7・「雪野」という名前

 緒形は、ビールジョッキをテーブルに戻した。

 その間も今も菜穂から視線を外さなかったのは、様々な思いが脳裏をかけめぐっていたからだ。

 今のどういう意味? なんでそのことを知ってる? いつから? まさか高校時代から?


(──そうだ、思い出した)


 たしか、彼女は自分で気づいたのだ。緒形が、自分の「雪野」という名前を毛嫌いしていることを。


「三辺、記憶力がいいなぁ」


 敢えて朗らかな声をあげたにも関わらず、菜穂は気まずそうに身じろぎした。


「なんとなく……そうじゃなかったかなって」


 ぽつんと答える目の前の菜穂が、高校時代の彼女と重なる。おかげで、当時の菜穂とのやりとりも、うっすらとだが思い出すことができた。

 そう、あのとき、自分は──


「しょっちゅう女と間違えられるからなぁ、俺の名前」


 こんなことを口にしたはずだ。

 それに対して、彼女の反応は──


「でも、きれいな名前だよね。まるで情景が浮かぶみたい」


 お世辞ではない、おそらく心からそう思っているのだろう。

 加えて、高校時代の彼女は「生まれた日に雪が降っていたとか? それとも病院から真っ白な野原が見えたのかな」など、いろいろ推察してくれたものだった。


(ぜんぜん、そんなんじゃないんだけどな)


 あいにく、この名前はそのような美しい理由でつけられたものではない。

 そのことを緒形は10代のころから知っていたが、これまで誰にも伝えたことがなかった。それこそ、菜穂にすらも。

 だから、今回も本音を隠すように、さらに朗らかな笑みを浮かべてみせた。


「じゃあ、これからは名前で呼んでみる?」


 答えは「イエス」でも「ノー」でも良かった。

 なにせ、もういい大人だ。「名前が嫌い」などという子どもじみた理由で、恋人の要望を拒絶するつもりはない。

 なのに、菜穂は怯んだような顔つきになった。

 その理由を図りかねているうちに、彼女は「そうだね、考えておく」と早口で答え、通りかかった店員を呼び止めた。


「すみません、注文いいですか?」


 カプレーゼ、キャロットラペ、シーザーサラダ──「ああ、女ってこういうメニュー好きだよな」というものを、菜穂は次々とオーダーしていく。


「あと『塩唐揚げ』と『マグロのカルパッチョ』と……」

「あ、これも。『枝豆のガーリック炒め』」


 ふと目についたメニューを追加で頼むと、菜穂は何か言いたげにこちらを見た。


「──え、ダメ?」

「そんなことは……ないけど」


 黒々とした目が、困惑したように泳ぐ。どう考えても「そんなことはない」という表情ではない。

 緒形はため息を飲み込むと、店員に営業マンらしい笑顔を向けた。


「すみません、やっぱりキャンセルで──」

「あ、いいの! いいです、そのままで」


 店員が去り、再びふたりきりになったところで、緒形は「どういうこと?」と訊いてみた。

 菜穂の視線が、再び泳いだ。おそらく答えたくないのだろう。それでも辛抱強く無言を貫くと、やがて観念したようなため息が届いた。


「こういうとき、男の人はにんにくとか平気なんだなって」

「えっ、だってうまいし。そりゃ、仕事中ならさすがに控えるけど」


 今はプライベートだし──そう続けようとしたところで、緒形は口をつぐんだ。

 いつのまにか、菜穂の表情がひどく硬いものになっていた。


「あの、忘れてないよね」


 それは、蚊の鳴くような小さな声だった。


「このあと──してくれるんだよね?」

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