになる。
それでも、念入りに湯につかり、念入りに身体を洗い、念入りに髪の毛を渇かすと、菜穂は鏡のなかの自分をじっと見つめた。
そこにいたのは、メイクをしていない「素のまま」の自分だ。
ただでさえ地味な顔立ちが、不安のせいか、ますます冴えなく見える。薄くメイクをするべきか、せめて眉毛くらいは描くべきか。だが、バスルームに化粧ポーチを持ちこんではいない。
そうなると、このあとの選択肢はふたつだ。いったん部屋に戻って化粧ポーチを取ってくるか、このまま緒形のもとに向かうか。
菜穂は、後者を選んだ。わざわざ取りに戻るのも、この期に及んで冴えない顔を取り繕うのも気恥ずかしいような気がしたからだ。なにより、緒形はメイク前の菜穂の顔をすでに知っている──あくまで「高校時代の」ではあるが。
バスローブの胸元をととのえると、勇気を振り絞ってドアを開けた。
緒形は、窓の外を眺めていた。けれど、音で気づいたのだろう──菜穂が声をかける前に「ああ」と言いたげにゆるりと振り返った。
「外、雨が降ってきたっぽい」
たしかに、待ち合わせの時点ですでに曇天だった。降水確率も60%と高めだったので、雨が降るのはまったくおかしなことではない。
けれど、菜穂の気持ちは確実に沈んだ。
緒形が余裕綽々なのも、なんだか腹立たしかった。高校時代の彼はもっと切羽詰まっていて、怖いくらいの勢いで菜穂を求めてきたはずだ。それなのに、この差はいったいなんなのだろう。
この10年間、緒形も自分も同じ歳月を生きてきたはずだ。その間、自分が誰とも深い関係に至れなかったのに対し、緒形は着実にそうした縁を育んできたのだろう。それも、噂どおりならば、けっこうな人数の女性たちと。
菜穂は、うつむいた。今の、こうした場面での自分の余裕のなさがたまらなく嫌だ。それを緒形に見透かされている気がするのが、ますます嫌だ。
けれど、ここから先、どうすればいいのか菜穂にはわからない。
うつむいたまま立ち尽くしていると、ふっと笑うような気配がした。
「なにか飲む? 水とかあるけど」
「いらない。それより……」
さっさと終わらせてほしい。この重たい荷物を、下ろさせてほしい。
そこまではっきりとは伝えなかったけれど、緒形にはどうやら通じたようだ。
「こっちに来て」
道筋を示してもらったことに内心ホッとして、菜穂は足を進めた。
それから顔をあげようとして──自分がノーメイクだったことを思い出した。
一度は良しとしたはずなのに、いざ、身内以外の男性の目の前に立つとなるとやはり恥ずかしい。せめて、眉だけでも描けばよかった──今から描かせてもらえないだろうか。
けれど、菜穂がそう申し出るよりも早く、緒形が彼女の腕を引いた。
そのまま、強い力で抱きしめられた。
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