3・知りたくなかったこと

 さて、物語は、緒形が菜穂を見かけた少し前までさかのぼる。

 そのころ、菜穂は女子トイレの個室に閉じこもって、何度も鼻をかんでいた。

 早く仕事に戻らなければ――頭ではそうわかっているのに、偶然耳にしてしまった浜島の声がよみがえり、つい涙があふれてしまう。


(あんなの、聞きたくなかった)


 悪い夢だと思いたかった。

 でも、この耳ではっきりと聞いてしまったのだ。


 ――「あーあ、絶対処女だと思ってたんだけど」


 ダメだ、また涙があふれてくる。目元をハンカチで押さえながら、菜穂は30分前の出来事を思い返した。

 今朝、営業から頼まれていた修正原稿は、予定よりも1時間早く制作担当者からあがってきた。そこで、少し緊張しながらも、菜穂は浜島のいる校正作業室へ向かったのだ。


(もし、作業室にいるのが浜島さんひとりだったら……)

 

 まずは、土曜日の一件を謝ろう。

 可能なら、緒形とのことは誤解だと伝えてみよう。

 だが、パーテーションの奥から聞こえてきたのは、浜島以外の声だ。残念ながら、今、作業をしているのは彼だけではないらしい。


(だったら、せめてお詫びだけでも……)


 菜穂は、ポケットから付箋を取りだした。けれど、そこに謝罪の言葉を書き記そうとしたところで、気になる会話が聞こえてきた。


『えっ、じゃあ、デートしなかったんすか?』

『そう、まあ……いろいろあってさ』


 答えを濁したのは、間違いなく浜島だ。ということは、彼らが話しているのは、十中八九土曜日の一件についてだろう。


『いろいろって、なんすか?』

『いろいろはいろいろだよ』


 詳細を語ろうとしない浜島に、最初は胸をなでおろした。あんな屈辱的なやりとりを広められたら、菜穂としてはあまりにもやりきれない。


(やっぱり浜島さんはいいひとだ)


 彼が言葉を濁したのは、きっと自分への配慮に違いない――そう思った矢先だった。


『けど、まあ、処女ではないっぽい。そこはほぼ確定』


 すっ、と足元が冷えた。それくらい、浜島が発した言葉からは下卑た気配が伝わってきた。


『え、なんでわかったんっすか? デートしなかったんっすよね?』

『しなかったけど、わかったっつーか……むしろ、あれはめちゃくちゃ遊んでるな』

『マジすか? あの三辺さんが?』

『おう、マジマジ』


 違う、誤解だ。自分は、誰かれ構わず関係をもつようなことは一度もしていない。

 もちろん、土曜日の緒形とのやりとりを目にした浜島が、誤解するのは理解できる。

 だからこそ、どうか弁解させてほしい。あれは、緒形が自分をからかっただけで、それ以上のなにものでもないのだと――


『あーあ、絶対処女だと思ってたんだけど』


 菜穂は、目をみひらいた。


『あ、やっぱ、そこは残念っすか』

『そりゃ、そうだろ。だって今どき貴重じゃん、27歳で処女なんて。そりゃ、食べてみたくもなるでしょ』


 ばちん、と何かが弾けたような気がした。

 それが浜島への好意か、緒形への怒りか、あるいは土曜日以降ずっと続いていた緊張感なのか、今の菜穂には判断できない。

 ただ、この瞬間、たしかに菜穂は何かを失った。そのことだけは、はっきりと理解できたのだ。

 そこからの彼女の記憶は、かなり曖昧だ。

 たまたまやってきた別の校正者に声をかけられ、我に返った菜穂は、浜島宛ての原稿をその人に託した。

 それから部署に戻り、クライアントから戻ってきた他の原稿の確認をしようとしたものの、どうしても頭が働かずに、いったんトイレに向かった。

 そして、そのまま個室に閉じこもった、というわけである。


(情けない)


 仕事中にも関わらず、仕事とは関係のないことで振りまわされていることが。


(情けない)


 浜島がデートに応じてくれた真意に、ずっと気づかなかった自分が。


(情けない)


 こんなところで泣くばかりで、それ以上のことは何もできない自分が。

 菜穂は、短くしゃくりあげると、トイレットペーパーを巻き取って鼻をかんだ。

 今となっては、緒形にデートを邪魔されて良かったのかもしれない。

 とはいえ、彼に感謝する気持ちはみじんもない。だって、これは結果論だ。緒形が自分をからかおうとしたことが、たまたま良い方向に転がっただけなのだ。


(悔しい……)


 どうして自分がこんなめにあうのか。

 簡単だ、処女だからだ。27歳にもなって、誰とも深い関係になったことがないからだ。


(もう嫌だ)


 こんなのいらない。どうせ、鼻をかんだあとのトイレットペーパー並みの価値しかない。

 いつか好きな人と――なんて贅沢も望まない。

 そもそも、身の程をわきまえるべきだったのだ。


(10年前、拒絶されたあのときから……)


 なのに、つい高望みしてしまった。「初めてはやっぱり好きな人と」などと、10代の少女のようにこだわってしまった。


(でも、もういい。誰でもいい)


 菜穂は、ようやく個室を出るといつになく乱暴に手を洗った。

 洗面台の鏡には、案の定ひどい顔をした女が映っていた。崩れ気味のアイメイク、赤く染まった目、鼻のあたりのファンデーションもこすりすぎてずいぶんな有様だ。


(みっともない)


 でも、ある意味、今の自分らしいのかもしれない。

 みじめで情けなくて恥ずかしい、アラサーの女。


(しかも、処女)


 唇に浮かんだ、自嘲っぽい笑み。

 とはいえ、この顔のまま自席には戻れない。すぐさま千鶴あたりに「どうしたの!?」と質問攻めにあうだろう。

 せめて、赤くなった目だけでも何とかしなければ。

 ハンカチで手を拭いながら、どこで時間をつぶそうかと考える。

 いちばん無難なのは、ビルの裏手にあるカフェだ。もともと勤怠に厳しくない社風のせいか、業務中の外出は、常識の範囲内ならば咎められることはない。テイクアウトでさっと買い物を済ませ、部署に戻るころにはきっと目の赤さも落ちついているだろう。


「……よし」


 ポケットに交通系ICカードがあるのを確認して、菜穂はトイレを出た。

 今日は、いつものカフェラテにホイップクリームをのせよう。それから、ハチミツもたっぷりと。こんなときだからこそ、元気が出る甘いものを口にしたい。

 それなのに、エレベーターホールに着く前に、菜穂の心はぺしゃんとつぶれた。


「……三辺?」


 とっさに足を止めてしまったことを、菜穂はすぐに後悔した。

 もし、ここで立ち止まらなければ、聞こえなかったふりをしてそのまま立ち去ることができたはずなのに。

 菜穂は、うつむいた。できればこのまま無言を貫きたかった。

 けれど、緒形はわざわざ菜穂の前に回り込んでくる。


「三辺、どうした?」


 問いかけの語尾が、ハッとしたように揺れた。それだけで、今、自分がどれだけひどい顔をしているのか、容易に想像できてしまった。


「三辺、何が……」


 もう耐えられなかった。

 菜穂は、半ば強引に緒形の横をすり抜けようとした。


「いやいや、待てって! どうしたんだよ、一体」


 二の腕を強い力で掴まれて、菜穂の喉がひくりと動く。

 別に何もない。あなたには関係ない。

 そんな言葉が次々と浮かぶのに、今、口を開いたらまた泣いてしまいそうで、どうしても声にすることができない。

 仕方なくかぶりを振ることで、菜穂はなんとか緒形から逃がれようとした。

 なのに、緒形の手の力はまったく緩まない。それどころか、望んでもいない提案をしてくる。


「とりあえず一緒に来て。仕事のことで相談があるから」


 ああ、どうして。今から甘いカフェラテを買いに行くはずだったのに。

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