6・再び、休憩室にて
「もう……菜穂ってば、スマホ見過ぎ」
千鶴に肘で突かれて、菜穂は「そんなことないよ」と慌ててスマートフォンを伏せた。
──「土曜日の夕方、空いていますか?」
──「よかったら、お芝居を観にいきませんか?」
勇気を振り絞って、浜島にメッセージを送ったのが今から30分前のこと。
しばらくすると、軽やかな通知音とともに短い返信が表示された。
──「場所は?」
(場所……)
これは「場所次第では応じてもいい」ということか。それとも、気が進まないけれど返信だけは──ということなのだろうか。
菜穂は、戸惑いながらも「渋谷です」と返した。
それを見ていた千鶴が「劇場と時間も伝えたら?」と助言してくれたので、すぐに「A劇場・18時開場のお芝居です」とのメッセージを追加した。
既読はすぐについた。けれど、そこから返信が届かない。
不安がじわじわと菜穂の胸に広がっていく。
やっぱり、先日の誘いを断ったのはまずかったのか。それなのに、こうして自分から声をかけるのは図々しいと思われたのだろうか。
けれど、浜島は「また一緒に観に行ってもいい」と言ってくれたはず──いや、あれは「映画なら観に行ってもいい」ということで、観劇は興味がないのかもしれない。
そんなことをグルグル考えているうちに、画面に浜島からのメッセージが表示された。
──「18時待ち合わせでもいいかな?」
──「待ち合わせ場所は、劇場前でも駅前でも」
心臓が、わかりやすく跳ねた。これは、ほぼ「OK」と受け取ってもいいのではないだろうか。
(ううん、まだそうと決まったわけじゃない)
菜穂は、緊張した面持ちのまま「では、ハチ公前で」と返した。そのとたん、隣で様子をうかがっていた千鶴が「うーん」と渋い顔つきになった。
「ハチ公前ってめちゃくちゃ人がいるよ? 他の場所にしたら?」
「でも、渋谷ってめったに行かないから、どこに何があるのかわからなくて」
そこからまた返信が途絶え、菜穂は何度もスマートフォンを確認し──そうして今に至る、というわけである。
(たしかに、確認しすぎかも)
けれども、どうしても気になってしまうのだから仕方がない。
既読はついているのだから、メッセージそのものは確認してくれているはずだ。それなのに、返信が届かないというこの状況を、自分はどう受けとめればいいのか。
(もしかして、もう昼休みが終わったとか?)
制作部署の昼休憩はまちまちだ。12時から休めるときもあれば、15時くらいまで一息つけないこともある。もちろん、打ち合わせなどの関係で、早めに休む日もあるだろう。
(だとしたら、メッセージを送ったこと自体、迷惑だったのかも)
あるいは、千鶴に指摘されたとおり「え、ハチ公前!?」と困惑しているのかもしれない。
菜穂は、深々とため息をついた。
どうして、自分はこんなにも気が回らないのだろう。もっと気の利く人間なら──あるいは、もう少しこうしたやりとりに慣れてさえいれば、ここまで悩まずに済んだかもしれないのに。
ともすればスマートフォンにのばしそうになる右手を、菜穂はギュッと握りこむ。
折しも、そのタイミングで、隣のテーブルにいた女性社員たちの会話が耳に飛びこんできた。
「やめときなって。あの人、めちゃくちゃ遊んでるって噂だよ」
聞き耳をたてるつもりはなかった。この手の噂話はよく流れてくるわりに、信憑性が高いとは言い難い。なにより聞いていて楽しいものでもない。
菜穂は、それとなく顔を背けた。
それでも、下世話な会話は否応なく耳に届いてしまう。
「あの人、社内の飲み会とかでも、いつのまにか女の子と消えてるんだって」
「私は、新人の子ふたりに手を出して、めちゃくちゃ揉めたって聞いたよ」
「それってふたまたかけてたってこと?」
「最悪」
「でもさぁ、顔はいいんだよねぇ」
「仕事もできるしね」
隣に座っていた千鶴が「へぇ」と呟く。何食わぬ顔で、しっかり耳を傾けていたらしい。
「で、こっちに来てからはどうなの?」
え、と菜穂はマイボトルにのばしかけていた手を止めた。
「昨日、総務の加原さんとランチに行ってなかった?」
「早……」
「でも、なんで総務? 営業の子じゃなくて?」
「加原さんが誘ったからじゃない? あの人、今、絶賛『婚活中』じゃん」
ほんのりと悪意のにじむ言葉に、他の女性社員たちも含むように笑う。たしかに揶揄された女性は、社内で結婚相手を探しているともっぱらの評判だ。
「あの人、ガツガツしすぎだよねぇ」
「でも、気持ちはちょっとわかる」
「焦るよねぇ、年齢的に」
「で、どんな反応だったの? 緒形さんは」
ああ、やっぱり──菜穂は、唇を強く引き結んだ。
会話のなかのいくつかのワードから、なんとなく緒形のことを話しているような気はしていたのだ。
(そういうところは、今も昔も変わっていないんだな)
思えば、高校時代の緒形もよく女子生徒に囲まれていた。
しかも、彼のまわりに集まってくるのは、クラスのヒエラルキー上位にいるような、華やかで自分に自信がある女の子たちばかりだ。
だからこそ、彼が菜穂と付き合うことになったとき、周囲からはずいぶん驚かれたし、一部の女子生徒たちからは「緒形も趣味が変わったじゃん」と聞こえよがしな揶揄をぶつけられた。あのときの彼女たちの眼差しを、菜穂は未だ忘れることができない。
「ねぇ、『緒形さん』って、あの『緒形さん』だよね?」
こそっと肘で突いてきた千鶴に、菜穂は「たぶん」と小さくうなずいた。
「そっかぁ、残念……せっかくの運命の再会だったのに」
「だから、もともとそんなのじゃないってば」
「でも、元同級生なんでしょ?」
「そうだけど……べつに親しかったわけでもないし」
だから、今の緒形の女性関係がどれだけ乱れていようが、自分には関係ない。
──関係ない、はずだ。
「まあ、菜穂には他にいい人がいるもんね」
千鶴がにやりと笑うと同時に、メッセージアプリの着信音が鳴った。待ちわびていた浜島からのリプライだ。
――「18時ハチ公前、了解」
――「舞台とか久しぶりだから楽しみ」
良かった、と菜穂は心底胸をなでおろした。
(そうだ、今は明日のことだけを考えよう)
高校時代の元カレのことなど、気にかけている場合ではないのだ。
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