5・正しい思い出

『もうさぁ、日直の仕事、多すぎだっての!』


 緒形の耳に、隣の席の女子たちの会話が聞こえてきたのは、たしか昼休みのことだ。


『しかもさぁ、オノダも今日に限ってあれこれ押しつけてきてさぁ。こんなの、居残りほぼ確定じゃん』


 オノダ、というのは当時の緒形たちのクラスの担任だ。彼は、自分がやるべき雑用をたまに生徒に手伝わせることがある。その被害を被るのは、たいていその日の日直だった。


『怠い。最悪。運悪すぎ』


 そうこぼす日直の女子生徒に、別の女子が『そんなの無視すればいいじゃん』と軽く言い放つ。


『それか、別の誰かに代わってもらえば?』

『誰かって?』

『ヒマそうな人。たとえば──三辺さんとか?』


 この「ヒマそうな人」というのは、言いかえれば彼女たちにとっての「押しつけてもいい人物」だ。

 わかっていながら咎めようとしなかったのは、単に「面倒くさかったから」。どうせ、緒形が口を出したところで、彼女たちが素直に聞き入れるはずがない。

 よって、このときの緒形は「三辺も気の毒になぁ」と聞き流し、それきり忘れてしまっていたのだ――放課後、菜穂と出くわすまでは。

 その日、なぜ自分が居残りしていたのかは覚えていない。大方、どこかの女子生徒に中庭まで呼び出されたか、隣のクラスの気の合う連中とダラダラおしゃべりをしていたのだろう。

 それらも一段落して、さて帰るかと教室に荷物を取りにいったときだ。

 窓際の席で、菜穂がひとり机に向かっていた。

 それで、ようやく緒形は昼休みのあれこれを思い出したのだ。


(うわ、本当に押しつけたのか)


 女子って怖ぇ、と思いながらロッカーを開ける。その音が思ったよりも大きく響いて、菜穂が驚いたように振り返った。

 目が合った瞬間、緒形が真っ先に感じたのは気まずさだった。別に、菜穂に何か言われたわけではない。ただ単に目が合っただけ。それでもなんだか座りが悪くて、気がついたら緒形は自ら口を開いていた。


『三辺、なにしてんの』


 菜穂は「ちょっと……いろいろ終わらなくて」と言葉を濁した。口元には困ったような笑みが浮かんでいて、そのことがますます緒形をいたたまれなくさせる。

 それで、つい余計なことを口走ってしまった。


『それ、日誌? こんな時間まで書いてたんだ?』


 菜穂の微笑みが、わずかに強張った。そのまま視線を落とした彼女は、独り言のように「日直の仕事、思ってたより多くて」と呟いたあと、いきなりぽろぽろと泣き出した。

 これには、さすがの緒形もギョッとした。当然、泣かせるつもりなどなかったから、菜穂の反応はまったくの想定外だ。

 焦った緒形は「ちょっと待ってて」と言い残すと、猛ダッシュで校内の自動販売機に向かった。それで、いかにも女子が好きそうな「いちごミルク」を買って、菜穂に差し出した――というわけだ。

 そう、緒形にとって、一連の行動はただ単に罪悪感を誤魔化すためのものだ。彼女が日直の仕事を押し付けられそうになっているのを、知っていながら知らんぷりをして、挙げ句の果てに泣かせてしまって――そのいたたまれなさから逃れるために、飲み物を差し出したに過ぎないのだ。

 なのに、彼女は濡れた目を瞬かせたあと「ありがとう」と微笑んだ。

 なんの他意もなさそうなその笑みに、緒形の鼓動がはじめて大きく跳ねた。


(あれ、三辺ってこんな感じだったっけ?)


 思えば、それがはじまりだった。

 その日以来、彼女のことが気になりだした緒形は、ゆっくりと距離を縮め「付き合って」と告白するのに1ヶ月をかけた。当時、ノリと勢いで交際を決めることが多かった緒形にしては、かなり慎重だったといえるだろう。

 ちなみに、あのとき菜穂が泣いた理由を知ったのは、交際がはじまって1週間ほどしてからだ。


『あの日、本当は映画の試写会に行く予定だったの。どうしても観たかった映画で、たくさん応募ハガキを出して、ようやく1枚だけ当たって、なのに日直の仕事がぜんぜん終わらなくて……ああ、なんで私、こんなことしてるのかなぁって。そう思ったら、なんだか泣けてきちゃって』


 その映画は、後日ふたりで観に行った。

 彼女は「やっと観られた」「付き合ってくれてありがとう」と嬉しそうにしていたけれど、緒形にとっては最後まで気まずさを拭えなかった、やはり苦い思い出だ。


「ありがとう」

「うん?」

「ココア。ちょうど甘いのが飲みたかったから」


 27歳の菜穂が、疲れたような笑みを浮かべている。

 あれから十年、お互い大人になったはずだ。

 なのに、今のこの状況はあの頃となんら変わらない。あいかわらず菜穂の目は赤く、そのくせ無理に笑おうとして――そんな彼女の前で、自分は中途半端な態度しかとれないのだ。


(怠いことしてんなぁ、俺)


 土曜日にあんなことをする前に、まずは菜穂に忠告するべきだった。あるいは、喫煙室で浜島を咎めるべきだった。

 なのに、そのどちらもやらず、中途半端に足を突っ込んだ。その結果が、おそらく「今」なのだ。


(ってことで間違ってないよな……三辺が泣いてる理由)


 緒形は、ふと不安を覚えた。

 冷静に考えてみると、菜穂の口から「浜島のことで泣いています」と聞いたわけではない。ただ、週末のあれこれや、先ほどまでの自分に対する彼女の反応を見る限り、他に要因が思い浮かばない。

 いちおう確認してみるべきか。だが、もしもそのとおりなら、ようやく笑顔を見せてくれた菜穂の傷口を新たに抉ることになる。


(けど、やっぱり気になるし……いや、でも……)


 柄にもなく迷っていると、ココア缶に目を落としたままの菜穂がポツと口を開いた。


「この間の、まだ有効?」

「えっ?」

「『俺と付き合って』って言ってくれたの、まだ有効?」


 今度こそ、緒形は言葉を失った。

 まさか、菜穂からその話を振ってくるとは思ってもみなかったのだ。


「あーもちろん?」


 語尾が疑問形になったのは、彼女の真意がわからなかったから。記憶違いでなければ、交際を申し込んだ緒形に菜穂はこれまでにないほど怒りを爆発させたはずだ。


(まあ、あの反応も当然だったけど)


 なにせ、付き合ってほしい理由が「厄除け」だ。とっさにひねり出したものとはいえ、言い訳としてはあまりにもひどすぎる。営業先でこのレベルの失態をおかしたら、間違いなく契約を切られているだろう。

 なのに、あれだけ怒っていたはずの彼女が、再びその話題を持ち出そうとしている。

 身構える緒形に、菜穂は小さな笑みをこぼした。


「交際、してもいいよ」

「……えっ」

「でも、ひとつだけ条件があるの」


 ああ、彼女らしくない表情だ──とっさにそう感じた緒形に、菜穂はさらに「彼女らしくないこと」を口にした。


「緒形くん、私のこと抱ける?」

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