6・菜穂、我に返る

 全身の血がさあっと引いた。

 遠い昔──高校時代の緒形に言われたその一言。

 それを、なぜホテルにいるこのタイミングで思い出してしまったのか。――いや、なぜ今の今まで、思い返さなかったのか。

 それだけで、ここ最近の自分がいかに冷静さを欠いていたのかがよくわかる。

 普段の自分ならば、絶対にこんなお願いをしなかった。緒形にだけは、頼まなかったはずなのだ。


(どうしよう……どうすれば……)


 混乱する菜穂に、もうひとりの自分が囁やきかけてくる。


 ――「逃げなよ」


 そうだ、それがいい。それしかない。

 重たい荷物を下ろすのは、また別の機会だ。相手は緒形以外のひとと――そう、そこだけは譲れない。

 菜穂は、すぐさま机の上のボールペンとメモ用紙に手をのばした。もちろん「ごめんなさい」と書くつもりだった。

 ところが、そこではたと手が止まった。


(ホテル代、どうしよう)


 もともと折半するつもりだった。けれど、こうなった以上、やはり自分が全額払うべきではないだろうか。

 だが、金額がわからない。予約サイトでこの部屋を決めたのは緒形で、菜穂は支払いのときに金額を聞いて払うつもりでいたのだ。


(2万円あれば間に合う?)


 数年前なら、それで問題なかったはずだ。けれど、最近都内のホテルはどこも宿泊代が驚くほど高騰していると聞く。


(念のため、3万円? でも、さすがにそこまでは……)


 菜穂は、持ち金を確認するべく、鞄に手を入れた。

 ところが、そのタイミングでユニットバスのドアがガチャリと開いた。

 動揺した菜穂は、とっさに財布以外のものを手に取った。


「お先――あれ、それ……」


 バスローブ姿で現れた緒形は、菜穂の手元に目を止めた。


「三辺、それまだ持ってたんだ」


 初めて見た緒形の──もっと言ってしまえば「男性」のバスローブ姿に、菜穂の心臓は大きく跳ねあがる。

 けれど、それもほんのわずかな時間のこと。自分が今、何を手にしているのかに気づいたとたん、菜穂は両手ごと背中に隠してしまった。


「え、なんで隠すの?」

「それは、その……」

「ただの文庫本だろ? それとも、もしかしてエロい本だった?」

「違います!」


 間髪入れることなく否定した菜穂に、緒形は「冗談だって」と軽やかな笑い声をあげた。


「ていうか、その文庫本カバー、昔俺があげたやつだろ? まだ持ってたんだ?」

「それは……気に入ってるものだし」


 ああ、やっぱり緒形は気づいていた。先ほどの発言から、そのような気はしていたのだけれど。


「でも、かれこれ10年も前のやつだろ。三辺って物持ちいいよなぁ」

「そうかな、それくらい普通じゃない?」

「そんなことないって。10年ってけっこうな年月だろ」


 見せて、と手を差し出されて、菜穂は観念した。自分よりもひとまわりは大きな彼の手に、隠していた文庫本をそっと乗せた。


「なに読んでたのかなぁ」

「ホラー小説だよ」

「え……っ」

「うそ。去年ベストセラーになったミステリー小説」


 菜穂からの意趣返しに、緒形は「三辺もいい性格になったよなぁ」と唇を尖らせた。

 それでも、文庫本カバーを見つめる眼差しはやわらかい。表紙をめくり、本の中身をざっと確認したあとは、懐かしむように布地のカバーを撫でている。

 その優しげな手つきに、菜穂は妙にソワソワしてしまった。


「え、ええと……私も、シャワー浴びてくるね」

「ああ、せっかくだから湯船にもつかってくれば? ここのホテル、ビジホのわりにバスタブが広いし」

「そっか、じゃあ、そうしようかな」


 着替えの入ったポーチを手に、菜穂はバスルームへと逃げ込んだ。これで、もうこの状況から逃がれられなくなったわけだが、あいにく文庫本のことで頭がいっぱいな彼女は、まだその事実に気づいていない。


(最悪だ……あのカバーを見られるなんて)


 もともと、菜穂が鞄から取りだそうとしていたのは財布だ。ふたり分の宿泊代があるか、確認しておきたかっただけなのだ。

 それなのに、いきなり緒形がバスルームから出てきたから、とっさに「財布以外のもの」を手に取ってしまった。それが、よりによってあの文庫本だったのだから、菜穂にしてみれば本当にツイていない。


(まだカバーを持っていたの、絶対に知られたくなかったのに)


 バスタブにお湯がたまるのを待つ間、菜穂は再び高校時代に思いを馳せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る