3・苦すぎる思い出(その2)
そんな調子で、どうにもすっきりしないまま、菜穂は週末を迎えることになった。
緒形の住まいは、都内でもだいぶ北──あと2駅で埼玉県という地域にあった。
『遠くまでおつかれ。で、悪いけど、ここから10分くらい歩くから』
先を歩く緒形のあとを、菜穂はおとなしく着いていった。
彼女が住んでいる地域とはだいぶ雰囲気が違っているように感じるのは、どこか物寂しい幹線道路沿いを歩いているからだろうか。
『トラック……』
『えっ?』
『この道路、トラックがたくさん走ってるね』
『あー言われてみればそうかも。気にしたことなかったな』
夜の遅い時間帯だと、さらに人通りが減るかもしれない。
けれど──今日は問題ない。彼の家に泊まるはずだから。菜穂は、着替えの入ったトートバッグの肩紐をギュッと強く握りしめた。
幹線道路から細い道に入ると、ようやく住宅街らしきものが広がりはじめた。
『うち、あそこ』
『あそこって?』
『あのデカい団地』
緒形はそう言うが、団地らしき建物はざっと見ただけで3棟はある。比較的新しいものが1棟、年季の入ったものが2棟。
緒形が案内してくれたのは、年季の入った2棟のうちの手前側の建物だった。
エレベーターの塗装が一部剥がれ、乗るとぎしぎしと軋むような音が聞こえてくる。菜穂はひどく驚いたが、緒形が気にしている様子はまったくない。つまりは、これが通常運転なのだろう。
フロアも全体的にどこか薄暗かったが、彼の家の表札にはささやかな灯りがともっていた。
『どうぞ、入って』
『おじゃまします』
ことさらゆっくり靴を揃えると、菜穂は恐る恐る立ちあがった。
細い廊下の先にあるリビングは、しっかり丁寧に片付けられている。それでいて、あちらこちらに生活感が漂っていて、菜穂はほうっと息を吐いた。
『あ、これ、よかったら』
忘れないうちに、と近所の洋菓子店から買ってきたケーキを差し出した。
『うわ、高そうなやつ』
『ここのチーズケーキ、すごく美味しいの。緒形くんも好きだと嬉しい』
『大丈夫、俺わりとなんでもいけるから。晩飯のあとに食おうな』
あ、晩飯はカレーな、と告げられて、菜穂は小さくうなずいた。おそらくガス台の上にある鍋の中身がそうなのだろう。
そこで、ふとある疑問がわいてきた。
『あの……お母さんに何か言われた?』
『何かって?』
『その……私が泊まりに来ること』
ああ、と緒形は首裏を掻いた。
『友達が泊まりに来る、としか言ってない』
『そ……っか』
それはそうだろう。菜穂にしても、両親には「女友達の家に泊まりに行く」と嘘をついてきた。母親が先方の家に挨拶すると言い出したときはかなり焦ったが、なんとか嘘に嘘を重ねて乗り切った。たかが一度のお泊まりでも、高校生にとってはハードルが高いのだ。
『あと、レンタルでDVDを借りてきた』
『そうなの? 映画?』
『うん、三辺が好きそうなやつ』
ぜんぶで3本あったが、どれもラブストーリーのようだ。
菜穂は、頭のなかでザッと計算した。1本の鑑賞時間がおよそ2時間とだとすると、ぜんぶ観終わるのは6時間後──途中でごはんを食べるために休憩をいれればさらに遅くなる。
それから、お風呂に入って──それから、それから──
(……あ)
ふいに、とんでもないことに気がついた。
この日のために、お小遣いを奮発して買った新しい下着を、菜穂は今、身につけている。けれど──
(これって、本当はお風呂に入ったあとに身につけるべきだったんじゃ……)
もちろん、替えの下着も持ってきてはいる。けれど、それはおろしたてのものではない。デザインもそれほど可愛いものではなかった。
どうしよう、と逡巡する菜穂の背後で、緒形が「なあ」と声をかけてきた。
『飲み物、紅茶でいい? お湯で溶かすやつだけど』
『うん、ありがとう』
緒形がいれてくれたスティックタイプの紅茶は、菜穂がふだん飲むものよりもだいぶ甘かった。とはいえ、これはこれで嫌いではない。父方の祖母の家におじゃますると、だいたい出てくるのはこのタイプの飲み物だ。
菜穂がちびちびとマグカップに口をつけていると、緒形もソファに腰を下ろした。普段、公園のベンチでおしゃべりするときと、同じくらいの距離感だ。
『じゃあ、まずはこれから観る?』
緒形が1本目として選んだのは、高校生が主人公の恋愛映画だ。
学校を舞台にした、いわゆる「学園ラブコメディ」だったが、ストーリー展開よりも、アメリカの女子高生たちの恋愛に対する積極的な姿勢に、菜穂はひどく驚いた。とにかく、キスから先に進むのが早い。しかも、誘い方がとてもおしゃれだ。身につけているものも、彼女たちそのもののようにポップですごく愛らしい。
もっとも、そんな感想を抱くのは菜穂だけで、同世代の女の子たちにとってはこれが「常識」なのかもしれない。特に緒形と仲の良い女の子たちは、こうしたものが似合いそうだ。
(緒形くんも、本当はこういう子たちが好きなんだろうな)
ひっそり落ち込んだところでエンドロールが流れ、カレーを食べたあとで2本めを鑑賞。少し休憩をはさんでから、3本めのDVDがデッキにいれられた。
映画鑑賞が嫌いではない菜穂だったが、さすがに1日3本となると集中力が切れてくる。しかも、3本目は単館劇場で上映されるような、やや難解なラブロマンスだ。
それとなくDVDのパッケージを確認すると、どうやらイギリスの映画らしい。緒形は、こういう作品も好きなのか。半ば感心しながら隣をうかがうと、彼は背もたれに寄りかかるような体勢で爆睡していた。
これには、さすがに吹き出してしまった。どうやら、この映画を難解に思っていたのは、自分だけではなかったらしい。
そのまましばらく様子をうかがってみたものの、緒形が目を覚ます気配はまるでない。
菜穂は、思いきって拳ふたつ分あった距離を詰めてみた。
はじめて間近でじっくり見る、緒形の顔。とにかく整っているし、髪の毛も癖はあるものの、ずいぶんとやわらかそうだ。
さらに、彼の右の額──髪の毛の生え際に、ほくろがあることに気がついた。
唇は軽く開いていて、呼気からかすかに数時間前に食べたカレーのにおいがしている。
(あのカレー、美味しかったな)
味付けはわりと甘め、具材が大きくて食べごたえがあった。菜穂の母親が作るカレーも甘めだが、野菜をやわらかく煮込みがちだから、その点は対照的だ。
ただ寝顔を眺めているだけなのに、なんだか甘やかな気持ちになってきた。
いっそ、このまま朝を迎えてしまうのはどうだろう。「あれ、寝ちゃった」と笑い合いながら、ふたりで朝食を食べるというのは。
ぎし、とソファが鳴った。いつのまにか身体に力が入っていたらしい。緒形が「ん……」と小さな声を洩らし、菜穂は飛びあがるほど驚いた。
すぐさま拳3つ分ほどの距離を置くと、菜穂は流しっぱなしだった映画に集中した。とはいえ、彼女が起きていられたのは、ほんの5分ほどだったのだけれど。
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