4・苦すぎる思い出(その3)
どこからか、水音が聞こえてくる。流し台──食器を洗う音だろうか。
うっすらと目を開けた菜穂は、ここが緒形の家だと思いだすなり、ソファから転がり落ちるような勢いで飛び起きた。
そうだ──今、自分がいるのは「恋人の家」だ。
紅茶を飲みながら映画鑑賞をし、ふたりでカレーライスとケーキを食べ、さらに2本の映画を観て──そのまま睡魔に負けて眠ってしまったのだ。
菜穂は、スマートフォンに手をのばした。時刻は23時58分──あと2分で今日が終わるようだ。
『ああ、三辺、起きた?』
水音が止み、緒形が手を拭きながら振りむいた。
『うん、あの……もしかして夕飯の片付けをしてた?』
『まぁ……って言っても、鍋と食器を洗ってただけ』
『ごめん、手伝わなくて』
『いいよ、三辺はお客さんなんだし』
それより──と、緒形はなぜかそこで口ごもった。
『どうかした?』
『ああ、いや……その……なんていうか……』
しばらく足元に視線をさまよわせたかと思うと、いきなり「紅茶!」と勢いよく顔をあげる。
『三辺、紅茶飲む?』
『ありがとう。でも、今はいいかな』
普段は甘い飲み物ばかり口にする菜穂だったが、今はただのミネラルウォーターを飲みたい。おそらく、寝起きで口のなかが渇いているせいだ。
すると、緒形はまたもや『ああ、うん』と歯切れ悪くうつむいた。
お互いの間に、妙な沈黙が漂う。
やはり、今の緒形はどう見ても普段の彼らしくない。
どうしたんだろう、と怪訝に思っていると、緒形はさらに深くうつむいた。そして、蚊の鳴くような声を発した。
『じゃあ、さ……シャワー浴びてくる?』
寝起きでまだぼんやりとしていた頭のなかが、緒形のその言葉で一気にクリアになった。
『ああ、ええと……お風呂、じゃないんだ?』
『えっ、いや──風呂も沸かせる! ちょっと時間かかるけど!』
勢いこむ緒形に、菜穂はやっぱりあいまいな反応しか返せない。
だって、違う──「お風呂がいい」と言いたかったわけじゃない。緒形が発した「シャワー」という単語が、やけに生々しすぎて、動揺してしまっただけなのだ。
『え、ええと……大丈夫、かな』
『大丈夫って?』
『だから、つまり……』
シャワーだけで十分──そう返そうとして、はたと気がつく。
(そうだ、下着!)
すでに身につけてしまった新しい下着を、シャワー後どうするべきか、決めていないではないか。
ますますうろたえる菜穂に、緒形は困惑したような眼差しを向けてきた。
『あの──三辺、もしかしてアレ? いわゆる「女子の日」的な……』
『違うよ!』
自分でも驚くほど大きな声が出た。
『そういう理由じゃなくて、その……つまり……』
動揺に動揺が重なり、すっかり混乱してしまった菜穂は、気がつけば再び「大丈夫!」と返していた。
『ここに来る前に、お風呂入ってきたから! 入らなくても大丈夫!』
『あ、そう……なんだ?』
一瞬、目を丸くした緒形だったが、その頬にはすぐに照れくさそうな笑みが浮かんだ。
『それじゃ、ええと……俺はシャワーを浴びてくる』
『わかった……いってらっしゃい!』
いつになくテンション高めに返してみたものの、すぐさま「これで正解だったのだろうか」との疑問がわいてくる。
緒形は、いったん隣の部屋に引っ込むと、着替えらしきものを手に、キッチンの奥へと消えていった。おそらく、あのあたりに洗面所や浴室があるのだろう。
ひとりぼっちになった菜穂は、ソファの上でギュッと膝を抱え込んだ。
(やっぱり無理だよね、何もなしで朝を迎えるなんて)
でも、大丈夫──緒形は、こういうことには慣れているはず。
だったら、すべてを彼に任せてしまえばいい。彼の言うとおりにすればいいのだ。
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