第2話

1・最悪な事態

 外出先から帰宅したとき、普段の菜穂ならばいったんリビングに顔を出す。けれど、今はとてもそんな気分にはなれず、そのまま2階の自室に直行した。

 着替えもしないで倒れこんだ彼女を、ベッドのスプリングはやわらかく受けとめた。

 それでも、菜穂の心はまったく癒される気配がない。

 当然だ。今、胸の内にあるのは憤りや悔しさといったマイナスの感情ばかりだ。加えて、頭の中はひどく混乱したままなのだ。


(付き合う? 私が? 緒形くんと?)


 絶対に嫌だ。誰が応じるものか。

 あんなひどい仕打ちをしただけでは飽き足らず、どこまで人を馬鹿にするつもりなのだろう。


(しかも、あんな……)


 1時間前の出来事を思い出し、菜穂はベッドの上で背中を丸めた。

 いきなり交際を申し込んできた彼に、当然菜穂はその理由を問いただした。すると、返ってきたのは……


「だからさぁ、三辺のデートを台無しにした『責任』と? あとは、まあ……厄除け的な? ほら、俺けっこうモテるだろ? そろそろお断りするのも面倒になってきたからさ」


 本社こっちの女性社員、けっこう積極的だよなー、などと笑う彼に、菜穂が絶句したのは言うまでもない。


(最低、最悪、信じられない!)


 あんないい加減な人と、ほんの数ヶ月とはいえ交際していただなんて。

 とはいえ、高校時代から「緒形雪野」という男はあんな調子だったかもしれない。実際、菜穂との交際が周囲に広まったとき、彼と親しい女子生徒たちから苦笑されたのだ。


 ──「やっぱ、フリーだといろいろ面倒だもんね」

 ──「緒形の気持ちはわかるよ、いちおうね」


 そのあと「だからって、三辺さんはないでしょ」と揶揄されていたのも、菜穂自身は知っている。おかげで、彼と付き合っている間、どれだけ肩身の狭い思いをしたことか。


(もう二度と、あんな思いはしたくない)


 付き合うなら、浜島のような誠実なひとがいい。

 なのに、その浜島からは未だ連絡がない。あのあと、すぐにお詫びと、緒形とのことは誤解である旨をメッセージアプリに送っていたが、あいかわらず既読はつかないままだ。


(ブロックされたのかな)


 自分が彼の立場なら、そうしてもおかしくはない。

 菜穂は、さらに背中を丸めた。週明けのことを考えると、今からすでに気が重たかった。

 そんな調子で月曜日を迎えた菜穂は、浮かない気持ちをズルズルと引きずったまま、派遣先に出社した。


「おはようございます」

「おっはよー、菜穂!」


 派遣仲間の千鶴が、さっそく左腕にじゃれてくる。


「どうだった、土曜日」

「……」

「……あれ、もしかして聞かないほうがいい感じ?」


 菜穂は、曖昧な笑みを返して自席につく。

 さすがに、いろいろ相談にのってくれた千鶴には最低限の説明をしなければいけないだろう。

 だが、何をどう言えばいいのか。まさか「偶然、待ち合わせ場所にあらわれた高校時代の元カレに、その場をさんざん掻きまわされて、デートは中止になりました」とでも?


(意味がわからない)


 たしかに、高校時代の緒形にも軽薄な一面はあった。けれど、あそこまでひどいことをする人ではなかったはずなのだ。

 それとも、まだ幼かったがゆえに、そのことに気づいていなかっただけなのだろうか。

 重いため息とともに、菜穂はパソコンの電源を入れた。起動している間、メッセージアプリを確認してみたが、浜島へのメッセージはあいかわらず未読のままだった。


(絶対、怒ってるよね)


 緒形とは違い、浜島は誠実な人だ。それだけに、土曜日の出来事を許してはくれないだろう。


(もうデートできなくてもいい)


 今更そんな図々しいことは考えていない。

 ただ、できれば誤解を解きたかった。それが無理なら、せめて謝罪だけでもさせてほしい。


(でも、どうすれば……)


 うつむきかけたところで「三辺さん!」と声をかけられた。やってきたのは、菜穂が担当している営業部署の女性だ。


「ごめん、金曜日にオッケーもらってた原稿、クライアントから再修正入っちゃった!」


 手を合わせ、深々と頭を下げてくるあたり、もしかしたらかなり修正箇所が多いのかもしれない。


「わかりました。原稿は今……」

「お昼までに、先方の担当者が赤入れして送ってくれるはず」

「では、届き次第ディレクターにまわしますね」

「ありがとう。ついでに校正さんにもまわしておいてもらえる?」

「了解です。15時までにいただければ、今日中に……」


 そこまで言いかけたところで、ハッとした。もしかしたら、そのタイミングで、浜島と言葉をかわせるかもしれない。


「三辺さん? どうかした?」

「あ、いえ……では、校正にもまわしておきますので」

「ありがとう、ほんとごめん! 今度なにかおごるから」


 いえ、と控えめに微笑んで、菜穂は引き出しから付箋紙を取り出した。

 もしも校正室に浜島しかいなかったら、直接謝罪をするチャンスだ。

 あるいは、他に誰かがいたとしても、伝える手段がないわけではない。たとえば、この付箋紙にお詫びの言葉を記して渡すくらいなら──

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