5・喫煙室にて
喫煙室のドアを開けたとたん、緒形雪野はむせかえるような煙に包まれた。
先にいた数人の喫煙者たちが振り返り、そのうちのひとりが緒形に軽く会釈をしてくる。たしか制作部署のディレクターだ。数日前、上司を通して紹介された覚えがある。
緒形も軽く頭を下げると、誰もいない隅の灰皿に向かった。
本音を言えば、煙草はあまり好きではない。特にうまいとは思わないし、スーツににおいがつくのも不愉快だ。
ただ、このなかで交わされる会話は興味深い。閉鎖空間であるせいか、内容がいろいろあけすけなのだ。特に、社内の内部事情や人間関係については、耳を傾けておいて損はない。
そのため、緒形は1日に2度、喫煙室に足を運ぶことにしていた。
「うーん……」
隣の灰皿を囲んでいた二人組の男性のうち、ひとりがスマホを眺めながら渋い顔つきになった。
「何? メッセージ?」
「まあ、そんなとこ。ほら、例の……」
「ああ、『処女ちゃん』?」
あまりにもストレートなあだ名に、緒形は咳き込みそうになった。もし、この場に女性社員がいたら「セクハラだ」と訴えられてもおかしくはないだろう。
言われた男性も、緒形と似たような感想なのか「言い方」と苦笑した。
「でも、違うかも」
「なにが?」
「処女じゃないかもってこと。飲んでるとき、膝とかぶつけてみたけど嫌がらなかったし」
「マジで?」
「そう。しかも、なんか焦らされたし」
「じゃあ、昨日は……」
「結局、空振り。まあ、いいんだけどさ」
なるほど、どうやらこの彼は、昨夜「処女」と思われる女性とデートをしたものの、思うような結果にはならなかったらしい。
(ていうか、その女、本当に処女か?)
経験値が低そうな女性なら、膝が触れただけで身を引きそうなものだ。それなのに嫌がらないということは、そこそこ経験があるのではないか。
(まあ、俺ならそのほうがいいけど……処女とか、絶対面倒だし)
とはいえ、自分には関係のないことだ。
緒形は、のびた灰を灰皿に落とすと、半分ほどの長さになった煙草を再び吸い込もうとした。
「でも、そっかぁ……三辺ちゃん、処女じゃないかもなのかぁ」
何気なく聞こえてきたその名前に、緒形は思わず咳き込んだ。
三辺とは、あの三辺菜穂のことだろうか?
確かめたいけれど、いきなりふたりの会話に割り込めるほどコミュニケーション能力が高いわけではない。仕事ならば割り切ってそうしたスキルを発揮するが、本来の彼はわりと他人に壁を作るタイプだ。
ひとまず喉の調子が悪いふうを装いながら、緒形はそれとなく身体ごと隣に向けた。
「お前、名前出すなよ」
「だって『処女ちゃん』って呼んだらいい顔しなかったの、浜島さんでしょ」
「そうだけど、だからって名前はさぁ」
浜島と呼ばれた男も「処女ちゃん」と口にした男も、緒形には見覚えがない。ただ、ふたりとも服装がだいぶラフだから、おそらく制作部署の人間なのだろう。
「でも、ショックだなぁ。処女じゃなかったら」
「なんでだよ」
「だって彼女、今どきめずらしく清楚っぼいじゃないですか」
まあ、たしかに……と緒形はひそかに同意する。
高校時代の三辺菜穂も、清廉な雰囲気を漂わせている少女だった。決して目立つタイプではなかったにも関わらず、彼女に興味をもつ連中が常に一定数いたのは、おそらくあの雰囲気のせいだ。
「いやぁ、でもさ、『今日は帰ります』って拒否しておいて、別れ際しっかり言われたからね。『また会ってくれますか』って。しかも、ちょっとこう……恥じらう感じで」
「あーそれ、たしかに慣れてますね」
「だろ? どんだけ焦らすんだよ、っていう」
まあ、でも……と浜島と呼ばれた男は肩をすくめた。
「処女かも。ってのも、あくまで噂だからなぁ」
「そうなんですか?」
「なんか彼女、誰とも付き合ったことがないんだって。てことは、ふつうに考えれば未経験なわけじゃん?」
「……たしかに」
「けど、この感じだと、付き合ったヤツがいないだけで、実は『そこそこ遊んでまーす』ってことかもなぁ。……それか不倫」
な、と同意を求める浜島に、もうひとりの男は「勘弁してくださいよ〜」と情けない声をあげた。
「もし、そんなんだったら、俺、女性不信になりますって」
「いいじゃん、社会勉強ってことで」
浜島は事もなげに笑うと、残っていた煙草を灰皿に押しつけた。
「ま、ほんとのとこは今週末わかるから」
「マジすか」
「土曜日18時、ハチ公前」
「うわぁ、ハチ公前で待ち合わせなんて高校生みたいっすね」
「でも、渋谷は泊まれるとこが多いからなー。そこがいいところ」
もうひとりの男も煙草を吸い終わったのか、ふたりは並んで喫煙室を出ていく。
緒形は、詰めていた息を吐き出した。その瞬間、てのひらに熱い痛みが走って、思わず声をあげてしまった。
喫煙室に残っていた数名が、何事かとこちらに目を向ける。
緒形は曖昧な笑顔で誤魔化すと、すっかり短くなってしまった吸い殻を灰皿に落とした。
(「土曜日18時・渋谷ハチ公前」……)
胸の内で繰り返したことに、深い意味はない。
今あるぼんやりとした不快感も、単に煙草の灰をてのひらで受け止めてしまったせいだろう。
あるいは「三辺菜穂は誰とも付き合ったことがない」という噂のせいか。
(俺のことはノーカウントかよ)
緒形の記憶が正しければ、自分たちは交際していたはずだ。もっとも、高校時代のほんの数ヶ月、それもキス以上のことはしなかった清らかなものだったけれど。
(俺も、再会するまで忘れていたくらいだしなぁ)
今の彼女が本当に男性経験がなかったとしても、緒形には関係のないことだ。もちろん、その「はじめて」を、先ほどのやにさがった男に捧げることになったとしても。
緒形は、ドアノブに手をのばした。てのひらに再びピリッとした痛みが走って、不快指数がさらに跳ねあがった。
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