4・涙

 中途半端な時間帯のせいか、休憩室には誰もいなかった。

 そのことに、緒形は内心胸をなでおろしながら「座って」と一番奥の椅子を示した。

 正直なところ、ここに辿り着く前に、菜穂に逃げられるのではと思っていた。

 けれど、いざ歩きだすと、彼女は案外素直に着いてきた。もっとも、単に逆らう気力がなかっただけなのかもしれない。それくらい、今の菜穂はぐったりと萎れている。


「なにか飲む? コーヒー飲めたっけ?」


 休憩室に設置された自動販売機で、まずは無糖の缶コーヒーを購入する。

 もう一本は違う種類のコーヒーでも――と指をのばしかけたところで、ふとココアが目に入った。


(そういえば、三辺って……)


 緒形は、しばし考えこむとココアのボタンを軽く押した。そうして購入したばかりのドリンク缶をふたつ、菜穂の前にトントンッと並べた。


「好きなほうをどうぞ」

「……別に……」

「遠慮なく。『仕事の相談』のお礼だから」


 菜穂は、困惑したように緒形を見た。おそらく、何か裏があるのではと勘繰っているのだろう。

 それでも気にせず「どうぞ」と手を添えると、やがてためらいながらもココアを手に取った。


(やっぱり)


 己の記憶の正しさに、緒形は少しだけ誇らしい気分になった。

 そう、高校時代の彼女は、よく甘い飲み物を口にしていた。

 放課後、公園のベンチでおしゃべりするとき、その手にあるのはいつも缶のココアやミルクティーで、それを指摘すると「苦いの、苦手だから」と恥じらうようにうつむいた。今よりもつるりとしていた頬がうっすらと赤く染まっていたのを、緒形は今でも覚えている。


(まだコーヒーとか苦手だったりして)


 ──いや、さすがにそれはないか。

 今の自分たちは、20代後半の「いい大人」だ。


「あの、仕事の相談ってどんなこと?」


 缶コーヒーのプルタブに指をかけたところで、菜穂がためらいがちに訊ねてきた。


「私、緒形くんのチームの担当じゃないから、あまり相談にのれないかもしれないけど」

「あー」


 そんなことはわかっている。

 わかっていて、ここまで引っ張ってきた。


(だって、放っておけないだろ。昔なじみとして)


 とはいえ、仕事を口実に連れてきたのだ。何かしらそれらしい相談を持ちかけなければいけない。

 さて、どうしようか。空腹のせいで反応が鈍い頭を、緒形はなんとか働かせようとした。

 けれど、彼がそれらしい言い訳を思いつくよりも先に、菜穂が消え入りそうな声で呟いた。


「もしかして、嘘だった?」

「えっ」

「仕事の相談って、嘘だよね?」

「いや……まあ……」


 つい返答を濁してしまったのは、それが正解だったから。そして「まあ、バレるよな」という諦念からだ。

 そんな緒形の態度を、菜穂もそれなりに正しく読み取ったらしい。


「そうだよね……私に仕事の相談とか、どう考えてもおかしいし」

「いや、そんなことはないと思うけど」

「じゃあ、面白かった?」


 菜穂の目から、つっと涙が伝い落ちた。


「職場で泣き腫らしてるみっともない女、面白いからからかってやろうとでも思った?」

「それはないって!」


 あまりにもの言われように、さすがの緒形も即座に否定した。


「ていうか俺、そこまでひとでなしに見える?」


 見えないだろう、と同意を求めたつもりだったが、返ってきたのは恨めしそうな眼差しだ。


(……マジか)


 正直、ショックだ。とはいえ、土曜日の一件を思えば、それもやむを得ないのかもしれない。

 だったら、いっそ悪役に徹するか──と、彼にしては殊勝な、あるいはやけっぱちなことを考えたところで、菜穂が再びぼそりと口を開いた。


「じゃあ、何が目的? 仕事でもなく、からかうつもりでもないなら、どうして声をかけてきたの?」


 問いかけてくる声に棘があるのは、やはり緒形を信用していないからだろう。

 しかも、言外から伝わってくるのは「どうして放っておいてくれなかったの」という恨み節だ。緒形としては、またもや「いやぁ」と言葉を濁すしかない。

 それでも、もし彼女が営業先の取引相手なら、いくらでも耳障りの良いフレーズを口にできただろう。「泣いている三辺を放っておけるわけないだろう」「俺で良ければ、胸くらい貸せるかなと思って」──

 けれど、菜穂にそれらを口にするのは抵抗があった。

 理由はわからない。ただ、なんとなく気が進まなかったのだ。

 結果、緒形はたび「いやぁ」と言いかけた。けれど、それより先に、菜穂が小さく鼻をすすった。


「こういうの、二度目だよね」

「二度目?」

「高校時代のことだから、緒形くんは覚えてないだろうけど……二度目なんだよ、こんなふうに声をかけてもらうの」


 緒形は面食らった。まさか、彼女のほうから昔の話をふってくるとは思ってもみなかった。

 実は、菜穂と再会した際、緒形が最初に感じたのはうっすらとした拒絶だ。「話しかけないでほしい」「知り合いだと周囲に知られたくない」──おそらく彼女は、高校時代の自分との交際をなかったことにしたいのだろう。


(いわゆる「黒歴史」ってやつなんだろうな)


 それなのに、そんな菜穂が今、自ら当時の思い出を話そうとしている。

 緒形は、迷った末に「いつの話?」とだけ訊いてみた。


「たしか10月とか11月とか……それくらい。すごく夕焼けのきれいな日で、私は教室で学級日誌を書いていて」


 菜穂の手が、ココアの缶を包みこむ。


「私、昔から要領が悪くて……その日も、日直の業務がぜんぜん終わらなくて。そんな自分が情けなくて、落ち込みながら日誌を書いていたのかな。そしたら、後ろの出入口から緒形くんが入ってきて『あれ、三辺なにしてんの?』って。それで日誌を書いてるって伝えたら、緒形くん、ふらっと教室を出ていって──しばらくしてから『差し入れ』って紙パックのいちごミルクをくれたの」


 びっくりしたけど、嬉しかった──そう語る彼女の唇に浮かんだのは、今にも消えてしまいそうなくらいのほのかな微笑みだ。

 緒形は、またもや返答を躊躇するはめになった。

 まず、いくら昔の話とはいえ、今の菜穂から好意的な感情を向けられるとは思ってもみなかった。

 同時に──彼女が思い違いをしていることにも気がついてしまった。

 彼女が語った思い出話は、おそらく緒形のほうが正確に覚えている。

 それも、だいぶ苦い思い出として。

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