4・デート当日
翌日、定時で仕事を切りあげた菜穂は、映画館の最寄り駅で浜島を待った。
男性と、こうしてプライベートで待ち合わせをするのはいつ以来だろう。学生時代──とまではいかないが、パッと答えが出てこないほどには久しぶりだ。
約束していた時刻の5分前に「三辺さん」と声をかけられた。
浜島だ。ラフな服装のわりにおしゃれに見えるのは、彼自身のセンスがいいからだろう。
「ごめん、待たせた?」
「いえ、私も少し前に来たばかりです」
「そっか。よかった」
じゃあ、行こうか、と笑顔でうながされて、菜穂は浜島のあとをついていく。
目的の映画館は、繁華街から少し外れた場所にある。平日の夜ということもあって、客席の埋まり具合は1/3にも満たないようだ。
「座席、勝手に決めちゃったけど良かった? 後ろの真ん中あたりだけど」
「はい、問題ないです」
「よかった。あとは飲み物だよな」
売店には、映画館ならではのオーソドックスなメニューが並んでいる。
「俺はコーラとポップコーンかな。三辺さんは?」
「じゃあ……アイスティーを」
もちろん、自分の分は自分で払うつもりでいた。
けれど、浜島は当たり前のようにふたり分の会計を済ませてしまった。
さらに「ポップコーン、キャラメル味にしたからよかったら食べて」と微笑みかけてくれる。
「ありがとう、ございます」
胸がざわついた。千鶴の指摘どおりだった。やはり、これは「デート」だ。ただの「同僚同士の映画鑑賞」ではないのだ。
座席につくなり、菜穂はアイスティーで唇を湿らせた。映画鑑賞はこれからだというのに、頭のなかはもはや鑑賞後のことでいっぱいだ。
映画が終わるのは21時25分。おそらく、そのあとどこかで夕飯を食べることになるだろう。ファッションビル内のレストラン街なら、ギリギリ入れるかもしれない。ダメなら居酒屋といったところか。
問題はそのあと、終電が近くなってからだ。
(どうしよう)
菜穂は、スカートの上に揃えた両手に視線を落とした。
──「やっちゃいなよ」
千鶴の言葉が、けしかけるように脳裏によみがえる。
けれど、まだ初デートだ。たしかに浜島に対する印象は良いものの、ここから「恋」に発展するとは限らない。
(ああ、でも……)
こうした自分の生真面目さが、足を引っ張ってきたのも事実だ。
大学時代、あるいは社会人になってからも、恋人を作る機会は何度かあったのだ。それなのに「もう少しデートを重ねてから」「もう少し確信を持ててから」と、最初のハードルを前に躊躇してしまった。その結果、皆、菜穂のもとを去ってしまったのだ。
(「勢い」と「ノリ」……だっけ)
たしかに、今の自分に必要なのは、そうした思いきりなのかもしれない。
菜穂は、浜島が購入したポップコーンに手をのばした。ひとかけらだけ口に入れると、香ばしい甘さがじわりと広がった。
「おいしい?」
「はい」
「だったら遠慮しないで、もっと食べて」
浜島が満足そうに微笑んだところで、館内の照明が落ちた。
スクリーンには「近日上映」とされる作品の予告編が流れはじめ、菜穂はもうひとかけらだけ、ポップコーンを口に運んだ。
映画は、前評判どおりの素晴らしい内容だった。おかげで、館内が明るくなったあとも、しばらくの間ぼんやりと余韻に浸ってしまったくらいだ。
けれど、隣からのかすかな笑い声で、さすがの菜穂も我に返った。
「すみません」
「ううん、気持ちはわかるし。いい映画だったよなぁ」
浜島の一言で、菜穂もホッと肩の力を抜いた。
よかった、呆れられたわけじゃない。それに、好きな作品を、同じように「いい」と言ってもらえたことが、単純に嬉しい。
その気持ちをもっと分かち合いたくて、特に身構えることもなくその後の居酒屋に付き合った。
程よくアルコールが入ったことで、さらに気分が舞い上がった。頭のなかがフワフワして、映画以外の話題にも菜穂は楽しく耳を傾けることができた。
コの字に座っていたせいか、気づけば膝頭同士がくっついていた。
内心ドキリとしたものの、それを悟られるのが恥ずかしくて、必死になんでもないふりを装った。
店員に「ラストーオーダーです」と告げられたのは、最終電車が出る30分前だ。
「どうする? 追加でデザートでも頼む?」
「いえ、もうお腹いっぱいです」
「じゃあ、そろそろ出ようか」
くっついていた膝頭が離れた。
そのことに少しホッとしながら、菜穂は鞄に手をのばした。
店を出たとたん、繁華街を走る若い男の子たちと出くわした。「やばいやばい」「マジでギリギリ」などと騒いでいるあたり、彼らも終電が近いのだろう。
「元気だなぁ。俺、終電間近でももうあんなふうに走れないよ」
「私もです」
「だよなぁ、ああいうのって若いヤツらの特権だよなぁ」
で、と浜島は菜穂の顔を覗き込んできた。
「このあとどうする? どこか行く?」
終電間際なのは、お互いわかっている。しかも、平日──明日は仕事だ。
菜穂は、逡巡した。もし、浜島の問いかけが「もう一軒行く?」だったら、悩むことなく返答できていたかもしれない。
けれど、現時点で行き先ははっきり告げられていない。
それをどう受け止めるべきか。「ついに」と思うべきなのか。彼の右腕に手をからめて「行きます」とうなずけばいいのか。
迷う菜穂の耳に、不意打ちのような声が届いた。
「もぉ、ユキノってば立ちなよ〜、ほらぁ」
「やだぁ……立たないぃ」
女子大生っぽいふたりの、ありふれたやりとり。この時間帯では、決してめずらしくもない光景。
なのに「ユキノ」という名前が聞こえただけで、菜穂は動けなくなった。あるいは、彼女たちの他愛のない会話のせいもあったのかもしれない。
「……三辺さん?」
浜島のうかがうような声音に、菜穂はすぐさま我に返った。
そうだ、返事をしなければ。昔の、それも二度と思い出したくもない出来事に引きずられている場合じゃない。
「すみません、このあとですよね」
もう少しお付き合いします──そう返答するつもりだった。少なくとも、ほんの数十秒前までは。
けれど、心が動かない。駅で待ち合わせをして以来、緩やかに積みあがっていた高揚感が、今やすっかり霧散してしまっていた。
やっぱりダメだ。こんな気持ちでついていったら、絶対に後悔する。
「すみません、今日は帰ります。明日も仕事ですし」
力なく答えた菜穂に、浜島は「そっかぁ」と案外軽く返してきた。
「じゃあ、駅まで急ごうか。地下鉄だっけ?」
「はい。浜島さんは……」
「俺は私鉄。この時間、めちゃくちゃ混むんだよなぁ」
まったく変わらない彼の態度に、菜穂はひそかに胸を撫で下ろした。これで、あからさまにがっかりしたような素振りを見せられたら、せっかくの楽しかった時間がすべて台無しになっていただろう。
けれど、そうはならなかった。
そのことが、どうしようもなく嬉しい。
「あの……よかったら、また一緒に映画観に行ってください」
別れ際、菜穂は勇気を振り絞ってそう伝えた。
正直、心臓が暴れ出しそうなほど高鳴っていた。千鶴なら、あるいは同年代の女性たちなら、この程度のことは当たり前のように言えるのかもしれない。
けれど、菜穂にとってはたったこれだけのことでもけっこうな冒険なのだ。
果たして、浜島は「うん」と微笑んだ。
「俺でよかったら、ぜひ」
これも、ありきたりな返答なのかもしれない。
それでも、菜穂は舞いあがった。帰りの電車のなかで、浜島とのメッセージアプリのやりとりを何度も読み返すくらいには。
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