5・苦すぎる思い出(その4)

 あれやこれやと自分に言い聞かせているうちに、がちゃりとドアが開く音がした。

 菜穂は、唇を引き結んだ。そうでもしなければ、緊張のあまり口から心臓が飛び出してしまいそうだ。


『お待たせ』

『あ……うん』

『それじゃ、ええと……移動する?』

『そう……だね』


 移動するのは、どうやら隣の部屋らしい。

 足を踏み入れたとたん「あ、緒形くんのにおい」とうっかり口にしそうになった。そのにおいは、緒形が後ろ手で引き戸を閉めたとたん、よりいっそう強くなった。

 さて、ここからどうすればいいのか。

 とりあえず、数メートル先にベッドがある。そこに向かえばいいのか、緒形がリードしてくれるのか。

 ところが、緒形はいきなり背後から抱きついてきた。「三辺」とつぶやいたかと思うと、やはり唐突に首筋に唇をつけてくる。

 菜穂は、危うく悲鳴をあげかけた。

 でもダメだ、たぶんそれはダメだ。なんだかよくわからないけれど、たぶんここはジッと我慢しなければいけない場面なのだ。


(声……とか、出せばいいのかな)


 映画などのベッドシーンでは、だいたい女性が甘やかな声をあげている。自分もそうしなければいけないのか、でも、そんな恥ずかしいこと、すぐにできるわけもなく──ただただギュッと目を閉じていると、緒形の唇が耳元に移動した。


『……ベッド』

『はい!?』

『ベッド、移動していい?』


 コクコクと何度もうなずいた。あまりにも激しくうなずきすぎて、昔、母方の祖父母の家にあった「鳥のおもちゃ」を思い出した。ガラス製の、首が長くて赤い顔をした鳥。水を注ぐたびに、激しく頭を振っていた──


『座って』

『あ……うん』


 緒形のベッドは、菜穂の家のものよりも大きくてスプリングが固かった。しかも、掛け布団からは、より強く緒形のにおいがした。

 うながされるままに腰をおろしてはみたものの、そこからなかなか顔をあげられない。

 みなべ、と手を引かれた。

 さらに軽く揺すられて、菜穂はようやく顔をあげた。

 どうしたの、と問うはずだった唇は、いきなり噛みつくようにふさがれてしまった。

 その勢いのまま押し倒されて、視界がぐるりと反転する。

 固いスプリングに背中がぶつかり、菜穂の身体は小さく跳ねた。それでも、緒形は口づけをやめようとしない。おかげで菜穂は息継ぎがうまくできず、ひゅ、ひゅうと喉が短く鳴った。


(もしかして、はじまってる?)


 それが正解だとわかったのは、緒形の手がブラウスのなかに潜り込んできたときだ。

 またもや悲鳴をあげそうになった。恥ずかしさのあまり、今すぐ緒形を押しのけて、走って逃げだしてしまいたい衝動にかられた。

 それでもギリギリのところで我慢したのは、緒形と親しい女子生徒たちの顔が浮かんだからだ。「ほら、やっぱり」「三辺さんには無理でしょ」──違う、そんなことはない。私にだってできる──できるはずだ。

 緒形の手が、背中にまわった。何をするのだろうと怪訝に思っていたら、指先がブラジャーのホックに触れた。

 あ、外すんだ──そうか、当然か。

 頭のなかでは冷静に呟いているのに、頬が熱くなるのをどうしても止められない。

 パチ、と小さな音がした。胸元を締めつけていたものが一気に緩んだ。

 いよいよだ、と覚悟を決めて、菜穂はより強く目を閉じ──


(ここまでは、覚えてる)


 大人になった今でも、このあたりまでならうっすらと思い出すことができる。

 けれど、ここから先の記憶が、菜穂はすっぽりと抜け落ちている。5分や10分程度の短時間だったのか、実は30分ほどかかっていたのか──正確なところは今でもわからない。

 ただ、その間、緒形は菜穂の身体のいたるところに触れていたはずだ。

 触れるだけ触れて、その上で、いきなり「ああっ」と叫んで、身体を放したのだ。


『えっ……何?』

『あ……いやぁ……』


 緒形は馬乗りになったまま、髪を掻きあげている。息を弾ませている菜穂を、同じように息を弾ませながら見下ろし、けれどようやくその唇からこぼれたのは「やば……」の一言だ。


『「やばい」って何が?』

『……』

『なにかトラブルでもあった? それとも、ええと……』


 こんなときに、いきなり「やばい」と呟く理由が、経験のない菜穂にはどうしても思い当たらない。

 不安に思いつつも、緒形の返答を待つ。

 緒形は、まだ「あー」だの「うー」だの、口ごもっている。

 それでもジッと待っていると、ようやく「あーうん、わかった!」と振り切ったように叫んだ。

 そして、そのととのった顔におどけたような笑みを浮かべた。


『悪い、なんか俺、無理っぽい』

『え……』

『三辺相手じゃ、勃たないっぽいわ』

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