8・土曜日、ハチ公前(その2)

 頭のなかが真っ白になった。

 なぜ、こんな場所で、自分は恋人でもない男にキスをされているのか。

 しかも、相手は緒形だ。あの、緒形雪野なのだ。


(そうだ、私……緒形くんに……)


 そう意識したとたん、菜穂の胸の内にすさまじい羞恥と憤りが沸き起こった。

 すぐさま緒形を突き飛ばした彼女は、その頬を平手で容赦なく叩いた。

 弾けるような音が響き、緒形は短い呻き声を洩らした。かけていたメガネが無様にズレて、周囲には「うわ」とざわめきが広がってゆく。

 それでも、菜穂の怒りはおさまらない。

 ひどい、最低、あんまりだ──そんな言葉を繰り返しながら、菜穂は何度も緒形の胸を叩いた。


「ちょっ、落ち着けって……三辺!」


 ようやく我に返ったのは、彼の口から普段どおりの呼び名が飛びだしたときだ。

 ハッと周囲を見まわせば、すでに人だかりができつつある。このままここにとどまれば、さらに野次馬たちが集まってくるに違いない。


「三辺、来て」

「えっ」

「早く! こっち!」


 緒形に左腕を掴まれ、半ば引きずられるようにその場を離れる。一度だけ、元いた場所を振りかえってみたが、浜島の姿を見つけることはできなかった。

 スクランブル交差点を突っ切り、どこかの路地に入ったところで、ようやく緒形は足を止めた。


「焦ったぁ」


 くすんだ壁に寄りかかった緒形は、しきりにシャツの胸元を引っ張っている。こめかみにはうっすらと汗が滲んでいたが、決して暑苦しく見えないのは彼の整った容姿のたまものなのだろう。


「さずがに喉渇いたな。なんか飲む?」

「結構です」

「なんで敬語?」


 あまりにも気安いその口調に、菜穂は「そっちこそ」と声を荒げた。


「さっきの、あれは何? どうして?」


 なぜ、公衆の──それも、今日デートするはずだった男の目の前で、あんなひどい仕打ちを受けなければいけなかったか。


「もしかして嫌がらせ? 私、緒形くんを怒らせるようなことをした?」

「いや、ぜんぜん」

「じゃあ、どうしてあんなことをしたの!? 説明してよ!」


 なじればなじるほど、感情が高ぶり涙がにじんでくる。

 それなのに、緒形は「うーん」と頭を掻くだけだ。


「まあ、なんとなく? たまたま三辺を見かけたから、ちょっとからかおうかなって──」

「あれが『ちょっと』!? どう考えてもちょっとじゃないよね!?」


 菜穂に言わせれば、完全に度を超えている。ただの「からかい」で済ませられるようなものではない。

 それなのに、当の緒形はまるで悪びれた様子がない。汚れた眼鏡を拭きながら「そこまで怒らなくても」と肩をすくめている。


「『そこまで』って、だって……だって、あんな……」

「キスだろ」

「……え」

「どうってことないだろ、たかがキスくらい」


 菜穂は、打たれたように目の前の男を見た。


(たかがキス……「たかが」?)


 なるほど、彼はこの10年の間にかなりの女性経験を詰んできたのだろう。

 けれど、菜穂は違う。最後にキスをしたのは10年前──それこそ、高校時代の「目の前の男」とだ。

 あれ以来、誰ともキスをしたことはない。当然だ。誰とも遊ばず、深い関係にもならずに今日こんにちまできたのだ。


(なのに、こんな……)


 まさか10年後、こんなにもひどい形で、同じ男性と再びキスをすることになるなんて。


(最悪だ)


 悔しくてみじめで、もはや心はぐちゃぐちゃだ。

 けれども、それ以上にやりきれないのは、菜穂にこんな思いをさせた張本人に、この憤りがまるで伝わっていないことだ。


「わかった。もういいよ」


 菜穂は、ようやくポケットからハンカチを取りだした。


「もういいから……二度と声をかけてこないで」

「それは無理だろ、同じ職場なのに……」

「無理じゃない。すれ違っても無視すればいいだけだもの。私はそれで問題ない」


 そもそも10年前に交際していたこと自体、葬り去りたい過去だったのだ。

 彼との再会など「なかったこと」にしてしまおう。

 今日の出来事も記憶の片隅に追いやって、二度と思い出さないように封じ込めてしまおう。

 堅い決意とともに、菜穂はその場を離れようとした。

 それなのに「いやいや、待てって」と、緒形が目の前に立ちふさがった。


「わかった、謝る! 謝るから!」

「謝らなくてもけっこうです」

「そうはいかないだろ、三辺めちゃくちゃ怒ってるじゃん」


 緒形は真顔でそう言い募ると、やがて「わかった」と息を吐いた。


「じゃあ、責任をとるよ」


 彼の大きな手が、菜穂の両手を捕まえた。


「三辺、俺と付き合って」

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