2・その頃「元カレ」は……
(まいったなぁ)
ぽつぽつと空席が目立つ、昼下がりの電車のなか。
緒形雪野は、鞄を抱えたまま、ぐったりと背もたれによりかかっていた。
営業先からの帰り道ではあるが、業務に関することで何かをやらかしたわけではない。むしろ、仕事は驚くほど順調で、異動初月にしては悪くない成績を残せそうな勢いだ。
つまり、緒形のため息の理由は仕事に関することではない。
プライベートだ。先週の土曜日の一件だ。行くつもりのなかった「渋谷ハチ公前・18時」に、つい足を運んでしまったことが原因だ。
(なにやってんだろ、俺)
他人の恋路に首を突っ込むなんて、どうかしている。たとえ、それが高校時代の元恋人に関することだったとしても、自分には関係がないはずではないか。
(そもそも、あそこを通りかかったのもただの偶然だし)
たまたまあの時間帯に渋谷を訪れていて、たまたまハチ公前を通りかかっただけ。
そして、たまたま見かけてしまっただけなのだ。元恋人が、それはもう緊張した面持ちで、そわそわと待ち合わせ場所にたたずんでいるところを。
くどいようだが、緒形に他人の恋路に首をつっこむような趣味はない。正義感も大して強くはないので、義憤にかられるような性格でもない。
ただ、あのとき──何度もスマートフォンを確認しながら、不誠実な男を待ちわびている三辺菜穂を眺めているうちに、なんだか「もったいない」と感じてしまったのだ。
(だって、ないだろ……あんなヤツが、三辺に手を出すとか)
菜穂が本当に処女なのか、緒形は知らない。知ったことではない。
ただ、それが事実だった場合、一生に一度であろう「はじめて」を、彼女はあの男に捧げることになる。
その結果、喫煙室の暇つぶしのネタとして消費されるだろう状況が、緒形にはなんだか腹立たしかった。だから、つい余計なことをしてしまったのだ。
(とはいえ、さすがにキスはやりすぎたか)
あの不快な男の目の前で、菜穂の唇をふさいでやったときは、正直「ざまあみろ」と思った。
けれど、冷静に考えてみれば、浜島とはこれから社内で顔をあわせる機会がいくらでもあるのだ。それこそ、また喫煙室でばったりということもあり得るだろう。
それなのに、あんな考えなしの行動をとってしまった。まったくもって自分らしくない。
(またへんな噂を流されるかもな)
それでも、自分はそうしたことには慣れているからまだいい。
だが、菜穂はどうだろう。あの男を起点に「三辺菜穂は、処女のふりをしたとんだビッチだ」などと噂をたてられたら、さすがに申し訳がたたない。
(だって、三辺……そういうのとは程遠いじゃん)
土曜日のデートをぶち壊したあと、興奮状態の彼女を落ちつかせるために、緒形は「付き合って」と口にした。嘘も方便、でも半分くらいは「それも悪くないかな」と思っていた。
けれど、そんな緒形に対して、菜穂は嫌悪と侮蔑をぶつけてきた。
おそらく、彼女の辞書に「一晩だけのお遊び」や「お試し交際」といった文字はないのだろう。そのくせ、本命として選ぼうとしたのが浜島だったあたり、菜穂の経験値の低さがうかがえる。
(まあ、俺と付き合っていたくらいだし……男を見る目なんてないよなぁ)
さて、これからどうしようか。
菜穂にはほぼ確実に嫌われたようだし、浜島ともできることなら顔を合わせたくはない。
(喫煙室に行くのはしばらく控えるとして……問題は三辺か)
浜島に関しては、時間さえ経てば緒形の顔を忘れてくれるかもしれない。
だが、菜穂はそうはいかない。記憶喪失にでもならないかぎり、彼女が緒形を忘れることはほぼないはずだ。
では、極力会わないようにする──というのも、これがなかなか難しい。なにせ、営業部も制作部も同じフロアにあるのだ。廊下や休憩室でばったり出くわす機会など、これからいくらでもあるだろう。
(あからさまに無視するのもなぁ……一部の連中には「元同級生」だってバレちまってるし)
あれこれ悩んだものの答えが出ないまま、緒形は電車を下り、会社に戻ってきた。
さっそく机に貼り付けてあった数枚の付箋を確認し、必要なものには折り返しの連絡をいれる。それも一段落したところで、ようやく遅い昼食だ。
コンビニエンスストアに行くか、弁当屋で唐揚げ弁当でも買うか。ぼんやりと頭をめぐらせながら、エレベーターホールへ向かう。
その途中のことだった。女子トイレから出てきた、三辺菜穂を見かけたのは。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます