2・苦すぎる思い出(その1)
窓の外では、けばけばしいネオンライトが点滅している。
繁華街のなかの、少し古びたビジネスホテル。耳を澄ませば、外の喧噪が聞こえてきそうだ。
けれど今、菜穂の耳が拾っているのはまったくの別の音だ。
薄いドアの向こう──ざあざあと響いてくる、シャワーの音。
いよいよだ、と菜穂は身体を強ばらせた。
本音を言うと、今すぐここから逃げ出したかった。すぐそこにあるメモ用紙に「ごめんなさい」と書きなぐって、フロントまで一息に駆け抜けたかった。
けれど、今そんなことをしたら自分は一生変われない。「処女」というどうにも重たすぎるこの荷物を、ずっと抱えたまま生きていかなければいけなくなるに違いない。
(そんなのは嫌だ)
想像するだけで、ゾッとする。
(大丈夫、みんなやってることなんだから)
このあと、緒形と入れ違いでシャワーを浴びて、バスローブに身を包んで、再びここに戻ってくればいい。
あとは、緒形がなんとかしてくれる。彼は経験者なのだから、菜穂はただ身を委ねればいいだけだ。
(──本当に?)
もうひとりの自分が、ふいに問いかけてきた。
本当に大丈夫? 彼は、望みどおりにふるまってくれるの?
(あのとき、拒絶されたのに?)
ひゅ、と喉が鳴った。菜穂の背中を、冷たい汗が滑り落ちた。
それは、触れてはいけない「禁忌の思い出」だ。二度と思い出したくなかったから、頑なに目を逸らし、見て見ぬふりをしてきたもの。
なのに今、その思い出のなかの「自分」がジッとこちらを見つめている。
いいの? 本当にいいの?
また拒絶されるかもしれないのに?
(──やめて)
菜穂は、組んでいた手に力を込める。それでも、巻き戻りはじめた記憶は、10年前の再現をやめてはくれない。
そう──あれは、たしかクリスマスを間近に控えたころだったか。
『うちの親さ、今週末は出張なんだ』
放課後、いつもの公園でおしゃべりをしていると、緒形がいきなりそんなことを言い出したのだ。
『へぇ、そうなんだ』
最初、菜穂はその意図するところを読み取れなかった。
『出張ってどこに?』
『長野』
『この時期に? 大変だね』
ちょうど前日『長野は記録的な大雪に見舞われている』とのニュースを目にしたばかりだった。だから、彼の母親に対して心から気の毒に思ったのだ。
それなのに、緒形は顔を強ばらせた。「いや、だから」と彼らしくもなく口をもごもごさせたあと、手元のペットボトルを一気に飲み干した。
『つまりさ、週末うちは留守──ってことなんだけど』
『うん……あっ』
そこで、ようやく菜穂は理解した。彼は、その週末の留守宅に「遊びに来ないか」と誘っているのだ。それも「誰もいない」ということをはっきりと伝えた上で。
頬が、カッと熱くなった。頭のなかをいくつもの単語がぐるぐるとまわり、ようやく、そのなかからかろうじて口にできそうなものを菜穂は選び取った。
『それは、泊まって……ってこと?』
『泊まってもいいし、日帰りでも』
曖昧な返答に、菜穂は再び混乱する。
もしかして、自分の考えていることとは違うのだろうか。実は、誰もいない家でのんびり映画鑑賞でもしたいとか? たしかに、それなら「泊まり」でも「日帰り」でもおかしくはない、けれど──
黙り込んだ菜穂に、緒形は「あ、いや、ええと」と焦った声を発した。
『できれば、うちに泊まってほしい──三辺が、嫌じゃなかったら』
キス以上のことを、したい、かも。
途切れ途切れの弱々しい声を、木枯らしがさらってゆく。なのに、幸か不幸か、菜穂の耳はその言葉をしっかり拾ってしまっていた。
キス以上のこと──それが何を意味するのか、わからないほど幼くはない。
ひとまず隣を見た。緒形は、空っぽのペットボトルを睨みつけるようにうつむいていた。耳たぶが赤いのは、冷たい外気のせいか、それとももっと別の意味があるのか。
菜穂は、首をすくめた。鼻先までマフラーに埋もれたせいで、なんだか口のまわりがチクチクと痛痒い。
『わかった……お泊まり道具、持っていくね』
緒形は、弾かれたように顔をあげた。いつもは大人びた雰囲気のある彼が、このときばかりはどこかあどけなく映った。
その日、いつもの駅で緒形と別れたあとも、菜穂は奇妙な高揚感に包まれていた。
キス以上のことをしたい──そうか、そうなんだ。緒形くんが、私と。
なんだか自分が大人になったような気がした。クラスでも目立たない地味な自分に、まさかそんな機会が訪れるとは。
だからこそ、家に帰り、気持ちが落ち着いてくるにつれて「本当にいいのだろうか」と焦りが生まれてきた。
もしかして、自分はとんでもない約束をしてしまったのではないか。まだ高校生の自分たちが、そういう付き合いをするのは早すぎるのではないか。
そもそも、彼は私なんかで良いのだろうか。ただでさえ、一部の女子生徒たちから陰であれこれ言われているというのに。
さんざん迷った末、菜穂は彼にメッセージを送ってみた。
──「やっぱり泊まれないかも」
既読はついた。けれど、返信はない。
耳の奥でドクドクと音がする。まるで、心臓が後頭部のあたりに移動してきたかのようだ。
やがて、軽やかな音がした。待ち望んでいた返信だ。
──「嫌ってこと?」
菜穂の親指が、宙で止まった。
真っ先に脳裏に浮かんだのは、意外にも緒形の顔ではない──彼と普段から親しくしている女子生徒たちのひそひそ声だ。
──「緒形の気持ちはわかるよ、フリーだといろいろ面倒だもんね」
──「でも、だからって三辺さんはないでしょ。だって……ねぇ?」
──「そうそう……ねぇ?」
そうか、こういうことか。おそらく、彼女たちは、こういうときに菜穂がためらうことを見抜いていたのだ。
苦い思いが、胸いっぱいに広がった。緒形や彼女たちと、自分との違いをまざまざと見せつけられたような気がした。
それでも、彼を好きだという気持ちに偽りはなかった。
置いていかれたくない。お互いの間に存在する大きな溝を、なんとか乗りこえてしまいたい。
菜穂は、大きく息を吐き出した。
──「嫌じゃないよ」
既読はすぐについた。
けれど、またもや返信が届かない。
再び、耳の奥あたりでドクドクと音が鳴りはじめる。もう少し心を落ちつかせたくて何度も深呼吸をしていると、ポンッとメッセージが表示された。
──「じゃあ、それで」
菜穂は、その短いメッセージを復唱した。じゃあ、それで。それで。──それで?
(え……?)
つまり、週末にそういうことをする、ということなのだろうか。
菜穂はメッセージアプリを開いたまま待機する。
けれど、早鐘のようだった鼓動がだいぶ落ちついてもなお、緒形から追加のメッセージは届かなかった。
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